9月18日

(第五部『誕生日会』の前 ←読了推奨です


5:00 ―吉― (ニトロ:スタート)


 ぱちりと、目が醒めた。
 不思議なほどに快適な目覚めだった。
 一息に持ち上げられた瞼をそのまま下すことなく、天井を見つめる。
 ゆっくりと息を吸いこみ、吸い込むのと同じ速度で息を吐き出しながら体を起こしていくと、声が聞こえた。
「オハヨウ、主様」
 声を発したのは、ベッドが寄せられている側とは反対の壁際で凛と背筋を伸ばして正座するアンドロイドだった。切れ長の目を閉じ、顔を凍りつかせたまま、それなのにどこか微笑んでいるような表情で細く唇を動かす。
「主様ノ体内時計ハ『アデムメデス標準時局AIT』ト同期デモシテルノカイ? チョウド今、5時ニナッタトコロダヨ」
 アンドロイドの瞼が静かに持ち上がる。ほんの一瞬、黒い瞳の底にほのかに燃え上がった電子の火が、カーテンに曙光を遮られた暗い部屋の中で星のように瞬いた。
「自分でもびっくりだよ。でも、ひょっとしたら夢の中で時を数えていたのかもね」
 寝ぼけたところもなく、はっきりとした声を聞いたアンドロイドは今度こそはっきりと微笑んだ。
「ダトシタラ、ソリャ随分ト忍耐強イ夢ダネ」
「うん。全く覚えていないのが実にありがたいよ」
 とぼけたようにそう言うと、ユカタを着たアンドロイドの肩が揺れた。機械とは思えぬ人間らしい仕草に笑みを自然と引き出されながら、ニトロは言った。
「おはよう、芍薬」

5:01 ―大凶― (ティディア:スタート)


「それでは、行ってまいります」
 ネコ科由来の獣人ビースターへと変じたヴィタが頭を垂れ、ドアを閉める音もなく退出する。
「よろしく」
 ドアが閉まる直前、そう声をかけたティディアはブラウスのボタンを留めながら茶器の置かれた小テーブルの前に腰かけ、カップを手に取り、女執事の淹れていった紅茶を口にしながら、ちょうどティーポットの上に表示されている宙映画面エア・モニターに目を合わせた。
 画面には先ほどまでサインをしていた書類のフォルダがある。それは『王家』の運営――王城の管理をする部署や、直轄の事業を動かす組織等――に関わる書類だった。そのほとんどは今月末の『誕生日会』に最重要人物が二名追加されたために変更しなければならない諸々の事案への手続きであり、例えば当日の警備体制の強化などがそれであった。とはいえ、現場の者達が優秀に働いてくれているため今のところ大きな混乱はない。書類に関しても『あとは王女様がサインするだけ』といったものばかりだ。
 お陰で仕事も捗り、残す未処理の書類は一つだけ。
「さて」
 それは誕生日会当日の警備に王軍近衛騎兵隊(もっぱら式典専用である)を参加させるための書類であり、そしてその騎兵隊の一部に王家所有の馬を提供する趣旨のものであった。内容を確認したティディアが小テーブルの表面にタッチペンを走らせる。すると、画面中の書名欄にまさしく王女の筆跡が刻まれた。
 必要なだけのサインをし終えたティディアはペンを置くと、小テーブルの天板に表示したキーボードを軽やかに打った。騎兵隊に関する書類から王厩の調教師に当てる一揃えだけは携帯モバイルへ移し、他のサイン済みの書類は全て任意の場所に送信する。それに応じて役目を終えたフォルダが消え、と、すぐにまた新たなフォルダが表示された。
 新たに画面に表示されたフォルダは、全世界から届く王家及び王女宛のメール――アデムメデス星内に限らず時に銀河の果てからも毎日毎時送られてくる膨大なデータをA.I.達が捌き、選別し、さらに王家執務室の担当者が50人がかりで厳選した末のメッセージを納めたものであった。彼女が担当するその数は、週に1000通。これは彼女自身が進んで設定した数字であり、歴代でも飛び抜けた数字である。
(さあ、今回は――)
 ちょっとした思いつきで使いに出したヴィタが帰ってくるまでに、できるところまでやってしまおう、そして、朝の内に半分を処理してしまおうと、彼女は意識を集中させた。
(――面白いの、あるかしら)
 紅茶を一すすり、ティディアはフォルダ内のデータをスライドショーで展開させる。
