前編−2 へ

 一晩を挟んでも、ティディアが風邪のために高熱を出して寝込み、全ての仕事をキャンセルした騒ぎは尾を引いていた。
 風邪予防の関連商品が売り上げ高めたり、製薬会社の株価が上昇したり、なぜだかたまたま風邪をひいていただけの芸能人がコメントを出していたり。
 昨日一日中、各局ニュースチャンネルで大きく扱われていたティディアの情報は、当然今日になってもトップ項目で伝えられている。
 たかが風邪――といっても、確かに非常に体力と免疫が低下した状態で処置を間違えこじらせれば大事となりかねない病だ。
 また確かに、専用の素子生命ナノマシン入りの薬を投与してウィルスを全滅させるまで、患部の炎症が治まり体力が戻るまでに無理をすれば何度でもぶり返すこともある。
 何より、これまで王家代表となってから一度も体調不良を訴えたことのない無敵のティディア姫が『寝込んでいる』という事実が、たかだか風邪をひいただけのことを異常な大事おおごとに思わせていた。
 今もラジオ番組の合間に流れるニュースがティディアの病状を、薬が効いて小康状態だと伝えている。そしてゆっくり休んでしっかり治して欲しいとも。
 ……もし今あのダイヤモンドダストの中でビキニ姿な王女の写真を送りつけたら、ニュースを読んでいるアナウンサーはどんな反応をするだろう。
 悪戯心にそう思いながら、ニトロは車窓を流れる町並みに目を移した。
 世はこともなく動いている。
 芍薬の運転する愛車が走る国道は、朝と昼の境の時間に人も車も少なく、道沿いには開店したばかりの店々が客を待ちぽかんと口を開けている。
 ティディアが死にでもしたらそりゃ大騒ぎだろうが、寝込んだ程度で世が大きく変わることもない。
 ラジオのニュースが終わり、再開した番組のパーソナリティがニュースを受けてティディアの誕生日の話題に触れた。
 あと二週間。
 正確には、十三日後。
 パーソナリティはそれまでには元気になって欲しいと言っているが、そんなのは望むまでもない。あいつは、その日だけは、例え全身の骨が砕けていようが元気に『会見』を開くだろう。
「…………」
 『会見』のことを思った途端、体に緊張が、脳裡に途切れない不安と恐れが――ろくでもない未来の映像が次々と浮かんでくるのにニトロは内心ため息をつき、小さく頭を振ってそれらを打ち消した。
 視界の中に、彩り豊かに野菜や果実を並べるベジタブルストアが入ってきた。客引きの手品師か、奇妙な模様の仮面をつけたタキシード姿の男が軒に立っている。
(……熱か)
 窓からサイドミラーに、そして背後へ流れていく店を眺めながら、ニトロは躊躇いがちに思った。
 一晩を挟んで芽生えた、少しの心変わり。
(帰りに……リンゴでも持っていってやろうか……)
 病気の辛さは知っている。
 自分も子どもの頃、風邪には病のうちに味わう苦悶と心細さを味わわされてきた。
 あの時、看病してくれた母の作ってくれた、すりおろしリンゴの何と美味しかったことか。心配した学校の友達が、お見舞いに来てくれた時の何と嬉しかったことか。
 ティディアは、小憎らしくはあるが知らぬ仲ではない。
 普段病気にならない奴にとって寝込むほどのダメージは思う以上に苦しいはずだ。
 昨朝は見舞いの催促を断ったが、しかしこのまま病に弱った彼女を捨て置くのも気が引ける。
(芍薬は、お人好しだって言うかな)
 まあ自分でも甘いとは思うが、それは正直な気持ちだ。
 患った病が自業自得の極みであることはしっかりツッコンでおくとしても、見舞いに行くくらいはしてやってもいいだろう。
(少しは恩を売れるかもしれないし)
 打算的にも思いながら、ニトロはふと思いついた企みに口元を歪めた。
(だけどその前にちゃんと嫌がらせをしておかないとな)
 それはいつもの迷惑へのささやかな復讐のために。
(楽しいぞって、写真を添付してメールしてやろう)
 ニトロは向かう先で行われている、イルカや海獣のショーを瞼の裏に描いた。
