中編−1 へ

 駐車場に停められた車にその主が戻ってきた時、ダッシュボードのモニターに安堵の顔が映った。
「オ帰リ」
 その声に張っていた緊張感を解きながらニトロは運転席に座るとドアを閉め、芍薬がドアキーをロックする音を耳にシートベルトを締めた。
「帰ろう」
「承諾」
 すぐにエンジンがかかり、車が動き出す。
 暮れ時の西は紅に染まっていた。最近は日も早くなっている。夜の帳もすぐに訪れるだろう。
「それで、詳しく教えてくれる?」
 そう言うと、芍薬は渋い顔をした。
「詳シクハマダ分カッテナインダ。タダ『ロボット』ガソウイウ情報ヲ拾ッテキテネ」
 ロボット――情報収集プログラム。芍薬は特性のそれをネットへ無数に泳がせて、マスターに危害を与えるものへの網を張っている。
「ダカラ、マダ確実ナ情報ジャナインダケド……」
 芍薬は電話口とは違い、歯切れが悪かった。
 マスターの安全を最優先にしながらも、不確定な情報で『楽しみ』を奪ったことを気にしているのだ。
 ニトロは笑った。そんなことは気にもならない。ただ何もなければそれに越したことはないだけだ。
「いや、そういう情報があるなら呼び戻してくれて良かったよ」
 目を細めて言うニトロに、芍薬はほっと息をついた。
 車が駐車場の出口に差し掛かり、出口を塞ぐゲートの前にある管理システムと芍薬が情報をやり取りする。杭型のゲートが地中に沈んで道を開けた。
 出口を通り過ぎ、そこからすぐの幹線道路にタイミングを計って入り、車は速度を上げた。
 海も間近なこの一帯で王都の中心へ向かうに最も便利なこの道路は、企業の終業時間のピークも近づいて徐々に交通量を増やし始めている。片道四車線の一番右側、高速帯を赤いスポーツカーが走り抜けていき、ふと目線を上げると、飛行車スカイカー仕様のリムジンが星を纏い始めた王都へ向けて朱と蒼が混じる紫の空を切り裂いていた。
「とりあえず……もっと情報を集めて分析しておいて。ただの冗談か、本当にやってくるかどうか」
「承諾。牡丹ボタンニモ手伝ッテモラウケド」
 『牡丹ぼたん』は、芍薬が撫子の『三人官女サポートA.I.』だった時の仲間の名だ。
 ニトロは芍薬の促しに、うなずいた。
「ハラキリに助言頼むよ。つなげてくれる?」
「承諾」
 芍薬もうなずきを返し――
 がくりと頭を垂れた。
「ダメダ。ハラキリ殿ト撫子オカシラ、留守ニシテル」
「留守? 撫子も?」
 意外な言葉だった。家守も担うメインA.I.にまで連絡が取れないとは。
「何か緊急事態でもあったのか?」
「違ウヨ。
 ――タダ、所用デ出カケテルッテ」
 ニトロは怪訝に思った。
「誰と話してるの?」
「牡丹。代理デ留守ヲ預カッテル」
 なるほどと納得し、そしてニトロは嘆息をつきながらシートに深く身を沈めた。
「でもどこに行ってるんだ? そんなに連絡が取れないなんて」
神技ノ民ドワーフト会ッテルッテサ」
「ドワ――!?」
 芍薬が告げた単語にニトロは仰天し、しかしすぐに
「……あー」
 それは特別驚くことでもないかと、落ち着きを取り戻した。
 ハラキリに神技の民ドワーフ知己ちきがいても何らおかしくはない。
 彼は、『映画』で世話になった『毀刃きじんナイフ』や『戦闘服』に『天使』と、神技の民ドワーフの道具を数多く持っていた。しかも『天使』に至っては試供品みたいなもの。むしろ知り合いがいた方が自然だ。
 例え知人がいなくとも、最近『神技の民の呪物ナイトメア』に関わり起動していたそれを停めてきたのだから、あちらからコンタクトを求められた可能性もある。
 どちらにしろ問題なのは、神技の民と会っているのなら、どんな手段を使っても連絡が取れないことは想像に難くないことだった。
(ってことは、何があってもハラキリと撫子を頼れない――か)
 自分が頼れる中で最強のコンビが出払っていることは、不安を大きく膨れ上がらせた。
「……まさかさ」
 ふいに思いついた考えに、ニトロは片笑みを浮かべた。
ティディアの依頼で出かけてるわけじゃないよね。神技の民ドワーフと会ってることにしてって」
 もしそうだとしたら、タイミングが良過ぎる。
 もしそうだったとしたら――