 ぱっと、最初の文面が表れた。
 と、表れたその文面は一秒間そのまま停止し、そして半秒後には次のメッセージへと移り変わり、移り変わったかと思うとまた一秒半後には新しいメールへ移動する。
 大抵はノンスクロールで一通の文面全体が表示されるが、そうでない場合はやはり一秒単位で次項へとスクロールするようになっていた。稀に現れる外星語や銀河共通語に対しては、思考をそれぞれの言語に切り替える余白を取るために表示時間を二秒と設定してある。ティディアにとって銀河共通語はもちろんセスカニアンやラミラス、アドルル、クロノウォレスといった接触頻度の高い国々や全星系連星ユニオリスタにおいて主要な国の言語は読解可能だが、その他の習得していない言語の場合は事前に翻訳してあり、その旨が本文の前に付記されていた。
 そうやって活字で200通、それらに目を通し終えると、次に表れたのは手書きの文面だった。これまではメーラーにキーボード、ないしは音声で入力されたテキストを相手にしていたが、ここからはコンピューター上で手書きしたメールの他、メモ用紙すら電子文書に取って代わられたこの時世にあっても特別な時には未だに用いられている紙製の手紙――逆に言えばそのような時くらいにしか使われないからこそ高級で特別なものとなった『手紙』が相手である。
 といっても、わざわざ高級な便箋や封筒を用意した者達には残念なことではあるが、ここには全てスキャニング後のデータしか存在しない。後に『選出』されれば直接王女の手にも届くが、そうでなければそのまま倉庫にしまわれることだろう。
 手書きのメールは、先よりも余裕を持って三秒間隔で流されていった。全てが同じフォントで表示できるテキストファイルと違って、こちらにはそれぞれに手の癖がある。アデムメデス書道のハイマスター級の達筆もあれば、文体は美しいのに恐ろしく悪筆なもの、まさに文字を習い立ての子どもの手跡も存在する。三秒ごとに文字通り一変する字面を、しかしティディアは惑わず、時には口元に微笑を刻み、それぞれに個性豊かな200通を優雅に紅茶をすすりながら淡々と走破していった。
 一区切りがついたところで、彼女は一度伸びをした。
 と、その時、居室のドアがノックされた。ヴィタの叩き方だった。
「あら」
 指の動きで部屋付きのオリジナルA.I. ピコに合図し、執事を招き入れる。ロックの外れたドアを静かに開けて入ってきた彼女の姿は、ネコ科の獣人から藍銀あいがね色の髪の麗人へと戻っていた。その両手には大きな袋が提げられている。
「随分早かったわね。食べてこなかったの?」
「折角ですから、ご一緒したいと思いまして」
「そう? 折角出来立てなのに、もう少し待たせるわよ?」
「お待ちします」
 ヴィタは傍に歩み寄ってくると、アデムメデス三大ファストフードチェーンの一つ『トクテクト・バーガー』の袋をティディアの邪魔にならないよう小テーブルに乗せた。
「新しいお茶をご用意しましょうか」
「お願いするわ」
 主人のうなずきに女執事は一礼し、部屋の隅に置いてあったワゴンへと歩いていった。
 そこでティディアはエア・モニターへ目を戻し、最後のカテゴリにあるメールデータを走らせた。
 最後のカテゴリ、それは『選考漏れ』したメールであった。
 王家のA.I.や担当者達のことは信頼しているが、それでも主人と感性を同じくしているわけではない。彼ら彼女らにとっては心の琴線に掛からずとも、ティディアにとっては『ぴんとくる』ものが廃棄の中に埋もれていることが極稀にあるのだ。そのため彼女は、軽く万を超える廃棄の中から50通……幸運に恵まれたたったそれだけを、手心なしのランダムセレクトで表示させるのである。
 それらのメールは、なるほど選考漏れしただけあって内容の薄い、下衆で、下品で、くだらなくて、場合によっては陰謀論や悪い電波に彩られ、最悪に至れば単なる誹謗中傷に過ぎないものも数多い。しかしそれらに時間を食われてもなお、ティディアは一万エーカーの砂利置き場の中からあるかないかの素晴らしい光を放つ宝石を探し出したいのだった。
 さあ、さあ、今回は、どうだろう。望むべく輝きはあるだろうか!?