 それをバックに物凄い笑顔の写真を送れば、ティディアは今から行くから待ってろと返信してくるだろう。そうしたら、もう帰ると車の中で芍薬と一緒の写真を送り返す。
 きっとティディアは身悶えて悔しがる。
 もしかしたらまた熱を上げるかもしれない。
 そして、その後に突然自分が見舞いにやってきたら、驚く。
 いつも手玉に取られているから、たまにはこっちが弄んでもばちはあたるまい。てーか罰を当てられたら神は敵だ。
「芍薬」
「何ダイ?」
 ダッシュボードのモニターに、ユカタという民族衣装を着た芍薬が現れた。
「水族館のさ、イルカとかアシカとか、そういうショーの時間を出してくれる?」
「承諾」
 芍薬は機嫌良さそうにユカタの袖を揺らしている。最近芍薬は、少し前に撫子が贈ってきた衣装データの中にあった、ニトロに良く似合うと言われた淡い青色のそれを好んで着ていた。
「ハイ、イルカ・アシカ・海猫シーキャットノショーガ二時間置キ十五分、ソレゾレ日ニ四回ズツ行ワレテルヨ」
 すぐに芍薬が画面に出してきたタイムスケジュールを見ながら、ニトロはうなずいた。
 手ごろな時間に行われるショーがある。それを最後に観て、『計画』を実行しよう。
「ありがとう。混み具合はどうかな」
「道路ハ順調ニ流レテル。水族館ノ駐車場モガラガラダヨ。平日ダカラ、人モ少ナインジャナイカナ」
「ああ、それもそっか」
 間抜けな質問をしたとニトロは苦笑した。
 それから芍薬に水族館のサイトを出してもらい、芍薬が集めてきた個人サイトの情報を合わせて見所を話し合う。
 最近、ニトロは水族館というものが至極気に入っていた。
 これまでは特に好きでも嫌いでもなく、普段食卓に上る魚介類や見たこともないような世界中の水生生物を見られる場所……という当たり前の認識しかなかったが、いやいやそれはあまりに当たり前過ぎた。
 普段見慣れぬ世界に住む生物の動きは、楽しい。
 水中という陸生の身には遠すぎる世界で、自分たちから言えばまるで大空を自在に泳ぐ生命達のなんと優美なことか。
 時に孤独に時に群れ、流線型の体躯で水壁を貫くものがあれば平面的な身体で水宙を飛ぶものもある。水草はたゆとうように揺れ、珊瑚はジッと鮮やかな色彩画を固持し、それらの周囲で戯れる小魚は眼にも鮮やかな幻影に思える。
 水底の甲殻も軟体もマイペースに砂や岩の上を歩き、それとも無機物のごとくまるきり動かず。
 水槽の分厚いガラスから溢れる冷気を身に浴びてただ見つめれば、たかだか水槽の中にも驚きに満ちた多様な世界が広がっている。
 海の中の一部を切り取りそのまま持ってきたような巨大なプールもいい。
 小さめの水槽の中で再現された水辺の生態系もいい。
 不気味な姿で闇を渡る深海生物も面白い。
 みんなのアイドル、海獣達のショーは楽しい。
 みんなの恐怖、水生猛獣なんかもかわいいものだ。
 なーーーーーんにも考えずに漂うクラゲなんか最高だった。
 それに何より『正体』がバレる心配が少ないことがとにかく素晴らしい。
 注目は水生生物達が集めてくれるから観察の目が人に向くことはほとんどない。薄暗い照明も顔の造型をほどよく隠してくれる。例え騒ぎになっても警備アンドロイドがすっ飛んでくると思えば安心感も上等だ。
 静かで、涼しくて、気がつけば『約束の日』を思い硬くなる体をリラックスさせるには最適な空間だった。
「今度は南副王都サスカルラにも行ってみようか」
「御意。キット楽シイヨ」
 そこにはアデムメデス一大きな水族館がある。セスカニアン星の大海蛇シーサーペントがいるというから、それも一度生で見てみたい。
 国道同士の大きな交差点に差し掛かり、芍薬はウィンカーを出して車を右折帯に移していった。信号待ちの車列の最後尾につこうとし――
「アッ?」
 芍薬が肖像シェイプの頭に怒りマークを浮かべてブレーキを作動させた。直後、左車線にいた車がウィンカーも出さずに列に割り込んできた。
「危ナイネェ」
 芍薬が怒りを口にする。
