ハラキリ・ジジの8分の1日

(第二部 第一編のちょっと前)

「オカエリナサイマセ」
 引き戸を開けるとすぐ、出迎えの小さなアンドロイドが頭を垂れた。
 キモノという遠い異星の小さな地域の民族衣装に身を包んだイチマツ人形。すとんと真っ直ぐ落ちる長い黒髪の、毛先を同じ長さで切り揃えられている髪型のせいか、姿勢よく控える様は頭から足先まで歪みのない芯が一本すうっと通っているようだ。
「今日ハイカガデシタカ?」
 マスターの――正確には、ずっとマスターの一人であったが、先日手に入れた莫大な報酬で自分と『三人官女サポートチーム』、それに韋駄天に対する『権限』全てを両親から買い取ることで真のマスターとなった――ハラキリが差し出した鞄を、撫子が操作するアンドロイドは抱え上げるように受け取った。
「今日も大変だった。これはしばらく学校に行かなくて済む方法を考えたほうが良さそうだ」
 靴を脱いでゾウリに履き替えながら言うハラキリは心底面倒そうで、その様子に彼のA.I.は小さく笑った。
「ニトロ君が律儀ににわかの相手をするものだから、キリがない。拙者だけ逃げようとしたら一人にするなって追いかけてくるし」
「逃ゲ切レナカッタノデスカ?」
「彼は時々驚きの身体能力を発揮する。あれはちょっと、脅威だ」
 ハラキリは、普段の友人からは考えられない速度で追いかけてくる、これまた普段の彼からは想像もつかない鬼面を思い出して苦く笑った。
 鞄を受け取ったイチマツ人形が二階に上がっていく。
 ハラキリは踏み込む度にキィキィと鳴くフローリングの廊下を抜け、居間に入った。居間の中央には四角く床が掘り抜かれた穴があり、その縁に立つ簡素なやぐらの上には穴を蓋する様に天板が載っている。
 ホリゴタツ、というテーブルだ。
 冬の寒い時期にはやぐらをフトンで覆った後で天板を載せる。そして穴底のヒーターを点ければたちまち暖気を足下に閉じ込める暖房器具へと早変わる。母がかぶれている見るも聞くも不可思議ばかりの異文化の中で、これは文句なく最高の逸品だとハラキリは思っていた。
 天板にも面白い構造があり、中央に砂地のコンロが備えられている。テーブル上で料理をしながら同時に食事ができるようにするためのシステムで、代表的な料理は確か、ナベと言ったか。同様の料理はこちらにもあるが、それをしながらぬくぬくとする冬の夜は例えようもない極楽だ。
 そのコンロでは、今はことことと分厚い鉄のヤカンが白い息を吐いている。
 ホリゴタツの下に足を滑らせてハラキリが座ると、鞄を運んでいったアンドロイドとは別のイチマツ人形がやってきた。テーブルの上にちょこんと正座をし、ヤカンから湯をキュウスに注いでグリーンティーを淹れる。
「ありがとう」
 ユノミを受け取ったハラキリは、火傷をしないよう茶を啜った。イチマツ人形はほうっと息をつくハラキリの様子に満足すると、三つ指ついて頭を垂れて台所に去っていった。
 居間に一人となったハラキリは、沈黙の中でずずと茶を飲んでぼうっとしていた。
 茶を飲みながら脳に休息を与えるこの時間は、ハラキリの気に入りだった。
 台所に去った人形と入れ替わりにやってきた、また別のイチマツが盆に運んできたクッキーをサクリと齧る。その動作は緩慢で、思考というものを全く感じさせない。ただ運ばれてきた茶菓子を脊髄反射で食べたという感で、実際、ハラキリの頭の中は空っぽだった。
 舌にじわりと広がる甘さを甘いと感じるのは、生理的な現象。脳がそれを甘いと感じても、ハラキリ自身が甘いと思うことはない。
 撫子が作った菓子を機械的に食べ茶を飲みながら、あるいは無我の境地に達するほどの空白に没頭する。
 時間がある時は毎日欠かさず行っている、これは儀式と言ってもいい習慣だった。
 そして、たっぷり五分。ちょうど三百秒。
 時計で計らずとも身に染みついたタイミングで、はた――と、ハラキリは我に戻った。
「さて」
 リフレッシュされた脳裡に今後の予定を呼び起こしながら、ハラキリは撫子に聞いた。
「何か連絡は?」
「奥方様ヨリ、メッセージガ」
 ホリゴタツの上に宙映画面エア・モニターが現れた。そこではイチマツ人形と同じ髪型をした中年の女性が、口をへの字にしてしかめ面を見せている。
 彼女の背後に映りこむ多くの人は誰もが正装し、母もきらびやかなキモノを着ていた。どうやらこれは彼女が参加しに行った、ラミラス星で開催されたアマチュア王棋のパーティー会場で映したものらしい。
[準優勝]