「……」
 全てのメールに目を通し終えたティディアは、爽やかに微笑んだ。
「――ふふ」
 残っていた紅茶を飲み干し、音を立ててカップをソーサーに置く。ワゴンを押して戻ってきていたヴィタの視線に応えて、彼女はおどけるように肩をすくめた。
「今週も大ハズレ」
 ティディアは相変わらず微笑を浮かべたままであったが、その口角には影があった。
『選考漏れ』の一通に、『彼』などやめて俺と――というものがあったのだ。それに対しては怒りというよりも呆れを感じるばかりだが……いや、やはり腹が立つ。わざわざ自らランダム表示させておきながらこう言うのも何だが、それでもやっぱり憤怒が渦巻く。その『手紙』には知性もユーモアもなかった。筆致も悪く、ラブレターというには詩情に欠け、しかも決まり文句も使いこなせていない。それなのに、悪口雑言を並べた挙句にニトロ・ポルカトなど俺の足元にも及ばぬ男だと? ならば、さあ証明して見せろ――と、ネチネチ地獄を見せてやりたい気もするし、卑しくも『クレイジー・プリンセス』としてはそうしてやるべきだと思いもするが、とはいえそれもきっと面白くない結果をもたらすだけだろう。結局、どうしたって『彼』以上に楽しめる人はなく、私を満たしてくれる男もないのだから。
「……」
 ティディアは、また一つ息をついた。
 そして、その一呼吸だけで、胸中に吹き込まれた悪感情を、悪文の最後に目に飛び込んできたその悪しき名前を、つい今しがた脳裏にかすめた悪巧みをも含めて吐き捨てた。つまらない人間にかかずらっている時間は、何よりも無駄だ。もう既に数十秒も無駄にされたことを思えば新たに憤怒も募る。だが、一度そうやって切り捨ててしまえば、彼女の心がその一通のもたらした影に煩わされることは、もはやコンマ一秒たりとてあり得なかった。
 口角に浮かんでいた影も消え、それを見たヴィタが言う。
「今日は良い天気になりそうです。外で食事などしたら、気持ちが良いでしょう」
「ピクニック?」
 ティディアは、笑んだ。
 瞼の裏に昨晩見た映像が蘇る。それはルッドラン地方のローカルニュースだった。そこでは白い長袖のシャツにオーバーオールを着て、つばの広い麦わら帽子を被った少女が地元の幼児達を引率している光景が好意的に伝えられていた。
「そうね。きっと気持ちがいいわ」
 そう言いながら、ティディアはエア・モニターの可触領域に指を躍らせた。特に気になったメールを再び呼び出すためである。4番、59番、71番、123番、166番……と指定していくと、今回は合計9通あった。これらは改めて精読し、直々に返事をする。物によってはこちらも『手紙』で返信するし、場合によっては記載された希望を叶えることもあるだろう。もちろんランダムの50通はこのまま再び廃棄するだけだが、それ以外のものは執務室に戻し、そこで名代の判断によって何十通かは執務室から返信されることになる。その作業をキリのいいところまでし終えたタイミングで、ヴィタが言った。
「青い芝の上でニトロ様のタマゴサンドを食べたいものです」
 ティディアは苦笑した。
「やあねぇ、今そんなことを言わないでよ」
「ハムチーズサンドもよろしいですね」
「んー、まー、オーソドックスは確かに正義よね」
「はい。ただ、定番からはかけ離れてしまいますが、わたくしとしては、コルサリラペッパーのサンドイッチも一度食べてみたいところです」
「やー、あれはね、流石に地獄よ?」
 軽く頬を引きつらせて言うティディアを……しかし口ではそう言いながらも、もし再び彼から地獄を差し出されてもきっとまた、いや何度だって食べ切ってみせるだろう女性を眺め、ヴィタは小さく微笑み、それから茶器を扱い出した。
 主人と自分のカップを淹れたての紅茶で満たした彼女は次いでワゴンから大皿を二つ取り出すと、それらを主人と、主人の対面の席に置く。それから『トクテクト・バーガー』の袋からオレンジ色のペーパーホルダーに盛られたフライドポテトを取り出し、それぞれの皿へと移す。次に取り出されたのはプラスチックカップに押し込められたサラダだ。プラスチックのフォークとドレッシングを充填した小さな容器がその脇に添えられ、最後にそれ専用の箱に入れられた新製品が並べられる。ヴィタの前にはそれが2セットあり、さらにレギュラー商品であるトクテクト・バーガー・ザ・ビッグとモモ肉をパリッと揚げたフライドチキンが二本追加されていた。
「本日0:00より発売の、トクテクト・リララマ・バーガーのサラダセット、ドリンク抜きでございます」
 まるで最高級店のギャルソンのような素振りでヴィタが言う。
 ティディアは目を細め、小さなうなずきを見せて執事に席を促した。一礼して対面に座る執事のどこかネコを思わせる柔らかさに目を楽しませながら、ティディアはファストフードの箱を開け、少し大ぶりのハンバーガーを片手でしっかりと掴んだ。
 これは、南大陸の一地方、リララマの郷土料理を元にした期間限定品。
 話のネタにでもなればとふと思いついて朝食にした、ライバル会社に水をあけられかけているトクテクト・バーガーの自信作。
 ティディアは大口開けてかぶりついた。バンズと具を齧り取り、もりもりと咀嚼し、飲み込み、
「……」
 そして、派手に宣伝されていたジャンクフードに残った己の歯の跡をじっと見つめる。
「……」
