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「恥知らず」
 その時――
 ニトロに届いたのは、爪に引き裂かれる痛みでも殴り飛ばされる衝撃でもなく、とても涼やかな声だった。
 思わず閉じていた目を開けば、顔を庇う腕の先に、人があった。
 背は自分より少しばかり低いだろうか。だがすらりと伸びた体は実際より高く見え、引き締まった体のラインは女性のそれを描き出している。
「あ……?」
 獣人が驚愕の声を漏らしていた。
 ニトロも、瞠目するしかなかった。
 獣人の大男が振り下ろした太い腕が、ニトロの眼前に立つ女性に片手で受け止められていた。
 ふいに獣人が悲鳴を上げた。
 見れば女性の手を振り払おうとした瞬間、爪を立てられたらしい。その鋭い爪は獣人の腕にがっちりと食い込み、逃げることを許さない。女性の毛皮に覆われた手の甲に血が伝っている。
 ――女性も、獣人だった。
 だがどの獣を起源とするのかは後ろ姿からは判らなかった。皮製のスーツに包まれた肉体に溢れるしなやかさはネコを思わせるが、長く伸びた――銀に藍を溶かし込んだような、不思議な色の髪がそのイメージの中にない。頭頂にピンと尖る耳はどこかイヌのようだ。
 ただ一つ判るのは、尾のないタイプの獣人のようだということだけだった。
「だ、誰だ……貴様」
「あなたに名乗る名はありません」
 冷たい声。獣人の男の顔から驚愕と戸惑いが消え、再び怒りが顔を覗かせた。
「邪魔をするな!」
 怒声を上げ、自由なもう一方の手で獣人の女に掴みかかろうとするが、それも軽々受け止められる。
 信じられない光景だった。一見するだけで両者には大きな体重の差がある。獣人の女は、一体どれほどの怪力を持っているというのだ。
「恥知らず」
 また、女性が言った。獣人の男の腕を極めるように絞り上げながら、抑揚まで涼やかに。
「ニトロ様を襲うのならもっと面白く、それができないのなら優美になさい」
「お待ちなすって、何その主張」
 言って、はたとニトロは悟った。『面白く』そのキーワードと、自分を様付けで呼ぶことを併せれば、女性の正体は自ずと判る。
「……とりあえず、名前を聞いておこうかな」
 ニトロが言うと、女性は彼が自分の正体に勘付いたことを理解したようだった。辞儀をするように軽く膝を折り、そして投げ上げるように獣人の男の腕を解放した。
 ――その瞬間
 あっという間もなく、女性の体が男の懐に鋭く踏み込んでいた。
 気がつけば、その鋭利に突き出された肘が、腕を解放されたことに安堵していた男の鳩尾みぞおちにえぐりこむよう深く突き刺さっていた。
「――――っ?」
 何が起こったのか理解できない……そんな顔で獣人は白目をむいている。うめき声すら上げることもできず、失神していた。
 女性が、肩にのし掛かってきた大男を払い落とすように脇に避ける。すると男は支えを失い崩れ落ちて、その場に鈍い音を立てて倒れ伏した。
 女性は大男を一瞥した。彼女はどこか少し、困惑している様子だった。ニトロはそれに疑問を覚えたが、大男が完全に失神していることを確認して彼女が振り返った時、そんな疑問は忘れ去ってしまった。
 その獣人の女はネコ科を起源にしていると、そこではっきり判った。
 山猫の容姿が顕著に現れていた。丸みを帯びた顔に雄々しさを誇りながら、どこか優しげな気品が彼女には漂う。