 この件に、ティディアが関係している可能性が極めて高い。狂騎士達の不穏な動向は絶対に行動として現れるだろう。
「違ウッテ」
「……そっか。じゃあ本当に自分の用でか」
 ハラキリとは、ティディアからの依頼を受けたか否かは絶対に教えてくれるように『契約』してある。芍薬が聞いた否定は、間違いのない答えだ。
「参ったなー」
 ティディアが絡んでいる可能性はこの点では低くなったが、しかしそれよりもハラキリと撫子に頼れないと確定したことが心理的に重かった。
「いつ頃帰ってくるかは聞ける?」
「――分カラナイソウダヨ。今日中ニ帰ッテクル予定ミタイダケド」
「……それじゃあ帰ってきたら連絡くれるようことづけといて」
「承諾」
 遠くの街灯が点灯し始めるのを見ていると、隣の車線を走る空の無人タクシーが緩慢に自分達を追い抜いていった。その後ろには長距離輸送のトラックがつき、窓を閉め切った車内にまで響いてくる巨大なタイヤの轟音が――少しだけ、不安を掻き立ててくれる。
「大丈夫。ソンナ顔シナイデ。主様ハあたしガ守ルヨ」
 無意識に顔がしかめられていた。ニトロは芍薬の言葉にそれを気づかされ、苦笑するように強張っていた眉間から力を抜いた。
 そしてモニターの中でユカタの袖をタスキにかけてまとめている芍薬の姿に、曇った笑みを笑顔に変える。
「分かってるよ、芍薬。信頼してる」
 芍薬は、周囲に輝きまとって大きくうなずいた。


「ツケラレテル」
 芍薬がそう言ったのは、自宅まであと数kmの町中だった。
 シートに預けていた体が飛び上がりそうになるのを努めて押さえ、ニトロは姿勢そのままに視線をバックミラーとサイドミラーに走らせた。
「後ろの?」
 すぐ背後にトラックがいる。中型で、有名な宅配業者のものだった。
 西の夕焼けも縮こまり、黄昏の闇とヘッドライトの影に隠れて運転席の様子はよく見えないが……制服を着たドライバーに不審な態度はないように思える。
「ソノ後ロ。デモ一台ダケジャナイ」
「何台?」
 ニトロは、ハラキリが用意してくれたトレーニングのうち、尾行されている時の対処法を思い出しながら言った。
「三台。交代シナガラ追ッテキテル」
「……こっちが気づいてるってのは」
「織リ込ミ済ミダロウネ。一応、組織ダッテルミタイダカラ」
「じゃあ、ほとんど確定かな」
「ソウダネ」
 ニトロはため息をついた。
 狂騎士達だ。本当に仕掛けてきた。
 もしかしたらパパラッチや単に遊び半分に『ニトロ・ポルカト』を追っている者、あるいは『ティディアのちょっかい』という可能性もあるが――現状から鑑みれば『狂騎士』が一番妥当だ。
 ただ、決め付けを元に状況を把握してはいけないというハラキリの教えを守り、念のため他の可能性も頭に残しておきながらニトロは芍薬に命じた。
「家に帰るのはやめよう」
「承諾。ドウスル?」
「とりあえずまいてみようか。
 そうだな……『その4』で」
「承諾」
 ニトロは声に緊張をこめながらも、体面では平静を装い続けていた。
 複数の相手に尾行されている以上、どこから監視されているか判らない。こちらが尾行に気づいたことを教えるのは、まだ後でいい。
 方向指示器が左を示す。カチカチと一定のリズムで刻まれる音が心音と重なり、お互いにテンポを早めているような錯覚に襲われる。
 ハンドルが左に切られ、車の進行方向が自宅からこの付近で最も栄えたエリアへと変わった。直後についていた宅配業者のトラックは直進して行き、その後ろにいた……芍薬が告げた敵の斥候が視界に入ってきた。
 無人タクシーだった。
 運転席の後ろ、後部座席に誰かが深く腰を沈めている影が見える。
「相手の動き、掴めた?」
 心を落ち着かせようとニトロは芍薬に話しかけた。
「御免ヨ。マダナンダ。
 尾行ノ通信ハ傍受シテルケド……随分訓練シテキタミタイダ。良イ『司令塔』モイルミタイダネ。最小限ニ抑エラレテル。暗号マデ使ッテルヨ」
「牡丹からは?」
「同ジ」
「あっちのネットワークにも引っかからないんだ……」
 感嘆と共に、なかなか心胆を寒からしめられる。
「結構なやり手も絡んでる、か」
「御意」