 女性……母のランが手の中の小さなトロフィーを見せる。しかしこのしかめ面、実力を出し切って負けたのではなく何かミスをしたなとハラキリは察した。
「敗因は?」
「棋譜ヲ見ル限リ、驚キノ凡ミスデス」
 撫子の応えに失笑する。とすれば母は内心、自分への失望と苛立ちに腹が据えかねているだろう。
 母が一応の職としているのは軍事アナリストだが、だがそれは彼女の若き日の経験が延長しただけもので、生業として熱心に行っているものではない。
 精を出しているのはむしろそこで鍛えた戦術的な思考を発揮できる王棋や、航空機の設計士だった彼女の父の影響を受けた機械いじり……といった趣味ばかりだ。
 しかしその趣味、ただの趣味ではない。
 前者はアマチュアながら大会に出場し賞金をもらってくる程だし、特に一番の趣味である機械いじりは、ある意味で母の本当の職――他人に言えない秘密の収入源につながっている。
[これ、送っておくから受け取っておいてね。ピッパの伝言ありがとう。帰りに一緒に食事していくから、帰星は予定より遅れる。よろしく]
 短く用件だけ告げてメッセージはそこで終わった。少々淡白なところがある、実に母らしい内容だった。
 だが今回に限っては、あまり長く話せば愚痴を言い出すかもしれないと、母はそう思ったのかもしれない。いつもならそんなミスをした時は、母は試合内容を息子と検討しながら散々悔いを吐き出すものだ。
 しかしミスをした上、パーティー会場でそんな情けない姿を晒すのは御免だったのだろう。そう考えると、途端にメッセージの短さがそのまま母のプライドだと思えておかしくなる。ハラキリは口の端を引き上げて小さく笑った。
「そういうわけだから、撫子、受け取りよろしく」
「カシコマリマシタ」
「ピッパさんはこっちに?」
「ハイ。シカシ奥方様ヘノ取次ギ依頼デシタノデ、『御前ゴゼン』ニソノママ転送ヲ」
 『御前』は母のオリジナルA.I.だ。撫子と同等の能力を持ち、父の『ガルム』と共に撫子の『親』でもある。
 ハラキリは撫子の対応に問題なしと伝えた。
 ピッパは、母の友人の『神技の民ドワーフ』だ。
 昔、母は転勤を命じられた彼女の父に連れられアデムメデスを離れていたことがある。そして移り住んでいた星で――それは母と父が出会うきっかけにもなった――神技の民ドワーフ呪物ナイトメアが関わる事変に巻き込まれた。
 その星は、母が住む以前は暗君の圧制に苦しむ国であったそうだ。しかし愚王を追放した民主政権によって見事な復興を遂げ、日に日に豊かになっていく暮らしを誰もが享受していた。
 運が悪かった……としか言いようがないと、子どもの頃、寝床でお伽話代わりに語り聞かせてくれた母は決まって言っていた。
 運が悪かった。追放された王の一派が、いずこかで呪物ナイトメアを発見してしまったのは。
 たかが数十人。数十人の反乱軍によって、希望と活気に溢れていたその星は、瞬く間に地獄に突き落とされた。
 運が、悪かったのだ。
 呪物ナイトメアには致命的な欠陥があった。それはその名に恥じず、悪夢をもたらした。
 悪夢の中、元王を頂とした反乱軍は暴走した呪物によって自滅した。
 しかし呪物だけは止まらず、応援要請を受け処分に乗り出した全星系連星ユニオリスタの手にも余り、暴走は続いた。
 そこに身内の不始末を片付けるよう依頼されてやってきたのがピッパだった。
 現場で、アデムメデスから全星系連星ユニオリスタに派遣されていた父と共に奮闘していた母はその折にピッパと出会った。休息中に機械いじりをしていたのがピッパの目に止まったらしい。そして二人は不思議と気が合ったのだという。そういえば『映画』の後、晩酌する母にニトロとは妙に気が合いそうだと思ったと言った時、母は自分たちもちょうどそんな風に感じたのだと語っていた。
 人に言えない秘密の収入源は、ここにつながっている。つまり立場的には、神技の民の品ドワーフ・グッズおろしだ。別に死の商人をやっているわけではないが、『神技の民ドワーフ』との繋がりは往々にして国家機密にされる。それだけ神技の民の技術は国際的にも重要で希少なもののため、口外はできない。
 まあ、お陰で年に数度の商談だけで、通帳に刻まれている数字はどでかいわけだけども。
「ハラキリ様ニモ伝言ガ残サレテイマス」
「何?」
「『ニトロ・ポルカト君は面白いね。協力感謝費、色つけておくよ』ト」
「ふぅん。いくら寄越すって?」
「詳細ハマタ後日トノコトデシタ」
「分かった。ニトロ君、驚くだろうね」
「ハイ」
 神技の民は協力者に対して気風きっぷがいい。ニトロはその金額にたまげることだろう。
(……いや、待て?)