 ニトロは芍薬が研鑽シミュレートを積んで腕を磨いているドライブ機能を信じているから、そう慌てることもなかった。
「まあ、こういう奴もいるよ」
 芍薬をなだめながら前に停まる車を見る。
 車は人気メーカーのバンで、ワックスの効いたダークブルーの車体が陽光に輝いている。あんな乱暴な運転をしているということは、A.I.ではなくドライバー自身が運転しているのだろう。
 信号が青になり、列が動き出した。前の車も発進し、右折直後に現れたコンビニエンスストアの駐車場へ急いで入っていく。拍子にちらりと運転席が見えた時、そこではビジネスマン然とした男がやはりハンドルを切っていた。
 駐車スペースへ突っ込むようにその車が停まるのをルームミラーに見ながら、ニトロは首を傾げた。
「トイレにでも行きたかったのかな」
 だとしたら、あの急ぎよう……限界間近だろう。
「主様ハ大丈夫?」
「ああ、大丈夫」
 ラジオのパーソナリティが話し始めたスポンサーの商品紹介コーナーが面白くなく、ニトロはチャンネルを他星のヒットチャートに変えた。耳慣れないが、不思議と落ち着く旋律が車内に満ちる。
 この曲のデータを出してもらおうとニトロは芍薬に目をやると、すでにそこには情報が出されていた。ラジオで気にかかった曲がかかるとすぐに聞くニトロの癖に、芍薬はもう慣れていた。
「ありがとう」
 半ば呆気に取られながら言う。
 芍薬が小さく頭を垂れて、♪マークが一つ浮かんで消えた。

「ゴ利用アリガトウゴザイマシタ」
 突然、ニトロの耳を機械音声が叩き、彼は現実に引き戻された。
 意心没入式マインドスライドの遠隔操作――特にゲームの操作方法として身近な技術を応用した、巨大な水槽の中にある小型ロボットに意識を移し、限りなく現実な仮想の海をまさに魚となって縦横無尽に泳ぎまわれるアトラクション。
 休日ともなれば予約で一杯のそれも平日では空いていて、さらに運良く自分の後に予約が入らなかったため、ニトロはたっぷり一時間クラゲとなって海に漂っていた。
「部屋ハ暗クナッテイマス。足元ニオ気ヲツケ下サイマセ」
 時間が来るとアナウンスと共に接続が即座に遮断されるのが無粋といえば無粋だが、利用客の回転を守るには仕方のないことなのだろう。
「……ふぅ」
 十分楽しめたし、十分リラックスもできた。
 フルフェイスヘルメット型の体験装置、『格闘トレーニング』でも使用している馴染みあるインターフェイスを頭から外し、ニトロは傍に待機していたスタッフ・アンドロイドにそれを返した。
「マタノゴ利用、オ待チシテオリマス」
 体験装置と引き換えるように、貴重品を預けていたカードキーを返してくる。キーを受け取ったニトロはアンドロイドの誘導に従い、大勢の人が専用のシートに寝ている薄暗いアトラクションルームを出るとすぐ脇にある窓口に立った。
 キーを所定のスロットに流し込む。すぐに預けていた財布、携帯電話、それにスポーツキャップが戻ってきた。
 キャップを被り、財布をポケットにしまう。携帯電話の時計を見ると、ちょうどいい時間だった。
(予定通り)
 機嫌よく軽い足取りで、目的のプールへと向かう。
 後は海猫シーキャットの最終公演を見ながら、ティディアに自慢して、それから芍薬と一緒に彼女を残念がらせて、で、帰る。
 そして帰りに来る途中で見たベジタブルストアにでも寄り――やはり芍薬にはオ人好シダと言われたが――リンゴを買って見舞いに行ってあいつを驚かせよう。
 ああ、そうだ。
 城の警備アンドロイドでも芍薬に乗っ取らせてもらって、ティディアのビックリ顔を写真に撮ろうか。いつもなんか知らんうちに映像記録を撮られているからそれくらいやり返してもいいだろうし、きっとヴィタも喜んで乗ってくれるだろう。
 薄暗い照明の中、水槽から発せられる青い光が神秘的で、涼しい館内は深海のような静寂に満ちている。時折話し声や子どもの歓声が聞こえてくるが、それもどこかへ吸い込まれて溶け消えていく。