 立ち姿は落ち着いた大人の雰囲気に包まれ、全身を覆う藍銀あいがね色の美しい毛並みは、光の加減で銀を飲みこむ藍から青みがかった銀へと変わり見えて、まるで最上のシルクのように煌めいていた。
 中でも、最も目を引くのは蒼月色に輝く瞳だった。
 月の光を閉じ込めたブルートパーズ。その美しい真円が、双眸の中できらきらと灯っている。
 ニトロは彼女の瞳を、素直に、綺麗だと思った。
「お初にお目にかかります、ニトロ様。先日ティディア姫の執事に任ぜられました、ヴィタと申します。どうぞ、以後お見知りおきを」
 改めて、ヴィタと名乗った女性が辞儀をしてくる。礼節を厳しく教え込まれた貴族の令嬢のように、優雅な所作だった。
「よ、よろしく。
 えっと、それと、助けてくれてありがとう」
 急転した状況に少し戸惑いながらも、ニトロが礼をすると、ヴィタは猫の口で微笑みを作った。彼女の落ち着いた雰囲気に、猫特有の愛嬌も合わさり妙に心をくすぐられて、彼にようやくゆとりが生まれる。
 そこでニトロは、ふと思った疑問を口にした。
「その毛色、ネコの獣人には珍しいね。耳の形もちょっと違う気がするし。何星どこの生まれ?」
 その問いに、ヴィタは瞳を興味深そうに光らせた。危機の中にありながら、その違和感に気づいていた少年に感心もする。主が言っていたが、どんな危険の中でも自分の気づかないところで余裕を保っている、というのは、なるほど確かだ。
「よくお気づきになりましたね。毛色と耳は後回しにしていて、間に合わなかったんです」
「間に合わない? 何が?」
わたくしは、ミスリナの銀狼属も引いています」
 言うや、ヴィタの容姿が見る間に変化していった。
 あまりに意表を突かれて、ニトロはあんぐりと口を開けることしかできなかった。
 やがて『変身』が完了すると彼女の姿は狼の風貌となっていた。どうりで、彼女の尖った耳にイヌの印象を受けたはずだ。
 ミスリナ――蒼い雪が降る星。その北限に住む銀狼属の獣人は、その蒼雪に染め上げられた神秘の毛並みを纏うという。
 それが今、すぐ眼前にいた。
「……変身能力者メタモリア……」
 驚嘆に任せて、ニトロはうなった。
 その存在は知っていたし、テレビで見たことは何度もある。しかし目の当たりにしたのは、初めてだった。
 と、ヴィタが今度は狼の口で笑いかけてきたかと思うと、また姿を変え始めた。
 毛皮を作る体毛が全て肌に溶け込むようになくなっていく。先の変身とはまるで別の変身だった。数十秒の後にはヴィタに獣人の名残はなくなり、彼女の容姿は完全に猿孫人ヒューマンとなっていた。
 綺麗な人だった。
 年は二十代前半だろう。しゃんと伸ばされた背筋は気品に溢れ、上流階級の教育を受けた令嬢然としている。
 狼の影響か気高さを感じさせる顔立ちをしているのに、ネコ科の影響かどこか愛嬌がある。冷徹であるような、飄々としているような、どちらにも取れる掴み所のない涼やかさを持ち、それが愛嬌に反して不思議な雰囲気を作り出していた。
 これまでニトロが出会ったことのないタイプの麗人だった。
 ミステリアス、と言えばそうかもしれない。瞳と藍銀色の長い髪が先よりも神秘をまして見える。
 蠱惑こわくの美女と評されるティディアと並べばそれは絵になるだろう。彼女がメディアの前にデビューする時が楽しみに思えた。
(あれ?)