 前方に交差点が迫ったところで、背後についていた無人タクシーが右のウィンカーを灯した。
 こちらは直進のままだが、タクシーは躊躇うことなく右折帯に並ぶ列に入って停まる。
 サイドミラーにそれを見ながら、ニトロは芍薬に訊いた。
「尾行は?」
「――待機シテル」
 ダッシュボードのモニターで、芍薬の周りに不可思議な文字列がリングとなって回っている。芍薬の周囲を回転するそれらは差し出された芍薬の手に触れる度、ニトロの目にも意味のある文字列と変化していった。
「次ノ交差点、左方カラ。新参ダネ。コレデ四台ニ増エタ」
 暗号を解読した芍薬が言う。
 その交差点はすぐ目の前にあった。交差する道路は狭く、いかにも大道路に接する脇道だった。
 芍薬がアクセルを踏む車は、動じることなく交差点を直進していく。ちょうど信号は変わり目で、通り過ぎてすぐ脇道から数台の車が本線に流れ込んできた。
「ど――」
 どれ? と問おうとしたニトロの口が凍りついた。
 すぐ後ろにいた軽自動車を追い抜いて、自分たちと軽自動車の間に無理矢理割り込んできた車がいた。
 黒いワゴン。運転席にはハンドルを握るドライバーがいる。やけに綺麗な弧を描く顔の輪郭に異星人かと思ったその人物は、違った、仮面を被っていた。街灯の光が刺し込んだ拍子に見えたその顔は、奇妙な模様の仮面に覆われていた。
「? ……」
 ニトロは、その仮面に見覚えがあった。
 暗みの中にぼんやりと浮かぶ仮面。それに後をつけられている不気味さに強張る頭を懸命に働かせ、どこで見たかと思い出す。
 あの奇妙な模様、確かごく最近に見た覚えがあるのだが……
「――あ!」
 どこでそれを見たのか、思い出した瞬間、ニトロは凍りついた。
「ドウシタンダイ?」
 突然ニトロが上げた声に、芍薬が驚き訊ねる。
 彼は戦慄に身を総毛立たせ、そして大きな反応を出してしまったことに内心舌打ちながら答えた。
「あの仮面」
「仮面?」
「ああ、あれ。水族館に向かう途中で俺を見ていたよ」
 国道沿いにあったベジタブルストアで、客引きの手品師だと思ったタキシード。あれが被っていた仮面と、すぐ後ろでワゴンを走らせるドライバーが被るものは全く同じものだった。
「随分前から、仕掛けてきていたみたいだ」
 いつから見ていたのだろう。いつから観られていたのだろう。芍薬の目すらかわされ、ずっと尾行されていたのだろうか。
「……」
 寒気がした。これは、これまでの熱狂的なティディア・マニアとは一線を画している。間違いない、脅威だ。
 と、ニトロは、芍薬の肩が落ちていることに気がついた。
 つぶさに感情が表に出る、正直なA.I.だ。
「気にしなくていいよ」
 ニトロの言葉に、芍薬は納得がいかない顔を見せた。
「あたしノミスダヨ。監視ニモ気ヅケナイデ、コンナ簡単ニ先手ヲ打タレチャッタナンテ」
「重点置いて調べてもらっているのは『王家』の動き。それに無作法なマスメディアに、俺を利用して商売しようとする奴らの相手もしてもらってるんだ。芍薬はちゃんと自分の仕事を果たしてる。これは不慮の事故みたいなもんだよ」
「デモ『バカノ馬鹿』マニアニモ注意ハシテタンダ。掴ミキレナカッタノハ――」
「芍薬」
「……」
「そこに重点を置くように言わなかったマスターのミスでもある」
「ソンナコトナイヨ」
「マスターとA.I.はパートナーだろ?」
「御意」
「じゃあ責任は背負いっこだ」
 言いながら、ニトロは内心苦笑していた。
 去年の今頃は、自分が狙われるという危険な状況に陥ることがあるなど全く考えもしなかった。そしてもし一年前の自分がそのまま今ここに座らされたなら、きっと慌てふためいて芍薬を困らせているはずだ。
(よくも悪くも)
 あの『映画』での、そしてそれからの経験が、自分を変えたことを改めて自覚する。
「芍薬がいてくれて本当に助かってるんだ。今も頼りになってくれている。ちゃんと兆候を掴んでくれたから、心構えができていた。お陰で『不意打ち』を受けてパニックになることは避けられた。
 だから落ち込むことはないよ。それでもミスというなら、まずはミスをした同士お互い取り返そう。それから後で一緒に反省会だ」