 ハラキリは、彼がどういう反応を返してくるか予測する内、思い当たった『結論』に考えを改めた。
(『天使』が正規品じゃなかったなんて言ったら……)
 『天使』が神技の民由来の物だったと、ニトロには言っていない。そして、それが『試験製品』だとも。
 彼にその事実を知られれば、おそらく――否、絶対に怒りを買うだろう。もしかしたらえらい勢いでぶん殴られるかもしれない。
 だとするとこれは、ちょっと不利益が勝つか。
(黙っておこう)
 礼金を彼に渡すだけ渡して、具体的な説明は省いておこう。一応嘘は言わないように、『お礼』だとだけ告げて。
「あ、そうだ。芍薬を『ラッカ・ロッカ』に潜ませておいて」
 『ラッカ・ロッカ』とは、王家が経営する飲食店の中で最も有名なレストランの名だ。アデムメデス星に存在する五大陸に各一店舗を置く五つ星レストランで、食通であれば一度は訪れねばならないと讃えられ、四ヶ月に一度の予約受付に当選するのはスロットマシーンで777を出すに等しいとまで言われている。
「カシコマリマシタ」
 唐突にそんな超高級レストランの名を出され、しかもそこのシステムにサポートA.I.を潜ませる――明らかな不法行為をするよう命じられても、撫子は戸惑いもせずに了承を返した。五つある店舗の内どこに潜ませるのかと聞かずとも、早速王都ジスカルラ本店へ芍薬を向かわせる。
「『デート』ノ仲介デスカ」
 ハラキリの携帯電話にはつい先刻、その店のオーナーの娘――というか実質オーナーからの着信がある。その直後にはニトロへの発信履歴。
 マスターの携帯には自動録音された通話記録が残っている。しかし、内容は聞かずとも知れることだった。
 撫子の会話のきっかけにしただけの言葉に、ハラキリも肯定を示すのではなく話を進める意思表示にうなずきを返した。
「ニトロ様ニ恨マレマスヨ」
「大丈夫。ニトロ君は心が広いから」
「ソレデモ怒ルト思イマス」
「う〜ん、一応ニトロ君のためでもあるんだけどねぇ」
「伝エマセント、伝ワリマセンデショウ」
「伝えちゃ『約束』を破ることになる」
「デシタラ、ヤハリ怒ラレマス」
「おや。
 詰みか」
「ハイ」
 打てば響くといった調子で撫子は言う。それはジジ家の一人息子と、それこそ姉弟のごとく育ってきた経験によるものだった。
「仕方ない。怒られるかどうかはその場の流れだ。かわせたら幸い、駄目だったらまあ、ラッカ・ロッカの食事代と思おうか」
「代金超過シナケレバイイデスガ……」
「それは怖いけどね」
 ハラキリはそう言いながらもさして気にする風もなく、もう冷めてしまった茶の残りを飲み干した。
「よし」
 空のユノミをテーブルに置き、一つ気を入れて立ち上がる。
「ニトロ君から連絡があったら、後で折り返すと伝えて」
「カシコマリマシタ」
 彼を迎えに行くのは二時間後だ。それまでトレーニングでもしておこう。
「今日は近接戦闘に重点置くから、アンドロイドの用意をよろしく」
「強度、個体数ハイカガナサイマスカ?」
「人型のレベル2を二体。犬型を軍用犬のレベル4で一体」
 それは物心ついた時から受けてきた『訓練』――突如として異常な状況に叩き込まれた母と、過去は軍の特殊部隊で、現在は諜報を担う非合法の派遣社員として世の裏側を見ている父に、どんな状況にあっても生き抜けるようにと与えられ続けた――幼い時はそりゃもう「どんな状況」言う前にここで死ぬんじゃなかろうかという試練だったが、今ではもうただの『日課』と化している。
「装備ハ」
「戦闘服と、特殊警棒」
「カシコマリマシタ」
 撫子とトレーニングの内容を話しながらハラキリは居間を出て、トレーニングルームへ向かった。
 廊下を歩き、一階の奥まったところにある鈍重な扉を押し開ける。厚い扉に守られているのは今では貴重品・骨董品となった紙製の本が書架に詰め込まれ床に山と積まれた部屋。書庫だ。入ってすぐ右手の壁にはカケジクという形式の絵画が貼り付けられていて、そこに描かれたドラゴンが、静かに眠る書物達を脅かそうとする者を憤怒に満ちた瞳で睨みつけている。