 よく見ると、耳が目の横にない。どこにあるのかと思えば耳だけは獣人――狼のもので、髪の中へそれは巧く伏し隠されていた。
「なんで――」
「はい」
「耳を寝かせてるの?」
「こうしていると、混血ミックスと思われませんから。色々と面白くて」
「ああ、そう」
 何だか、あれが新しい執事に選らんだ理由が解った。
「そりゃ完璧に思われないだろうね。騙されるよ」
「皆様、驚かれます。楽しいですよ」
「うん、あなたがティディア属だってことはもう分かった。
 ところで、基本はどの姿?」
「この姿です。母はまるきりアデムメデス人の特徴だけで」
「じゃあ獣人はお父さん?」
「はい、父は山猫の起源が顕著です」
「狼じゃないの?」
「父の母が、山猫とミスリナの銀狼の混血ミックスでした」
「あ、隔世遺伝してるんだね。
 ……あれ? お母さんも『まるきり』ってことは」
「はい、混血ミックスです。母の父は六臂人アスラインです。母方の曾祖母にはセスカニアン星の尖耳人エルフカインド
 なるほどと、ニトロはうなずいた。あの怪力は六臂人アスラインの特徴からきているのか――
「って、多様混血ヴァリアスなんだ」
 ニトロが目を丸くすると、ヴィタは嬉しそうに微笑んだ。その微笑みは儚げに美しく、確かに、尖耳人エルフカインドの血を引いていると思わせた。
「じゃあ変身能力者メタモリアなのは」
「父の父が変身能力者メタモリアの獣人でした」
「ここまで多いのは初めて会ったよ……」
 しかも様々な種族の特徴と能力の良い所取りをしているようだ。こんな例は稀だろう。ティディアもよく、こんな人材を得られたものだ。
「あ、そういやティディアはどこにいる?」
「こちらに向かっています」
「……?」
 ニトロはヴィタの言葉を良く噛み砕いて、心に湧いた疑問を口にした。
「てことは、ヴィタさんが先にここに着いたってこと?」
「いえ、最初からここにいたということです」
「最初?」
「メルトン様の逆襲が始まった、その最初」
「ほう」
 ニトロは腕を組んだ。
「じゃ、見てたんだ」
「見ていました。ニトロ様、楽しかった」
「そりゃどうも」
 笑顔を浮かべて見せるが、どうしてもひきつるのは避けられなかった。
「で? なんですぐに助けてくれなかったのかな」
「黙秘権を行使致します」
「先代のそういうところまで引き継がなくてもいいと思うんだ。ヴィタさん」
 ニトロはため息をついた。とりあえず無用の緊張を強いられたことに関して抗議しておきたいところだったが、それは彼女の主人にするべきだろうと空を見上げる。
 鼓膜を微かに振るわせる高出力エンジンの振動音。
 星もまばらな夜空の中に、黒塗りの高級飛行車スカイカーがこちらに向かってきていた。
「ちょうどのタイミングだ」
 リムジン型の飛行車スカイカーは急速に高度を落とすと、ニトロ達の数m上空で停車した。ホバリングするリムジンのドアが勢いよく開き、その中からスーツ姿の女性が身を乗り出す。
「もうちょっと遊べなかったの?」
 開口一番、彼女の口からこぼれたのは無念だった。恨めしそうにヴィタを見る。
「気絶しないくらいに留めたつもりでしたが、少々計算外のヤワさでした」
 ヴィタが足元の獣人を指差す。ティディアは横たわる大男を不機嫌そうに一瞥して、ため息をついた。
「どうせ獣人のタフさも失うくらい運動不足なんでしょ」
 そして車内に言葉を投げる。運転手かA.I.か、いずれにしろ手の者に通報でもするように命じたのだろう。
 それからもう一度、ぴくりとも動かない獣人を見てティディアは口を尖らせた。
「あ〜あ。せっかくピンチなニトロを助ける女神様になれるところだったのに」
「やっぱりそういうところだったのかい」
 それまで沈黙していたニトロが、突然口を開いた。
 組んでいた腕を解き、宙に停まるリムジンを下げようともしない王女に手招きする。
「その話、膝付き合わせてゆっくり話そうか。ティディアちゃん」
「あ、ちゃん付けなんて嬉しいな」
「聞いていたんだろ? どうせ。早く降りて来い、な?」
 ニトロは満面に笑みを浮かべていた。
 その笑顔は、完璧な笑顔だった。