 ニトロに言われ神妙な面持ちで沈黙していた芍薬の肖像シェイプが、突然モニターから消えた。
「あれ? 芍薬?」
 驚いたニトロが目をみはると、スピーカーが揺れた。
「あたしハマダマダ未熟ダ」
 その声は、照れを含んでいた。だが、そこには力強さがあった。
 ニトロは何も言わずに姿勢を整えた。芍薬と話しているうちに、戦慄していた心はどこかに消えていた。
 車は後続に仮面のドライバーが運転するワゴンを引き連れたまま、賑わう繁華街に入っている。
 もうそろそろ、こちらが手を打つ時間だ。
「主様、用意ハイイ?」
「いいよ」
 芍薬がウィンカーを出した。立体駐車場へと入っていく。
 管理システムがこちらのシステムに情報をよこすよう促し、それに芍薬が答える。徐行する車の前に落ちていたゲートが上がり、芍薬は指定された速度の限界で二階への通路を登っていった。
 バックミラーに映る尾行車が、慌てて追いかけてくる。だが一度ゲートが降りたため、互いに距離が大きく開いた。通路に入ったこちらの様子があちらから完全に見えない状況になった時、芍薬が合図した。
「今」
 ニトロはシートベルトのロックが、そしてリクライニングのロックが芍薬によって外されたが同時、背もたれに思い切り体重を浴びせた。
 引き出されていたシートベルトが格納される音と、リクライニングが全倒する音が重なる。
 ニトロは倒れたシートの上を素早く後転しながら身をひねり、助手席の後ろ、後部座席の床に両足で着地した。リクライニングのロックは外されたまま、そのためシートは自動で元の位置に戻っていく。それに合わせるようにニトロは後部座席の下に体を隠した。
 ほぼ同時に通路を登り切り、斜めになっていた車体が平衡を取り戻す。
「来タ」
 やや遅れて、尾行車が追いついてきたことを芍薬が報せた。
 相手は驚いているだろう。今の僅かな時間――しかし車を降りて逃げるにはけして少なくない時間、その隙間にニトロが消えてしまったことに。
 芍薬は立体駐車場をどんどん上がっていったが、尾行車はさすがにここで追うのはあからさま過ぎると判断したか、それとも消えたニトロが駐車場内にいないか探そうとしたか、途中の空きスペースに停まった。
 ニトロ達はしばらく駐車場内をうろうろした後、そのまま立体駐車場を出ていった。
 これで一台は完全にまいた。
 まだ車内にニトロがいることを疑ってはいるだろうが、しかし駐車場内でニトロが降りた可能性も無視できまい。少なくとも、サポートにもう一台くらい周辺で待機するはずだ。
「次はどう出てくるかな」
 確認している中ではもう二台。
 ニトロは後部座席の下で息を潜めながら、芍薬の答えを待った。
「――来タ」
「車種は?」
「無人タクシー」
 あれかと、先ほど見たタクシーを思い出す。
 車が左に曲がった。椅子に座っていないために体にかかる感触もいつもと違う。遠心力に血が頭に集められる心地悪さに口を歪め、ニトロは肘を張って体を固定した。
「シバラク我慢シテネ」
 芍薬の小さな声にニトロは小さく応える。
 信号で長く停まるのを避けるため、芍薬は各信号の切り替わり時間を計算しながら速度を調節しつつ縦横無尽に走り始めた。
 ニトロは改めて状況を整理した。自分が得られている情報を鑑み、そして疑問に思う。
「なんであいつら、今まで仕掛けてこなかったんだと思う?」
 朝から『見ていた』のならいつだって仕掛けてこられたはずだ。水族館でも、いくらだって機会はあったはず。
「夜ヲ待ッテタンジャナイカナ」
 確かに、日の出ているうちより夜の方が襲いやすいだろう。潜む影も増える。人目を誤魔化すことも容易になろう。だが夜の利点を使うにしては、時間が早過ぎないだろうか。
「それだけかな」
「アトハ――ソウダネ、嫌ガラセカモシレナイ」
「嫌がらせか……」
ストーカーハ『オ前ヲ見テイル』ッテ示威スルコトガアルソウダヨ」
「だとしたら、かなり脅迫的な嫌がらせだなあ」
「御意。デモ、理ニ適ッテル」
「そうだね」
 ティディア・マニアの狂騎士達からすれば、『ニトロ・ポルカト』は排斥したくて堪らない存在だ。そして排斥するためには手段が脅迫的にも暴力的にもなる。