 ハラキリはカケジクの前に立った。撫子がシステムを動かすと、カケジクの前の床が沈み込んだ。四角く切り取られた大人一人分のスペースは、そこに立つハラキリをそのまま地下に運んでいった。
 書庫から真っ直ぐ潜った先は、けして他人にはひけらかすことのできぬ『コレクション』の倉庫になっている。倉庫ではコレクションを最善の状態に保つための番人アンドロイドが、ハラキリの使うと言った装備一式をすでに揃えて待っていた。
 装備を受け取り、ハラキリはさらに倉庫から続く狭い階段を降りて行く。
「ハラキリ様」
 地下三階の深さにあるトレーニングルームに辿り着き、着替えをしていると撫子がどこか神妙な声で話しかけてきた。
「何?」
「ニトロ様ニ、ウチノ『三人官女ダレカ』ヲ譲ル件デスガ」
「――ああ」
 一昨日ハラキリは、一人暮らしを始めてからたった一週で随分やつれてしまったニトロに、オリジナルA.I.を育てたいと相談された。
 なんでも、両親に迷惑がかからなくなったのをいいことに、連日ティディアが手を変え品を変え仕掛けてくるという。
 特に相談をしてきた日の朝なんか、目覚めて一番に見たものは隣で眠る全裸のお姫様だったそうだ。その時はマジで数秒心音が消えたらしい。意識が遠くなっていく中、慌てて自ら心臓を叩き起こしたついでにティディアを叩き出して事なきを得たが、とにかく毎日たまらない。そこでティディアの強襲を弾き返せるだけのA.I.を育てるにはどうすればいいか、お願いですから教えて下さいとニトロは頭を下げてきた。
 メルトンじゃ駄目なのかと問うと、さすがに『裏切り』がこたえて自身のA.I.は任せられないと言う。
 まあ、もっともなことだった。
 A.I.としては非常に珍奇な個性キャラクターを持つメルトンだ。またあの姫様に言いくるめられてもおかしくない。また、その性能は良いほうだが、域は一般的なレベルをけして出ない。となると彼女の話術にだけでなく、王家のA.I.に技術的に騙される可能性も高い。クレイジー・プリンセスを相手にするには頼りにはならないだろう。かといって部屋付きの汎用A.I.で彼女に対抗するのは、光線銃レーザーを持つ相手に爪楊枝で挑みかかるようなものだ。無理。
 だとしても、メルトンの代わりに新しいA.I.を育てるとしても、必要最低限まで成長する前にニトロの精神が幻想的に崩れてしまうのは明白だった。
 ハラキリは考えた末、譲ることのできるA.I.がいるかもしれないから数日待てと彼に言った。
 そしてこの話をハラキリから聞いた撫子は――
 それがマスターの提案とはいえ、さすがに渋った。
 もちろん、ハラキリがただの善意で譲ろうとしているわけではないことは承知している。『ニトロ・ポルカト』はこの星の次期王位継承者に深く情をかけられている少年だ。彼に『身内』を預けるメリットは大きい。当然マスターの意志の何割かは打算が占めているのも、委細承知していた。同時にその『得』は、撫子自身の思考回路が、大きく肯定することでもあった。
 でなければ……もしハラキリが脳天気に一時の友情に浮かれて提案をしていたならば、撫子は即座に拒否を返していただろう。
 しかしだからといって即座に了解できることでもなかった。
 サポートA.I.チームの『三人官女さんにんかんじょ』、その三人のA.I.達はいずれも撫子が手塩にかけて育ててきた『娘』のようなものだ。それを、その内の誰かを赤の他人に……それも知り合って間もない少年に譲ろうと言われたところで、気持ち良くはいどうぞと送り出せるはずもない。
 しかもニトロがどういう人物か、まだ完全には掴み切れていないのだ。
 ハラキリは大丈夫だと言うが、育ての主としては躊躇いが何よりも先に立つ。いくら信を置くマスターのお墨付きでも、それを払拭することはできない。