 一分の隙もなく顔全体で笑顔を作っている。どこにも笑っていない場所などない。表情筋の細胞まで笑っていそうだ。素晴らしい笑顔……あんまり素晴らしすぎて、寒気すら覚える。
 ティディアは、眼下で完璧な笑顔を顔に張り付かせたまま手招きし続けるニトロから目が離せなかった。目を離してはいけないと、何故か思う。無理矢理にでも愛想笑いで応えたかったが、口の端は横に引かれることはあっても上には動かなかった。
(こ、これはまずいことになったわね)
 ニトロの怒りが、洒落にならないレベルに達そうとしている。
 ここは大人しく従っておくべきだろうか。
 しかし、それはリスクが高いことだとティディアはすぐに思い直した。芍薬へのクラッキングが、まだ結末を迎えていない。それいかんによっては本当に最悪の結果を招く。
 ちょっとこれは、割とピンチかもしれなかった。
(逃げるか)
 逃げればニトロの怒りを加速させてしまうだろうが、それより何の手も打たず『最悪の結果』を招いた時のリスクの方が、圧倒的に高い。今なら火に油を注ぐだけで済むかもしれないのに、それをやめて原子炉から冷却材を抜くはめになったらたまらない。
 退いて、体勢を立て直す。
 うまいことクラッキングを終わらせて、芍薬とメルトンの安全を確保しておかねばならない。ニトロのシステムの壊れた箇所を修理するよう手配して、そして全てを元の通りに戻す。
 それからなら、いくらだって怒られよう。万全の態勢で、メルトン引き連れ菓子折り持って、出頭もしよう。
 ティディアは瞳をヴィタに向けた。
 ヴィタの蒼月色に輝く瞳が、数拍の間、消えた。瞼を閉じて『了解』の意志を伝えてきた。
 と、その瞬間だった。
「どこへ行くんだいヴィタさん」
 ニトロの手が、ヴィタの手首を掴んでいた。
 掴まれて初めて、ヴィタは戦慄した。分からなかった。目にも止まらぬ疾さだった。この獣人の血を引く目を持ってしても、動きを捉え切れなかった。
 そして、ニトロの手を振りほどこうと腕を動かした瞬間――
「……痛い」
 ヴィタは、つぶやくように悲鳴を上げた。
 信じられなかった。
 六臂人アスラインの血を引いた怪力が通用しなかった。
 例え獣人化していなくとも大の男を赤子扱いできる力が、完全に凌駕されていた。
 ニトロに掴まれた手首が軋んでいる。これが話に聞く『ニトロの馬鹿力』か。あんまり怒った時にも出現するとは聞いていたが、まさか、これほどとは!
「はーやーくう、降りてきなよティディアちゃーん」
 ヴィタを捕まえたニトロが、もう一方の開いた手で手招きを再開する。ヴィタは逃げられないと悟ったようで、大人しく抵抗する素振りも見せない。
(ここで『見捨てる』――は、悪手ね)
 ティディアは、即座に選択を変えた。
 芍薬がどう出るか、メルトンが大人しく従うか分からないが、早急にクラッキングを終わらせるしかない。それまで、ここで出来る限り時間を稼ぐ。
 ティディアは車内に向けて小声で、しかし通る声で素早く命令を下した。
オング終了。メルトンごねたら実力行使許可。とにかくここに引っ張ってきて」
「拒否」
「あれ?」
 ティディアは目を丸くした。
「え?」
 完全に意表を突かれて、思わず疑念が口をつく。
「なんで?」
「ダカラ拒否ダッテ。ティディアチャン」
 車載スピーカーから流れた、その女性系のA.I.の声に聴き覚えはなかった。
 だが、ティディアは、それが誰のものなのか瞬時に理解していた。
 出しっぱなしにしていた宙映画面エア・モニターを一瞥し、そこに表示されているステータスが、目を離していた一時の間に激変していたことを確認する。
 戦況は一体どう動いたのだろうか。ただ、芍薬が勝った。それだけは確かだった。
「えーっと。
 初めまして、でいいかな? 芍薬ちゃん」
「初メマシテ、バカ姫様。ヨクモヤッテクレタモンダネ」
「ティディア! 早く降りて来い!」
 業を煮やしてニトロが怒鳴った。
 ティディアの頬を冷や汗が伝った。
「主様! 大丈夫カイ!?」
 リムジンから聞こえてきたA.I.の声に、ニトロは驚いた。
「芍薬!?」