 これまでは脅迫的暴力的になって現れた狂騎士は単独、多くて三人だったが、今回はそれを上回る集団……それも、組織立った集団だ。暴力的になることを辞さぬ連中が監視し尾行していると知らしめることは、それだけで十二分な心的ダメージを与えられる。
(……集団か)
 『集団の自制心』がいかに当てにならないものか、ニトロはよく知っていた。
 それがいかに暴走しやすく、そして一度暴走すればどれほど恐ろしいか、それはあの『ミッドサファー・ストリートのサバト』で嫌というほど味わったことだった。
 嫌がらせをすることだけが目的なのか、それとも他の目的のための前哨として嫌がらせをしてきているのかは判らないが、いずれやり過ぎてくるのは十分に予測のつくことだ。
(その前に決着つけないとな)
 車が停まった。ニトロはエンジンの振動を体の芯に感じながら嘆息した。
 とりあえず、現状は耐久戦だ。
 とにかくあちらからの干渉をしのぎ、芍薬か牡丹かが『司令塔』を見つけるか、もしくはハラキリからの連絡があるのを待つ。しのげなければ負け、待ち切れれば勝ちだ。
(それとも……警察に届け出るか)
 尾行の証拠は芍薬が記録してくれているだろう。ストーカーに狙われていると訴えれば、保護はしてもらえるはずだ。
(いや、そうしたらあいつが出てくる)
 『ニトロを助けられる』
 そんな絶好の機会をティディアが逃すはずがない。
 例え高熱を出して寝込んでいようと飛んでくる。そして全力で恩を売り、ついでに全局ネットで生中継でもさせて『誕生日』に向けた布石にするだろう。
(それは嫌だな)
 耐久戦続行を覚悟した時、車が走り出した。また、車体が斜めになった。
「今ダヨ」
 ニトロは体を起こした。窓の外はまた立体駐車場の階上への通路だった。先ほどとはまた別の場所。だが、今回はここで降りる。
「尾行は?」
「二台後、ダークレッドノ普通車ニ代ワッテル」
「オーケー。それじゃあ、後で」
「気ヲツケテネ、主様」
 通路を登り切ったところで、ニトロは素早く車を降りた。芍薬が順路通り車を走らせるのを見送りながら、通路脇の駐車スペースに停まっている車の後ろに隠れて尾行を確認する。
 先にアイボリーの軽自動車が登ってきた。その次にダークレッドの普通車が現れ、少し速度を緩めた後、階の奥から順路を通り戻ってきたニトロの車が階下への出口通路に向かったと同時、アイボリーの軽自動車を苛立たしげに煽り始めた。
(迷惑な奴だ)
 軽自動車がせかされるように階上への通路に向かう。前に障害がなくなるとダークレッドはタイヤを路面に擦らせ最短の順路を通り、芍薬を追っていった。
(よし)
 もし停まって自分のことを探し始めたら、出口通路を駆け下りて逃げる気だった。
 だが芍薬を追っていくなら、芍薬が別の駐車場に車を止め、飛行車スカイカーをレンタルして迎えに来るのをここで待つ。
 空に飛べば逃げ道は無尽蔵だ。同じ逃げるにしても『映画』ではハラキリは不利だと選ばなかった手段だが、今回の相手には通じる。時間を稼ぐのも走行車ランナーより断然容易だ。
十八らいねんになったら免許、即行取らないとなー)
 そうすればこんな手間をかけずに乗り代わりもできる。今後またこういう事が起きないとは限らないから、絶対にそうしよう。
 利用者の途切れた立体駐車場に動くものはなく、剥き出しのコンクリートが作る独特の静寂が場を支配していた。照明の無機質な光がいつもにもまして白々しい。肌に触れる空気が湿り気を帯びた孤独を胸に染み込ませ、無性に心細くなってくる。
「まったく、ティディアとは結婚どころか付き合ってすらないってのに」
 思わず、心情が口を突く。
 ニトロは座り込んで壁に寄りかかり、静かにため息をついた。
「あいつはいなくても面倒かけやがるなぁ」
 それは言いがかりだと解っているが、ニトロはそう思わずにいられなかった。
 どうにかしてこの状況を打破したいものだが、となるとやはり今月末の『決戦の日』が何よりも大きな鍵となる。
 結婚会見を潰す……それだけではもう目的は達成できない。