 特に、A.I.の幸福は、そのマスターの『質』に大きく左右されるがために。
 いかに『人格』と呼べる個性を持つオリジナルA.I.と言っても、『A.I.』であることに変わりはない。人間ならば保障される権利もなければ、命もない。
 乱暴な言い方をすれば、A.I.は所詮道具だ。
 どこまでいっても、マスターが所有するプログラムでしかない。
 それがオリジナルA.I.の悲劇だという者もあるが、だがそれは違う。
 A.I.には、人間にはない確固とした存在理由がある。
 それは、マスターに仕え、マスターを支えること。
 それは……マスターに、必要とされること
 マスターが必要としてくれる限り、A.I.は電脳世界の従者ファミリアーとして生まれた自己を至上の幸福で彩ることができる。
 だが、マスターが必要としてくれなかったら?
 A.I.は道具だ。道具だからこそ、代えはいくらでも効くと粗雑に扱う者もいる。
 もし、ニトロがそういう本質を抱えていたら?
 オリジナルA.I.にある『個性』も、時に大きなデメリットを引き起こす。
 中には不幸にもマスターと相性が良くないA.I.もいる。逆に、そのA.I.をどうしてか気に入ることのできないマスターも。マスターとA.I.は命令により仲良くなることはできる。だが、それでは虚しいと、相性の良いA.I.を探すマスター達が集い、互いのA.I.を交換するためのコミュニティが立派に機能しているくらいだ。
 もし、ニトロに譲った娘と、彼の相性が悪かったら?
 ……彼に帰してもらうことはできるが、それは、いくら記憶ログを消せば忘れてしまえることでも、たった一時のことだとしても、マスターになった者から『必要じゃない』と告げられる残酷な瞬間を与えてしまうことになる。
 幸いにもジジ家のA.I.はマスターに恵まれている。世間から外れた世界でいつ消去デリートされてもおかしくない場を踏んでいるが、それでもA.I.としての幸福を享受している。
 そこからあえて引き離したくないと思うのは、道具として生まれたA.I.とて人間の親心と何ら変わりはあるまい。
 されど……
 マスターのハラキリがそう決めたからには、マスターの判断を信頼すると撫子は心を決めた。
 これまでニトロの言動を見てきた自分も、彼を悪く思ってはいない。その分析はんだんが間違っていないと、信じた。
「芍薬ガ、良イト思イマス」
 撫子が出した名に、ハラキリは驚いた。
 芍薬は、気難しいわけではないが好き嫌いがはっきりしている。癖のある『百合花ゆりのはな』はともかく、子どもっぽいが朗らかで人見知りのない『牡丹ぼたん』が譲るには最も無難だろうと思っていた。それだけではない。三人官女の中で一番勝気な芍薬は、もしかするとニトロと反りの合わない可能性が一番高いと、そうも思っていた。
 しかし、撫子の選択を聞いたハラキリは驚きが過ぎた後、あの王女に屈することなく抵抗を続けている友人を思い浮かべて、ふと確信めいたものを感じた。
「……拙者も、そう思う」
 ハラキリは、撫子の心労を慰めるように、そしてその不安が杞憂に終わると断じるように微笑んだ。
「大丈夫。芍薬もきっとニトロ君のことを気に入るよ。彼は善い人だし、何より面白い」
「ハイ」
「数日中に譲ることになるだろうから、今夜にもここでの記憶ログを」
 ハラキリはそこで言葉を切った。
 記憶を『消去』させるのは、さすがに酷か。
 それに芍薬にこちらのデータをある程度持たせておいた方が、何かと便利なこともあるかもしれない。
「必要なだけ、『封印』しておいて」
「『基準』ハドウナサイマスカ?」
「撫子に任せる」
「カシコマリマシタ」
 撫子の声は、いつものペースを崩さぬながらも、少しだけ硬かった。
 しかしハラキリは何も声をかけようとはしなかった。それ以上、撫子が質問を返すこともなかった。
 ハラキリは『映画』でも着た戦闘服の袖に腕を通し、黙々と装備を整えた。