 やおら彼女は対面に座る大食淑女に目を移し、
「どう?」
 既にリララマ・バーガーの三分の二を食べ終えていたヴィタは、涼やかな目元を細めた。
「ティディア様と同意見です」
 そうしてヴィタはポテトを一齧り、それからさっさと新作バーガーを二つとも食べ終えてしまった。次にサラダに取り掛かるが、彼女はドレッシングをかけていない。しかし、それでちょうどいいかもしれない。
「そうねー……」
 ティディアは手のハンバーガーをまた一口頬張り、手にこぼれた辛味の勝ちすぎているソースを舐めとり、眉を垂れた。
「こっちも大ハズレだわ」

5:30 ―中吉―


 朝の身支度を終えたニトロはエプロンを着け、キッチンに立っていた。
 彼の前にはパンや、卵、ジャム、ハムとチーズ、それからレタスやジャガイモ、タマネギ、鶏のモモ肉といった食材が調味料共々さながら料理番組のように並べられている。
 ――いや、実際、彼はこれから料理番組を行うのだ。
 視聴者は、一人。
 そしてその視聴者も、これらと同じ食材を使って弁当ランチボックスを作るのである。
「こんなに早く、ありがとね」
 カウンターキッチンから良く見えるよう角度の調節された壁掛けのテレビモニターに映る少女が照れ臭そうに言う。彼女は明るい茶色のボブカットを三角巾バンダナでまとめ、真新しいピンクのエプロンを着けていた。エプロンの下に覗くのは、半袖の白シャツと、落ち着いたグレーの地にダークブルーを基軸としたチェックのスカート――ニトロの通う高校の、女子の制服である。
「構わないよ。そっちはやけに眠そうだけど、大丈夫?」
「授業で寝るから、問題ない」
 ニトロは笑い、傍らに立つ芍薬に目をやった。芍薬は主の携帯モバイルを持ち、そのカメラ機能を使って並べられた食材を映している。同時に、キッチンに立つ自分の姿も、天井にある部屋付きのA.I.のためのカメラを通して先方に送られている。
「どうかな、よく見えてる?」
 社交辞令として確認すると、クラスメートはうなずいた。
「オッケー。こっちはどう?」
「ばっちりだよ」
 あちらは多目的掃除機マルチクリーナーが携帯を持っていた。オリジナルA.I.は持っていないと言っていたから、全景のカメラと併せて汎用A.I.が動かしているのだろう。普段使いではない作業に少し動きが惑う時もあるが、十分許容範囲だ。ニトロは改めてハンドソープをつけて手をよく洗い、そして言った。
「それじゃあ、ミーシャ、始めようか」
「うん、よろしく」
 ニトロが手を洗うのを慌てて真似するように、あちらも手をハンドソープで洗い出す。手を洗うことなど何でもないはずなのに、その様子はどこかぎこちない。これから行うことへの緊張感が現れていた。
「まずは卵を茹でよう。鍋に卵を入れて、水を入れて」
「このくらい?」
「そう。それを火にかけて」
「これを火にかけて……火?」
「ああ」
 ニトロは驚くと同時に得心した。
 そうか、これは全く料理をしない人には専門用語にも聞こえるのか。
 もちろん通常なら彼女もすんなり理解を及ぼすだろうが、初めての料理で卵を触るのにもガチガチな状態では――加えて、教え手の言う通りにしようと集中している状態では、おかしな混乱を招くのも無理はないだろう。
「単なる決まり文句だよ。クッキングヒーターに置いて、スイッチを入れる」
「置いて、スイッチを入れる」
 一つ一つの挙動がおっかなびっくりな友人を見て、ニトロは元より一番作業数の少なく簡単なレシピを教えようとしていたものの、より一層解りやすく、しかも余計な豆知識など挟まずに教えていこうと心に決めた。無事に鍋を“火”にかけることができて嬉しそうにしている彼女へ、彼は言う。
「それじゃあ、次はね」
「うん」
「一度、深呼吸をしよう」
 昨日の放課後のことだった。クラスメートの、そして今ではニトロにとって数少ない気の置けない友人の一人であるミサミニアナ・ジェードが、『お弁当作りを教えて欲しい』と頼んできたのは。
 彼女はこれまで一度も料理をしたことがない。彼女の家族にも料理が得意な者はなく、もっぱら――そちらの方が一般的なのだが――レトルトやデリバリーを使い、たまに作るにしてもスーパーやフードショップの仕込み済みの食材セットを利用する……ニトロはそれを知っていたから、正直驚いた。しかも、この間まで陸上部のリーダーを務め、普段は男勝り、悪くすればツンケンしていると印象取られる彼女からそんなことを頼まれたのだからなおさらだった。あんまり驚いたから、ちょっと機嫌を損ねて怒られてしまった。
 それでも彼女はニトロへの頼みごとを撤回する気はないらしく、それではと理由を聞いてみたら、何のことはない、晴れて恋人となったクレイグに手作り料理を食べさせたいというのである。
 現在、折からの手料理ブームが、その勢いも衰えることなく盛り上がり続けている。
 それを、ニトロはこれまで他人事のように眺めていた。
 だから、よもやミーシャから『クレイグに手料理を食べさせたいから』なんていじらしく頼まれることになるとは、本当に思いもしていなかった。