 『ニトロ・ポルカト』が『ティディアの恋人』だと思っている世間一般の皆様の認識を覆し、そして絶対にティディア有利に事を捉えるであろうお呼ばれしたマスメディアを納得させ、それと同時に何よりティディアに『結婚』を諦めさせて、ついでにこういう件に巻き込まれないためのスピーチをぶっ放さねばならない。
「はぁ……」
 実にが多過ぎて、考えただけで眩暈めまいがする。
 小さく頭を振った時、携帯が震えた。
 脳裡を埋め尽くしていた憂鬱を振り払い、ニトロは携帯をポケットから取り出すや急いで接続した。声が反響しないよう口に手をあて、大きく囁く。
「芍薬、今どこ?」
もウスぐ迎エに行くゾ
「っ!?」
 受話口から聞こえてきた声は、芍薬のものではなかった。
ニトろ・ポるカト
 男と女、肉声と機械音声が入り混じる異様な声だった。
 ニトロは驚愕と不快感に硬直した背をのけぞらせるように立ち上がり、周囲を素早く見回した。
 人影は、ない。街からの音が遠鳴りに聞こえているが、音はそれだけで声もない。
 携帯のディスプレイを見ると、発信者名には電話番号が隠しもせず記されていた。よほど身元を知られない自信があるのか……
 ニトロは深呼吸をし、恐慌きたして今にも喚き出しそうな心を隅に押しやった。無駄を覚悟しながらも、問う。
「どこで番号知ったんだ?」
神ノ導きダ
 応えてきた。ニトロはすぐに言葉を返した。
「そりゃまた。あんたの神様はよっぽど暇だなあ」
オ前ハ神のテキなノだ。我ラが女神を貶メるゲ郎
「だから、俺が一方的にあいつに迷惑かけられてるんだって」
女神をアイツ呼バわリか、悪魔メ!
 突如とした叫びに、鼓膜が痛んだ。
天に代ワりオ前を罰スル! 我等ハワれ等がメ神の守護き士ナり!
(『確定』だな)
ヨいか!? オまエは――
 そこでニトロは通話を切った。即座に電源を落とし、考える。
(芍薬と牡丹に、尻尾を掴ませない相手か……)
 ニトロは携帯のメモリーカードを取り出し、それを思い切って折った。それから本体の電源を再び入れると適当に放り捨て、周囲を警戒しながら通路に出る。
 電話式の携帯は、入力される様々なデータを全てメモリーカードに記録するタイプがほとんどだ。
 彼の携帯もそれに漏れず、個人情報が詰まったカードを抜けばネットをはじめ各種データを用いたサービスは使えない。使用可能な機能は電話とテレビの電波受信機、そして位置測定のみに絞られる。
 カードに蓄えられていた電子マネーを失ったのは痛いが、しかし電話番号を知られている以上――こちらのA.I.に手を焼かせるくらいなのだ。すでに受発信記録や位置測定機能を逆に利用されてしまっているだろう。
 この居場所もすでに察知されていると考えた方がいい。
 悪用される心配をなくした本体は、慰め程度の囮としてそこに置いていく。
 代わりにニトロは財布の中の『カード型発信機』の電源を入れ、利用者用のエレベーターホールには向かわず車用の出口通路に走った。
(それにしても……)
 電話口の相手は『司令塔』だったろうか。
 司令塔だとしたら、ちょっとした挑発に乗ってきたことを考えると冷静な人物ではないようだが、それとも激昂しやすいながらも組織を的確に動かせるタイプだろうか。
 だがどちらにしても、相手は詰めが甘そうだということが判ったのは収穫だった。
 わざわざ電話をしてこなければ、こちらは相手が自分の携帯が識別されていると気づかずそこでジッとしていた。
 そこに人数を集めれば逃げ場もなく、文字通り袋のネズミだったというのに。
(――いや)
 待て。
 そうだ。
 携帯を識別できているのなら、黙ってこちらの動きをトレースしていれば良かったのだ。尾行など必要ない。わざわざ姿を現す必要などない。そうすれば、完全に不意打ちをかけて良いようにできたはずだ。
 ではなぜそんなことをしたのだろうか。
(嫌がらせ……か)
 わざと姿を現し、わざと電話をかけてきて、こちらに『追われている』……そして『追い詰められている』という実感を起こさせるつもりなら、その詰めの甘さも計算の内だと理解できる。
(綿密なのかずさんなのか)
 どちらか判らない現状ではどうとも思えないが、もしわざと詰めを甘くしてみせているのなら、これは随分いやらしい相手だ。
 本当に、ぞっとする。
(思う以上に厄介か?)