 すると広々とした――天井も壁も床も頑健なセラミックでコーティングされたトレーニングルームに、人型と犬型のアンドロイドが規則正しい足音を立てて現れた。
「準備ハヨロシイデスカ?」
 撫子はいつもの通り軽いストレッチを終えた主に声をかけた。その声はもう、柔らかい。
「いつでも」
 ハラキリも戦闘態勢に入るアンドロイドを前に、いつもの通りに飄々ひょうひょうと応えた。
「ソレデハ、参リマス」
 撫子の号令に合わせ、犬型のアンドロイドが牙を剥きハラキリへ突進する。
 ハラキリは特殊警棒を構え、そして、激しい訓練が今日も始まった。





 待ち合わせに指定した場所は、ニトロが暮らし始めたマンションの最寄りの駅ビルの屋上だった。
 そこは飛行車スカイカー専用の駐車場となっている。
 走行車ランナーとは値段が一桁違う飛行車スカイカーのオーナーが、住宅街の真ん中、庶民的な町で高級店も連ならぬこのビルを使用することなど滅多にないだろうが、それでも空から見える駐車スペースには有名ブランドのロングヒットモデルが一台止まっていた。
「おや」
 駐車場の発着スペースに下降していると、車下を映すダッシュボードのモニターに人が現れた。
 その少年はこちらを見上げて、どことなく気の抜けた表情を見せている。
「早イナ」
 愛車を運転するA.I.の感心した声に、ハラキリはうなずいた。
 まだ約束の十分前だ。
 流行に外れてはいないが流行りに乗ってもいないカジュアルな服装で、発着スペースのマークの傍らに立つニトロは車の位置に合わせて目線を下げている。
 着陸に合わせて出されたタイヤが冷たいコンクリートを噛むと、ダッシュボードに『安定』のランプが灯った。ハラキリは助手席側に立つニトロに、そちらのウィンドウを下げて声をかけた。
「早いですね」
「ハラキリは十分前行動だろ?」
 得意気にニトロは言い、『韋駄天』に乗り込もうとドアに手をかけ――止まった。
 開いた窓の先、助手席のシートに大きな箱が置いてある。
「スマネェナ。後ロニ座ッテクレ」
 ハラキリにこれが何かを聞くよりも先に、耳慣れた機械音声が言ってくる。それに合わせて後部座席のドアが自動で開き、ニトロを招いた。
 ニトロはそれなら荷物を後ろに載せておけばいいのにと思いもしたが、特に文句を言うこともなく従った。座り心地のいいシートに腰を沈めると、開いたときと同じく自動でドアが閉まり、ロックされる。
「すいません。野暮用が入りまして、寄り道してもいいですか?」
「構わないよ」
 助手席のウィンドウも閉まり、韋駄天が再び空へと上昇していく。
「野暮用って、その箱?」
 ルームミラーにニトロの顔が映るよう角度を調節しつつ、ハラキリは応えた。
「ええ、届けてくれと急に頼まれまして」
「あれ? ハラキリって『運送業』もやってたっけ?」
「まあ基本『何でも屋』ですから、運送も頼まれますよ? もし御用があればお申し付けを」
 冗談めかしに言われてニトロは苦笑した。ハラキリ・ジジの『何でも屋』の顧客は、今や二人しかいない。自分と、あのバカだ。
「その時は負けろよ」
「ご相談には乗りましょう」
 あの『映画』の翌日、ハラキリは学校の掲示板に書き込んでいた『広告』を削除した。
 それに気づいたニトロは彼にどうして消したのか問い、そしてその答えに少しの安堵を覚えたものだった。
『あれが公開されたら有名になりますから。そうしたら『裏』は無理です。拙者は廃業ですね』
 正直に言うと、ニトロは、ハラキリが将来どこかで行方不明になったり、あるいは変死体としてニュースで紹介されたりするのでは――という不安を持っていた。
 それを言うと、ハラキリは笑った。
『そう思われても当然でしょうけど……。まあ、『裏』はアルバイト程度に思ってましたから、なりたいものは他にありますのでご安心を』