 彼女も彼女で仲の良い男友達に、しかも『ブームの発生源』に“流行に乗って恋人らしいことをしたい”と告げることには相当勇気が要ったらしい。快諾した後の喜びようは相当なもので、しかし本人は鶏の胸肉とモモ肉の違いも解らない。そこで買い出しにも付き合おうかと提案したところ、彼女はそこまでしてもらっては悪いと辞退し、かと思えば、たまたま通りかかったハラキリを――あのハラキリ・ジジを、有無を言わせぬ勢いでアドバイザーとして連れて行ってしまった。
「何笑ってんの?」
 ふいにそう言われ、ニトロは我に返った。モニターに目を戻すと、先ほどまで仇敵を睨むような目でジャガイモの皮を剥いていたミーシャが、今度はこちらに険のある目を向けている。どうやらたどたどしさを笑われていると思わせてしまったらしい。
「いや、昨日のハラキリの顔を思い出してたんだ」
 そう言うと、ミーシャはすんなりと合点した。
「最後まで嫌ッそうな顔をしてやがった」
 皮を剥き終えたジャガイモを年季の入ったオールマイティスライサーに入れながら彼女は言う。その調理家電には皮剥き機能もあるのだが、それくらいは自分でやりたいと彼女は己の手をかけたのだ。
 年季の入っているとはいえ使用頻度が低いからだろう、真新しく見える器具の蓋を閉めたところで、彼女はふと宙を見つめ、
「でも、助かった」
 そう言って、スイッチを入れる。たちまちジャガイモが均等にカットされた。そこでニトロが――こちらは皮剥きから全て包丁で――同じくらいの大きさに切り揃えていたジャガイモをプラスチック製の蓋付きの器に移すと、ミーシャも彼に倣い、それを電子レンジに入れた。
「メニューの『ポテトサラダ』・『ジャガイモ』――判らなかったらA.I.にコマンドさせればいいよ」
「えっと……オッケー、判った、で、スタートだね?」
「そう、スタート」
 双方のキッチンでレンジが動き出す。あとは家電に任せておけばいい。食材の重さも自動的に計測し、適切に“火を通して”くれる。
 次にニンジンに取りかかるが、ジャガイモで幾分慣れたらしいミーシャはピーラーで皮を剥きながら、
「ずっとめんどくさそうだったけど、あいつは変に親切なところがあるよな」
「ああ、ハラキリ?」
 話題が戻ったことに気づき、ニトロは相槌を打つ。
「食べ物って高ければ美味しいだろ? だから、初め高い店に行っていいのを買おうとしたんだよ……まずいの作っちゃったらヤだし」
「うん」
「そしたら、値段に頼ってたら小遣いいくらあっても足りませんよって。値段を食わせたいわけでもないでしょう?」
 後半は完全にハラキリの口真似だった。ニトロは笑い、
「それで?」
「何事も適正が一番だって、こっちの財布も考えて、その中で一番いいのを選んでくれた」
「そう」
 ニトロは、笑みを消すことができなかった。ハラキリは、いい奴だ。自分は親友のことをそう思っている。だから、こうして彼が他の友人にも良く思ってもらえるのは、本当に嬉しい。
「主様」
 と、芍薬がニトロに声をかけた。前もってタイムキーパーを頼んでいたのだ。彼はうなずき、
「ミーシャ、先にゆで卵の火を止めよう。スイッチを切って、お湯を捨てて、殻が剥きやすくなるように冷水につけるから――」
 ニトロの指示を追いかけるようにミーシャは慌ててスイッチを切る。あちちと言いながらお湯を捨て、
「うわ!」
 卵が一つ、シンクに落ちた。それを慌てて拾おうとした彼女の顔が瞬時に強張り、
「あつッ!」
「慌てないで」
 悲鳴を上げたクラスメートへ、穏やかに、しかし少し語気強くニトロは言った。彼女の片手に持った鍋は傾いていて、下手をすればなおもシンクの卵を拾おうとしている腕に熱湯を注いでしまいそうになっている。
 と、その時、あちらのマルチクリーナーの持つカメラ経由のクローズアップ映像が激しく乱れた。全景で見るとマルチクリーナーのアームが卵の入った鍋を支えに動いている。やっと『撮影』という命令コマンドを危険信号が上回り、汎用A.I.のサポートプログラムが働いたらしい。
「火傷してない?」
「――うん、何とか」
 流水で少し指を冷やして、そしてミーシャは誤魔化すような照れ笑いを浮かべた。
「失敗するにしちゃ遅すぎたな」
 そのセリフに、ニトロも笑った。
「どれだけ失敗すると思ってたんだよ」
「いきなり卵を割るんじゃないかってびくびくしてた」
「そこから?」
「でもね、実はもう一個割っちゃってたんだ。……冷蔵庫に入れる時に」
 ニトロは映像の隅に見切れている冷蔵庫を見た。その拍子に封の開いたクッキーミックスが目に入る。それは粉と卵を混ぜるだけ、というタイプだった。もしかしたら、ミーシャは昨夜の内にクッキーも恋人のために作っていたのかもしれない。
 興味はあったが、ニトロはそこに探りを入れることはせず、
「俺はワンパック全部やっちゃったことがあるよ」
 あまりのんびりしていては登校時間に余裕がなくなる。ニトロはミーシャに鍋をシンクに置いて、そこに冷水を入れるように言い、
(初めからそうするように言っておけばよかったな)
 思えばつい手早くやらせそうになってしまったと内心で反省しつつ、卵はそのまま冷やしておくようにして、そうこうしている内にジャガイモが仕上がったので、次にニンジンも同じようにカットしてからレンジに入れる。
「そういえば、ニトロはもう進路は決めたのか?」
 キュウリをスライサーで薄切りにしながらミーシャが言う。
「うーん……まあ一応、方向性は、定まってきたかな」