「御免ヨ、主様。遅クナッチャッタヨ」
「ああ、無事だったんだ」
 ニトロの笑顔が、ようやく人らしくなった。
 それと同時にヴィタを捕まえている力も驚くほど弱化したが、彼女は逃げるのはよしておこうと思った。下手に動いて癇に障ってしまったらよくない。それは得策ではない。
「いや、いいさ。芍薬、どこもやられてないか?」
「あたしハ平気ダケド、ハードガ幾ツカヤラレタ。
 ソレヨリ、言イツケ破ッテ、メルトンヲ少シバカリ壊シチャッタヨ」
 芍薬がうなだれているのが手に取るように分かる声だった。だが、ニトロはさして気にする風もなく言った。
「少しばかりってことは、修復できるぐらいにしてくれたんだろ?」
「御意」
「ならいいさ」
「本当ニ? 遠慮ナク怒ッテクレテイイヨ、主様」
「それぐらいで済んだなら全く問題ない。どっちも直せばいいんだから。
 とにかくお疲れ様、芍薬。ここまでやられてもメルトンに手加減してくれて、ありがとう」
「ソンナ、勿体ナイ……」
 嬉しそうな、照れくさそうな、芍薬の声。ニトロは笑った。
「それと、金は幾らでもかけられそうだから、修理ついでにシステムを増強しよう。芍薬の好みに合わせるから適当にプランを立てておいてよ」
 その言葉に反応したのはティディアだった。
「あ、それで許してくれる?」
「それじゃ芍薬、降りてきてくれ」
「あれ? ニトロ? 聞いてる?」
「聞いているさー。許すわけないだろー?」
「……また、痛い」
 突然ニトロの握力が悪魔的なものに戻って、ヴィタはつぶやいた。下手に動いていた方がマシだったかもと、ちょっぴり後悔する。
「サテ」
 芍薬がオングストロームを介して支配下に置いた、リムジンの専用A.I.に代わって操縦を行う。
「主様ニタップリ絞ラレテキナ」
「ああ、芍薬ちゃん。そんな殺生な」
 飛行車スカイカーを宙に浮かべる反重力飛行装置アンチグラヴ・フライヤーが音を立てて静まっていき、それに比例してリムジンの高度も下がっていった。ホバリングしていた位置から、速やかに、ニトロの目前に降りていく。
 ティディアは悪あがきをしなかった――否、できなかった。
 リムジンの高度が下がるにつれて、ニトロの笑顔率も下がっていった。代わりに上昇していく、鬼の形相率。その傍らで、悲哀に満ちたマリンブルーの瞳が助けを求めるようにティディアを見つめていた。
「地獄の底から這い出てきたような顔のニトロも素敵」
 ティディアがなんとか場を和ませようと、歩み寄ってきた最愛の少年にかけた言葉は意味を成さなかった。
 伸ばされたニトロの手が、ティディアの足首を掴んだ。
「い、痛ーーーーーっ!」
 骨を圧砕されそうなあまりの握力に、ティディアは悲鳴を上げた。
「ま、待った! メルトンちゃんに頼まれただけなのよ。芍薬ちゃんに逆襲したいって、そんでニトロのA.I.に戻れるよう協力してくれって!」
「だからって許すわけないだろー」
 にっこり笑って、ニトロはティディアをリムジンから引きずり出した。
「わ!」
 足を掴まれバランスもへったくれもなく引っ張られ、ティディアは派手に尻から落ちた。臀部をアスファルトに叩きつけられた衝撃が尾てい骨を伝い骨盤へ走るが、しかし足首の痛みがその激痛よりも勝って、痛覚が混乱でも起こしているのか訳の分からない痛みに神経を叩かれティディアの顔が奇妙に歪む。
 泣き笑いのような顔で腰を押さえているティディアの横に、ニトロはヴィタを並ばせた。
「ニトロひど……ぃ」
 ティディアはニトロを見上げて、息を飲んだ。怒気に塗り固められたニトロの恐ろしい形相。夜空に浮かぶ細い赤月がちょうどニトロの頭に重なって、弓なりに尖る両端がまるで血にまみれた角に見える。
 鬼だった。彼は鬼になっていた。
 そして鬼が、あらん限りの声を絞って怒号を上げた。
「二人とも、そこに正座ぁ!!!」

 翌日の新聞のトップ記事は、各社共に同じものだった。
 カルカリ川に沿うサイクリングロード。その硬い地面に正座する王女と謎の女性、そして彼女らに憤怒の顔で説教する少年の姿が、鮮明な写真ででかでかと掲載されていた。