 ニトロは認識を修正しつつ車用の出口通路を駆け下り、外に出た。
 道を行く人の中にティディアの守護騎士を自称する狂騎士達がいないか一度見回し、
「……うわーお」
 ニトロの口から言葉にならない感情がだだ漏れた。
「いたぞ!」
「おーー!」
 ざっざっざっと足音を立て、あの奇妙な模様の仮面を被った連中が、ランニングウェアを着た仮面を先頭にして二列縦隊で走ってきていた。
 ざっざっざっと一定の速度で、十数人が服装は違えど揃いの仮面を被り列を乱さず、奇異の目を浴びながら繁華街の歩道を走ってくるその姿は滑稽で――そして、恐ろしかった。
「逃がすな!」
「おおーー!」
 連中が速度を上げた。
「攻撃ーーーぃぃ!」
「攻撃ぃ!?」
 動転するニトロを斬り捨てよと言うように、号令を下した先頭の仮面が手を振り上げ勢いよく振り下ろす。
「おおおぉぉーー!!」
 縦隊を組んでいた仮面達が一斉に列を崩して向かってくる!
「うわわ!」
 ニトロは慌てて逃げ出した。
 とうとう直接攻撃に出てきやがった。人目もはばからずに襲い掛かってくる奴らに捕まれば、どうなることか分かったものではない。
「天罰!」
「天罰!!」
「天罰!!!」
 そう仮面達は叫び追いかけてくる。初めは乱れて、やがて合唱するようにまとまり始めた怒号を耳にして……ふと、ニトロは思った。
 天罰。
 例えば本当にそうなのだとしたら、ではこれは一体何に対する罰なのだ? もしやティディアをいじめてやろうとしたことに対するばちだとでも言うのだろうか。
 ニトロの口元に、ニヒルな笑みが浮かんだ。
「だとしたら、あいつが好かれてんのか俺が嫌われてんのか」
 このまま真っ直ぐ逃げれば待ち伏せに会うかもしれないと、ニトロは車道に出た。走りながら左右を確認し、行き交う車の途切れを狙い一気に対岸へと走る。
 『狂騎士』達もその名に恥じぬと言うように、あるいは撥ねられることも辞さぬと言うのか無茶苦茶なタイミングで車道に雪崩込み――危うく連中と事故を起こしそうになった車の急ブレーキの音とクラクションの爆発が、ニトロの背を叩いた。
「おいおい正気か……」
 肩越しに振り返れば、警笛とドライバー達の罵声の中を真っ直ぐ貫き追いかけてくる仮面の群れ。
「天罰!!」
「天罰!!!」
「天罰!」
「天罰! 天罰!! 天罰!!!
    「天罰! 天罰!! 天罰!!!
 「天罰! 天罰!! 天罰!!!
  「天罰! 天罰!! 天罰!!!
「天罰! 天罰!! 天罰!!!」 「天罰! 天罰!! 天罰!!!
 仮面の下の形相はいかなるものか。
 命の危険もあったというのに躊躇すらなく、ただひたすらに耳を叩く大合唱を続ける狂騎士達に、ニトロは心から怖気おぞけ立った。

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