 彼女はスライサーからニトロに目を移し、映像越しにじっと覗き込むように見つめてきた。だが、すぐにスライサーに目を戻し、
「色々大変だもんな、はっきり決めるにしても」
 余計な詮索はせず、かといって過度な同情を込めるわけでもなく、それだけを言う。ニトロは柔らかな苦笑を浮かべ、うなずいた。
「ミーシャは? どっちにするか決めた?」
 キュウリを塩もみする。ミーシャも倣いながら、
「やっぱり大学にしたよ」
「そっか」
 ニトロは包丁で、ミーシャはスライサーでタマネギを薄くスライスする。
「俺もそっちがいいと思うよ」
 すると、ミーシャが不思議な表情を浮かべた。笑っているような、面白がっているような、思い出し怒りをしているような……
「どうしかした?」
 スライスしたタマネギを水にさらす。
「ニトロとハラキリは仲いいけどさ、言い方は全然違うよな」
「ハラキリ?」
 進路の話題に持ち出されてきた意外な名前に、ニトロは眉をひそめた。
「思いっ切りストレートに『そんな決め方はバカだと思いますが』って言われた」
 ニトロは、さらに眉をひそめた。
 ハラキリが他のクラスメートの進路相談に乗るなど聞いたことがないし、“表向きの”彼の態度からすればそれは意外極まることだ。見れば芍薬も驚いたような目をしている。
「昨日、帰りに『トック』に寄ってさ」
 その瞬間、ニトロは理解した。彼女に付き合わされた買い出しが終わって、さあ帰ろうとしたところで再び勢い任せにトック――つまり『トクテクト・バーガー』に引きずり込まれるハラキリの顔が目に浮かんだ。
「ハラキリは早くから進路を決めてただろ? だから、相談してみたんだ」
「うん」
 それを言うならミーシャも早くに進路を決めていた。しかし、クレイグと無事交際し始めた折、彼女はふいに迷ったのだ。彼と同じ学校に?――と。
「そしたらばっさり斬られた。しかも面倒臭そうに『はあ』なんて生返事をしてから言うんだよ。少しは言葉を選ぶべきだとは思わないッ?」
 思い出し怒りが勝ったらしい、ゆで卵の殻を剥きながらミーシャは語気を強める。卵の殻は――ニトロの危惧していた通り――剥きにくそうで、そのイライラも加わっているらしい。
 一方のニトロは、正直、笑いを堪えるのに懸命だった。あまりに情景が目に浮かぶ。しかも、どうせ彼はフライドポテトでも齧りながら片手間とばかりに応えたのではないだろうか。見れば事情を理解したらしい芍薬も堪えきれない笑みを唇に滲ませていた。
「あいつはねぇ、恋する乙女の心を分かってないんだよ」
 ぷりぷりと怒りながら、とはいえ自分で自分のことを『恋する乙女』と言ったことに急に照れを感じたらしくむっつりと頬を固めながら、ミーシャは何とか剥き終えたぼこぼこのゆで卵をボウルに入れる。塩を振ったキュウリの水気を切る時は、半ば怒り任せにぎゅっと握っていた。水にさらしたスライスオニオンも水を切り、後は火を通したそれぞれがしっかり冷めるのを待つ。
 その間に他に使う野菜――ミニトマトやレタス、ブロッコリーや『パチパ』――を洗いながら、ニトロは疑念を口にした。
「そう言うわりに、ハラキリにそう言われて決めたのか?」
 すると、ミーシャは再び不思議な表情を浮かべた。
「それだけを言われたわけじゃないんだ」
「うん?」
「クレイグと同じ学校に行っても、あたしがしたい勉強に、あたしは多分満足できることはない」
 クレイグは会計の専門学校を志望している。ミーシャは経営学を希望していて、確かに恋人の志望学校でも経営学に触れることはできようが、カリキュラム的に元来の志望大学と比較すれば当然見劣ってしまう。
「君のように選択をすることも――」
 ミーシャはハラキリの言葉を混ぜるようにして続けた。
「バカだとは言ったが、全否定はしない。恋愛優先の人生も無論有りでしょう。だから、どうしてもそうしたければそれでいい。しかし、やはりデメリットが多すぎるし、例えば……結局別れてしまったらどうするのか」
 ミーシャが忌々しそうに口にした最後のセリフに、ニトロは内心「うお」と声を上げていた。つくづくハラキリも度胸がある。夫婦に例えれば新婚そのものの相手に対し、彼のことだ、きっとさらっと言ってのけたのだろう。ニトロは半笑いを浮かべ、
「そりゃ、縁起でもない」
「頭にきたからスネを蹴ってやった。それなのに平然としてるからまた腹が立つんだ」
「ハラキリは格闘技もやってるからね」
「どっかのサークルにでも入ってりゃ良かったのになあ、勿体無いよ、ホントに」
 洗い終えた野菜はザルに置いて水を切っておく。ブロッコリーと『パチパ』はレンジにかける。
「でも、言ってることは間違ってないからさ……言い返せなくてさ、でも、そしたらハラキリは『近くにいい大学があるじゃないですか』って」
「ん?」
 風向きが、変わった。
「クレイグの専門学校から電車で二駅、自転車も圏内、有名校ではないけれど商学部は評判がいい、外部生の聴講も歓迎している校風だから彼にもメリットがある。何なら……」
「何なら?」
「編入したっていい」
「……」
 ミーシャは、多分、誤魔化した。
(何なら同棲したっていい、ついでに家賃も浮きますよ――くらいは言ってそうだな)
 ニトロはそう想像したが、ミーシャの表情からしておそらく当たっているだろう。
「ばっさり斬られて、しかもさ、あたしよりあたしの進路に詳しいんだ。逆にすっきりしちゃったよ」
