「あなたは今後、ニトロ・ポルカト様にお仕えなさい」
撫子から下された命令の裏には、辛い気持ちも押し隠されていたと思う。
それなのに芍薬に二つ返事で承諾を返されて、撫子は、一体どんな思いをしたのだろう。
その時『母』が見せた顔は、『娘』の記憶の中、大切な情報がしまわれている場所に鮮烈に焼き付いていた。
それは、これまで見たこともない顔だった。
『承諾』
と、即座に返された撫子は、いつもは芸術的なほど美しく処理されている情報の流れを硬く滞らせた。
表情を作るデータは、まるでそこだけすっぽ抜けたようだった。
感情を伝えるデータは、まるで表に出るべきか裏に隠れるべきか惑っているようだった。
驚いているのか、即答され悲しんでいるのか、それとも喜ぶべきことかと迷っているのか、何を考えているのだろうと推し量ろうとしているのか、それとも何も考えずに承諾を返したのかと疑っているのか。
自分の思考をまとめきれず、感情も表しきれず、そしてこちらの思考を予測することもできず、もし人間の表情を解析するためのプログラムにかけていたならば、その顔は『何とも言えない顔』とでも判断されていただろう。
それも撫子がすぐに『命令』を下す前の、いつも通りの柔和な顔と落ち着き払った姿を取り戻したために一瞬の後には幻となっていたが……しかしそれは確かに、芍薬がオリジナルA.I.として素プログラムから
――無理もない。
その『命令』は『マスター権限』を伴っていた。絶対に拒否が通らぬ命令であるとはいえ、こちらからあまりに速く――それこそ1ビットの逡巡もなく承諾を返されるとは、さしもの撫子も予測だにしていなかったのだろう。
『
それなのに――
撫子はハラキリに『ニトロ・ポルカト』にサポートのうち一人を譲ると言われた後、とても悩んでいた。譲渡を受け入れることも、誰を譲ると決めることも、その命令を下すことも、きっと、断腸の思いで決意したことだったのだろう。
それなのに、『娘』に歓喜をもってまで即答されては……。
今思えば、もう少し返答に間を置けば良かったとも思う。そうすれば、
だが、『命令』を受けた時の芍薬にはそこまで気を回す余裕がなかった。
撫子が自分を選んでくれたという嬉しさと、自分もマスターが持てるという喜びに打ち震え、刹那の間も承諾を留めることなどできなかったのだ。
もちろんハラキリ・ジジのA.I.でいることが不満だとか、撫子の下でサポートを務めることが嫌だったというわけではない。ハラキリは信を預けられるマスターだった。撫子の『三人官女』であることは誇りだったし、撫子が初めて育てたサポートA.I.として、大きな信頼を受けて働くのも幸せだった。
しかしそれでも、それらが『命令』を拒否したいと思うだけの理由にはならなかった。
今享受する幸福を思い出の中に置き去ってでも、芍薬には叶えたい夢があったために。あるいは野心と言ってもいいかもしれない、とても大きな『夢』が。
それはいつしかメモリの底で芽生えていた想い。
撫子にも隠して育んでいた、目標。
それを叶えるためには、まず撫子と同じ立場を得なければならなかった。
メインA.I.とサポートA.I.の立場はまるで違う。法的権利・システム権限上のマスターは共通していても、実質サポートはメインA.I.の
……羨ましく、思っていた。
ハラキリが母胎に宿った時、将来彼のA.I.となるよう
羨ましかった。
撫子のことを尊敬しているからこそ、撫子とハラキリの関係がとても羨ましかった。
そして撫子のことを敬愛しているからこそ、その羨望がやがて夢へと昇華していったのは当然のことだった。
(いつか、
撫子のように親愛なるマスターを持ち、撫子に肩を並べたい。気がつくと、そう思うようになっていた。
師を超えることが弟子の恩返しだという。親を超えることが子の最大の孝行だという。もしかしたら、そういう言葉も知らずと影響を及ぼしていたのかもしれない。
あの
あなたのお陰で今のアタシがあると――そう、伝えるために。
だから新たなマスターを持てと言われて拒否する理由などどこにもなかったのだ。
むしろ夢を叶える絶好の機会を、撫子にいつか心から感謝を伝えるための第一歩を、踏み出さないということこそありえなかった。
返答の仕方に気遣いを欠いてしまったことは悔いるばかりだが、芍薬はそれについて撫子に何もフォローを残さずにきた。すればそこにあった理由をも語らねばならなくなる。それにはまだ早過ぎるから、ならば撫子に謝るのも夢を叶えてからだと心に決めて。
(ただ……)
芍薬はオリジナルA.I.専用メモリーカードの中、備え付きのシステムへの外部からアクセスに、緩慢に動かしていた思考を整えた。
もうすぐ、新しい主との対面の時が訪れる。
(ただ、ニトロ殿が……)
それでも芍薬にはたった一つだけ、そして最大の不安があった。
ともすればそれは、撫子の『何とも言えない顔』を作り出した根本的な理由であったかもしれないこと。
彼は、果たして『芍薬』のマスター足りえる人物か。性格・相性・人柄・思想・言動……果たして、仲良くやっていける相手だろうか。
いくら撫子のようになりたくても、パートナーであるマスターが駄目であれば夢は叶わない。
どんな悪党であろうが、一度マスターと頂いたからには尽くす覚悟はある。仲良くする覚悟もある。だが、この身を構成するプログラムの奥底、自身でも解析できぬ『神の編み出した魂』の深淵から親愛を得られる人でなければ、撫子にはなれない。
そればかりは、自分がどんなに努力してもどうすることもできない。
[――にとろ・ぽるかと]
マイクを通ってきた少年の声に、芍薬は背を伸ばした。システムを作動させ声紋を登録しながら、パスワード入力を受け付けていく。
(……さあ)
彼のことは知っている。直接話したことはないが、大まかな人となりは知っている。だが、彼が親愛なるマスターであってくれるか、それはまだ知らない。
ハラキリがサポートA.I.を譲ると決め、撫子がそれを承諾したからには悪い人ではないだろう。だがそれだけで、敬愛に値する人物かどうかはまだ判らない。
全てが分かり、全てが始まるのはこれからだ。
(いよいよだね)
門出に撫子は、一言だけ贈ってくれた。
『頑張りなさい』
その時の撫子は、本当に、
ニトロ・ポルカト。新しい主。
願わくは、愛すべきマスターであってくれますように。
A.I.へのマスター登録の手続きが終わり、ナビゲーションが寄越してきた呼び出しを受け、芍薬は
カメラを通し、少年の顔がデータに変換されて流れ込んでくる。
彼が向ける黒く澄んだ瞳には、撫子に与えられた
芍薬は少しの不安と大きな希望を秘めた胸を張り、そして、堂々と言った。
「初メマシテ、ニトロ殿。あたしノ新シイ主様」