 キャップのつばで影ができ、薄暗い照明もあって誰もこちらを『見た顔だ』と眺める者はない。悠々と水槽を眺めながらショーの会場へ向かっていると、ポケットの中で携帯が揺れた。
 誰かと思い取り出せば、芍薬からの連絡だった。
「……」
 ニトロは周囲を見渡した。近くにトイレがあるのに気づき、携帯の保留のボタンを押してそちらへ向かう。
 トイレに入り中に誰もいないのを見て、ニトロは電話をつないだ。
「どうした?」
 のん気な問いかけに、素早く芍薬が答えてきた。
[主様、戻ッテキテ]
「?」
 ニトロは眉根を寄せた。芍薬はこの後の計画をちゃんと知っている。なのにそれを果たさずに戻ってこいと言うのは……
「どうした?」
 今度は気を入れて聞き返す。返ってきた芍薬の声には、確固としたものではないが、緊迫のトーンが含まれていた。
[気ニナル情報ヲ掴ンダンダ]
「気になる情報?」
『バカノ馬鹿』マニアノコミュニティニ妙ナ動キヲ消シタ痕跡ガアルンダヨ]
「妙な動き、ねぇ」
 ニトロは怪訝につぶやいた。
 これまでも、例えば『ティディア・マニア獣人ビースター』のような過激な連中に絡まれることはあったが、『トレーニング』を積んでからは特に危ない目にはあっていない。
 因縁をつけられてもするっと逃げるための技術は特に力を入れて習得した事、複数人に絡まれても芍薬の助けを待つまでの時間を作るのにも慣れた事で、今ではあしらい方も巧くなり余裕が出ている。
 そういう情報はコミュニティでもやり取りされているらしく、さらに最近では――認めたくないことではあるが――『バカの馬鹿』マニアの中でティディアとニトロの交際を好意的に受け止める者が主流となり始めていることもあって、以前ほど攻撃的な態度を取られることは少なくなった。
 特に後者の影響は大きい。
 ニトロに絡んでいる時のティディアが本っっっ当に幸せそうだ、という、自分にとっては迷惑極まりないことがバカの馬鹿マニアに『ニトロ・ポルカト』が受け入れられ出した理由だそうだが……同時にそれは、いつの頃からか『狂騎士』と呼ばれるようになった過激派の嫉妬心と憤激へ素晴らしい爆薬を提供するようにもなっていた。
「……まさかさ」
 ニトロは、ため息混じりに聞いてみた。
「『誕生日の公約』を前に『狂騎士』がみんなして俺を襲おうとしてるとか、そういうことじゃないよね?」
流石サスガ主様]
「…………」
 なんとはなしに、冗談とばかりに、軽く、本当に気軽に思いつきをちょいと口にしたニトロに、芍薬が感嘆を返してきた。
「……そりゃ、確かに、気になるなぁ」
 ニトロはうめいた。
 心に、緊張の糸が絡みついてくる。
「分かった。すぐに戻る」
 そして彼は、通話を切るなり脇目も振らず駐車場へ向かった。
















「隊長!」
「どうした参謀」
「ニトロ・ポルカトがこちらの動きを掴んだようだと、我が配下より連絡が!」
「なんだと!? それは本当か!?」
「しかし、一体どうやって……!」
「どうやらニトロにはなかなか優秀なA.I.がついている模様です。きっとネットに残った我らの僅かな痕跡を探し当てたのでしょう」
「うぬ……ではどうする。中止とするか?」
「いえ、このまま押し通しましょう」
「可能か? それで我らの目的は果たせるのか?」
「はっ。あの悪魔めが我らの動きに感づいたのは、むしろ幸いです」
「なぜだ、参謀」
彼奴きゃつは今ごろ不安に襲われているでしょう。それをもっと、もっと膨れ上がらせてやるのです。さすればニトロ・ポルカトに与える我らへの恐怖はより大きなものとなり、かの者の小さき魂は萎縮する。我等に泣いて謝るのが目に見えるようではありませんか!」
「おお! なるほど!」
「計画をパターンBに移行し、存分に恐れさせてやりましょう!」
「許可する! 皆も参謀の指示に従い、けして抜かることなく行動せよ!」

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