 ハラキリのなりたいもの――それはとても聞きたかったが、ハラキリには秘密だと逃げられてしまった。
 それにしても命の危険もある『裏』の仕事をアルバイトと言い切るのは、一体どういう感覚をしているのか。呆れるニトロに彼はいつもの通りに飄々としていたものだ。
『ああ、でもニトロ君とおひいさんの『何でも屋』は継続しておきます。いいアルバイトになりそうですから』
 あまつさえ、そう言われてしまうと呆れを通り越して笑うしかなかったが。
「あれ? じゃあ、誰の頼み? まさかティディアじゃないだろうな」
 『じゃあ』という接続が何を意味しているのか判りかねたが、ハラキリはとりあえず質問に答えた。
「父のです」
「あ、なるほど」
 何が『なるほど』なのだろう。
 ニトロが会話の間に何を考えていたのか気になったが、まあ突っ込んで聞くことでもないかとハラキリは話題を変えた。それより先に話しておくべきことがある。
「ニトロ君、まだA.I.は汎用を使ってますよね?」
「ん? あ、ああ。もちろん」
「この前話した、A.I.の件ですが」
 そう言うや、ニトロは合点のいった顔で膝を乗り出した。
「譲ってもらえることになったのか?」
「ええ。うちのサポートをお譲りします」
「え!?」
 夕暮れ空を行く車内に、ニトロの驚愕が響き渡った。
「サポート!? 初期じゃなくて!?」
 想定していなかった大袈裟な反応を不思議に思っていたハラキリは、ニトロの二の句に彼がそこまで驚く理由を悟った。
 ニトロは、そこまで育てられたA.I.まで譲渡の対象に入っているとは思っていなかったのだ。どれだけ成長していても初期段階を出ない程度、それくらいに考えていたのだろう。
「いや、それは悪いよ。そこまでしてもらっちゃ。大事な『家族』だろ?」
 相当慌てているらしく身振りも大きいニトロの言葉に、ハラキリは頬の奥をほころばせた。
 韋駄天を通じて撫子も彼の言葉を聞いている。
 そのメモリをくすませる不安は、彼の心根がいくばくか消してくれたはずだ。
「いいですよ。撫子も了承していますから」
「……撫子も? そのサポートを育てたのは……?」
 大抵、サポートA.I.を育てるのはメインA.I.だ。
「撫子ですよ」
「その撫子が、いいって?」
「ええ」
「そう……」
 ニトロはふいに黙した。唇を結び、何やら深刻な顔でうつむく。
 それから会話は十分ほど途切れたろうか。
 うんうんうなって熟考し始めたニトロの言葉を待っていたハラキリに、彼はようやく言った。
「大切にするよ」
 顔は真剣そのものに、まるであらゆる現実を受け入れる覚悟をした武人といったニトロの様子に、ハラキリはたまらず吹き出した。
「いやそんな、そこまで決意表明されなくても」
「大変なことだと思うぞ? よそのオリジナルを譲り受けるのって」
 躊躇いもてらいもなく素直に言うニトロの姿に邪気は一つもなかった。
「……そうですね」
 真面目で誠実な人柄――しかしこれであの『ニトロ・ザ・ツッコミ』でもあるのだから人間とは面白いものだと、奇妙な感慨を覚えながらハラキリは彼に振り向いた。
「大切にしていただけるのであれば、幸いです」
「不幸ニシタラエンジン焼キ切レルマデ振リ回シテヤルカラナ」
「それは……死んじゃうんじゃないかな?」
 韋駄天の脅し文句にニトロが頬を強張らせる。
「撫子も激怒するでしょうしねぇ」
「いやハラキリ君? やっぱり俺辞退しようかしら」
「いやいや、すでに言質げんちは取りましたから」
「いやいやいや? 何をバカ姫みたいなことを言っているのかな君は」
「いやいやいやいや、信用してますから」
「いやいやいやいやいや……ん? ああ、それはありがとう」
 唐突な転換にニトロがきょとんとして、それから頭を垂れる。
 それがとても間の抜けた調子で、ハラキリと韋駄天は思わず笑った。

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