「それじゃあ、そこに?」
「調べてみたらインターンも充実しててね、学生起業への支援制度も色々あって楽しそうなんだ。学力レベルと学費が希望より上なのがちょっとネックだけど、学力はまだどうにか追いつけると思うし、学費も奨学金を考えれば何とかなりそうだからさ」
 その言葉には誤魔化しはないだろう。ブロッコリーとパチパをレンジから取り出しながら、ミーシャは本当に楽しそうに笑っている。
「……」
 ニトロは思う。きっとハラキリは、ミーシャが進路を迷い出したと聞いた時点で既に情報を集めていたのだろう。彼からすれば単なる話のネタとして。しかし、誰かに聞かれなければ彼はそれを口にしない。自分からアドバイスをしようとはしない。関わろうともしない。それは、いや、こう思うのはきっと余計なことなのだろうとは承知している……だが、それはやはり、友達として少し寂しい。
 ニトロは内心で吐息をつくと、意識を目の前の友達に戻し、
「それなら良かった。俺にもできることがあったら協力するよ」
「何言ってるんだよ。ニトロは、自分のことをしっかりやらないと」
 間近に控える最大の難関――鶏のモモ肉に目を落としていたニトロは、ミーシャに言われてハッと目を上げた。そこには、じっとこちらを見つめているクラスメートがいた。
「ニトロこそ、あたしなんかが何かできるとは思わないけど、何かあったら言いなよ? 助けるから」
「……」
 ニトロは、笑った。
「これでも、今でも十分ミーシャに助けられているんだけどな」
 ミーシャは不満気な顔をした。しかしニトロは笑みを崩さない。ミーシャは、肩をすくめた。
「ニトロも、やっぱりハラキリと似てるな」
「俺が?」
 意外な指摘に、ニトロは目を丸くした。
「似てるかなあ」
「似てる。何か隠しているところがそっくりだ」
 ニトロは思わず呻きそうだったところを、何とか堪えた。
「ハラキリが、何か隠してる?」
 自分のことへ話題を振ると思わぬボロが出そうなため、ここにはいない親友にお鉢を回す。ミーシャは、こちらの振りに乗ってくれた。
「ハラキリはね、あたしは絶対本性を隠してると思うんだ」
 自分から振ったとはいえ、ミーシャのそのセリフに、ニトロはぎょっとした。
「本性?」
「人付き合い悪いし、スポーツできるくせに大人しいし、変人な癖に地味だし、浮いてるってわけじゃないけれど一人だし……一人だったし」
 ハラキリは学校では確かにそういう存在だ。どこでも不思議な立ち位置を成立させていて、特に『ニトロ・ポルカト』の友人として、またあの『映画』に助演するまでは本当に目立たない人間だったらしい。もちろん彼は、入学式直後、学校のサイトに『厄介事解決を請け負う』と書き込んでいたことで一時的に名が知れたことがある。それにも関わらず、ハラキリ・ジジという学生はいつの間にか埋没していた。
「あたしは一年の時からハラキリと同じクラスだからよく知ってるけど、ホントならさ、あいつは進路相談に乗ってもらおうなんて思いつくこともできないヤツだったよ。だけど、今は話してみたいと思える。今になってみてだけど、あいつはさ、ホントはもっと明るくて、もっと優しいと思うんだ。不器用なだけで、変人なのは変わりないけれど、もう少しでも心を開いてくれたらずっと付き合いやすいヤツだって思うんだよ」
「……」
「前からしたらニトロもずいぶん変わったみたいだけどさ、あたしから見たらハラキリの方がずっと変わったよ」
 包丁を握りながら、ミーシャは言う。
「でも、それはきっと、ニトロが変えたからなんだろうな」
 ニトロも包丁を握ったところで、そう言われ、彼は目をミーシャに戻した。彼女は鶏のモモ肉と包丁を交互に見つめている。初めて使う刃物に緊張し、その肩は強張っていた。
「……」
 ニトロは、ふと芍薬を見た。芍薬はモモ肉をまな板に載せる主の手元をカメラで追いながら、微笑んでいた。
「これからはあたしも一緒になって変えてやろうかなー」
 ミーシャのそのセリフは、おそらく刃物への緊張を誤魔化すためのものに違いなかった。しかしニトロは――ハラキリが迷惑に思うのは理解しながらも――うなずいた。
「うん。これからも良くしてやってよ」
「任せろ」
 うなずくミーシャの手は、震えている。
「それじゃあミーシャ、また深呼吸をしようか」
 ニトロに言われ、ミーシャははたと目を上げた。ニトロは軽く肩をすくめ、
「そんなに緊張して、いい記録タイムが出るものじゃないだろ?」
 ミーシャはニトロを見つめ、それから口を尖らせた。
「分かってるよ」
「ならいいさ。それじゃあこれから一口大に切るけど、よく見てて。肉を押さえる左手は指を切らないように、こんな感じに丸めて」
「あ、でもさ」
「ん?」
 実践する寸前に慌てたように言われ、ニトロは手を止めて目を上げた。
「あいつは一つだけ大間違いなんだ」
 話題が進路相談のことに再び飛び戻ったことを悟り、ニトロはうなずいた。一方、ミーシャは折角料理を教えてくれている友達を急に制止したことと、一刻も早く訂正しなければならないことに気が急いて、口早に言った。
「あたしとクーたんは、絶対別れないんだ」
「?」
 ニトロは、一瞬、呆気に取られた。
 何だか今、いきなり知らない人物の名が飛び出てきた気がする――いや、否!
「クレイグ?」
 ニトロが問い返すと、はっと、ミーシャの息を飲む音が聞こえた。
「クーたん、って、呼んでるのか?」
 ミーシャの顔が、みるみる真紅に染まっていった。
「今の無し!」
 彼女は叫んだ。
「今の無ァし!!」
 繰り返されたその拍子に、ニトロは思わず吹き出してしまった。
「ああ! 笑うなよぉ!」
 そう言われてはむしろ笑いがこみ上げてしまう。ニトロはもう堪えようとすることもできなかった。
「あっはっはっは!」
「笑うなニトロ! てか、言うなよ!? 誰にも言うなよ!」
 包丁を振り回し、真っ赤な顔でミーシャは叫ぶ。
「言ったら刺すからな!」
「あははははは!!」
「ニトローーー!!」

6:43 ―大凶― (ハラキリ:スタート)


 もやりとした目覚めだった。
 眼を開いても、まだ現実を見られてはいない気がした。
「……」
 ハラキリは体を起こし、頭を掻いた。
 目の前には見慣れぬ風景がある。自室の天井に生える草――タタミもなければ、最近窓に取り付けた鉄格子に紙を貼ったショージもない。ビジネスホテルの殺風景な部屋模様が、周囲に狭苦しく展開している。
「……」
 ハラキリは、夢を見ていた。
 だが、夢にありがちなことに、起きた途端にその内容を忘れてしまっていた。
 しかし、夢の中で何だかやたら面倒な相手と戦っていたことは覚えている。しかも相手は『クレイジー・プリンセス』やら『ニトロの馬鹿力』やら『負いの渡り姫』とはまた違ったベクトルの厄介さで、それをまともに相手にするくらいなら麻薬の密売組織に探りを入れる方がずっと気が楽といったていで……何だろうか、義理とか人情とか善意とか友情とか世に正しいと言われるもの全てが敵……敵? 敵と言い切っていいのかどうかも分からないが、とりあえず味方ではなくなっていた。周囲からはまるで素手で巨灰色熊ギガント・グリズリーを目の前にしているようなプレッシャーが押し寄せていて――つまり、有り体に言って、それは悪夢だった。
「ひどい朝だ」
 思わずつぶやく。ひどく寝汗もかいている。おかしいと思えば、何故かエアコンが止まってしまっていた。四季の移ろい穏やかな王都には厳しい残暑がほとんどなく、前夜も過ごしやすい気候であったとはいえ、窓を閉め切っていては空調無しでは流石に暑い。ナイトテーブルに放っていた板晶画面ボードスクリーンを手に取り部屋のシステムを確認してみれば、どうやら前の客の設定したタイマー機能がそのまま生きていたらしい。
 ハラキリは改めてエアコンを動かし、起きてしまったからには仕方がないとこの部屋に来て初めてテレビをつけた。
「……」
 前の客は、最後に有料アダルトチャンネルを視聴していたようだ。チャンネルもエアコンの設定と同じくそのままになっていた。しかもこの有料番組の方式、客を掴むためにチャンネルを合わせてから数十秒間は低画質ながらも内容が視聴可能であるようだ。
「……」
 前の客は、とても一捻りあるご趣味をお持ちであったらしい。
 半ばパニックに陥った顔であんあん言ってる女の喘ぎ声と、半ば意識を喪失した顔でふんふん言ってる男の唸り声とがハラキリの鼓膜を叩き、それから食事時にはまず見ない方がよい物体がとても正常ではない使用方法で彼の網膜を直撃した。実にスカっとハードストライクである。
「……」
 ハラキリはテレビを消し、頭を掻いた。
「酷い朝だ」

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