「ティディアちゃんが元気ないのは、このせいなのね」
 母がため息混じりに言うのに、ニトロは
(ちゃん付けはやめてほしいなぁ)
 と、心中でため息を返した。
 壁にかけた大きなプラズマテレビに、王城の地下に造られた植物園を紹介するティディアが映っている。生中継のその中で、彼女はいつものようにオーラを放ち、明るく得意の話術も雄弁にカメラを案内している。
 ただ、歩き方だけはいつもと違った。足が痛いらしく、ひょこひょこと歩いている。
「そうかな」
 ニトロはそれを一瞥して、またノートパソコンのモニターに目を戻した。ノートパソコンは、ホームシステムを統括するメインコンピュータと有線ケーブルでつなげてある。
「そうよぉ。お母さん、鋭いんだから」
 母は息子が初収入でプレゼントしてくれたソファに座り、板晶画面ボードスクリーンに出したゴシップ紙とテレビを見比べながら言う。
 そういえば写真の片隅で寝そべる獣人の大男については、どこも誰も追及していない。ティディア直属の兵に連れていかれたから、もしかすると悪ふざけの一員としか思われていないのだろうか。
「絶対、ニトロに怒られたからへこんじゃったのよ」
「はいはい」
 適当に母の言葉を流しながら、ニトロはホームシステムの設定画面でちょこちょこ動いている、デフォルメされた芍薬の肖像シェイプを眺めていた。
「何があったのか知らないけど、優しくしないと駄目よ?」
「分かったって」
 ニトロはため息混じりに応え、またテレビを見た。
 確かにティディアには、歩き方以外の表面上はいつもと変わらないが、どこか違和感がある。
 その違和感は、明らかに姫は元気がない……とまで言うには不十分なものの、今朝大々的に流れた『サイクリングロード二時間正座事件』と併せてみれば、母が言うまでもなく王女がへこんでいると誰もが気づくだろう。
 そしてあのティディアがそうなることなど、極めて珍しい。
「それで……メルトンの具合、どうかな? 原因判った?」
「うん、判ったよ」
 ニトロが実家にやってきたのは、昼過ぎだった。
 朝方に母から電話があり、『メルトンがボケた』と連絡があった。
 根本的なシステム不良は起こしていないものの、動作が緩慢で、時々データベースとの連動が致命的に悪くなるという。ひどい時は、電子マネーを携帯電話に補充しようとした際に銀行口座の暗証番号すら出てこなかったそうだ。
 もちろん、ニトロはその原因を知っていた。芍薬にメルトンをどう壊したのか、それはちゃんと聞いていた。
「プログラムにバグがあった。どうせ、勝手に妙なサイトにでも行って自爆したんじゃないかな」
 モニターにメルトンの抗議のアイコンが現れた。だが声はない。音声はすでに封じてある。
「自己修復が働いているから、しばらくすれば直るよ。汎用A.I.をサポートに置いていくから、それを使って」
「分かったわ。メルトンは大丈夫なのね?」
「大丈夫だって。修復を助けるソフトも入れておいたから」
 本当はまったく違うものをメルトンに贈ったのだが、当然言わないでおく。
「直るまでメルトンの音声は切れるけど、心配しなくていいから。それと」
 と、ニトロはノートパソコンの画面を母の板晶画面ボードスクリーンに転送するよう芍薬に命じた。
「……あら? これは何?」
 ゴシップ記事の上に表れたパソコンのトップ画面に現れた、見覚えのないアイコンを母が指差す。
「修復中の様子を示すメーターだよ」
 アイコンは砂時計の形をしていて、じっと見ていると砂が上から下へとこぼれていることが分かる。
「一応、表示させておくから。だけど、絶対にいじっちゃ駄目だよ」
 ニトロのモニターに、メルトンの悲鳴が表示された。
 そのアイコンは、メルトンに致命的な打撃を与えるプログラムの実行ボタンだった。
 まあ、クリックしても実効命令は芍薬を経由するようにできているから、メルトンが即座にクラッシュされることはない。
 だが、そのことをメルトンは知らない。実行されれば即死とだけ言ってある。その証拠だと、実行されれば即死なもメルトンの部屋スペースの中に置き放しておいた。
 うちの両親に『絶対〜してはいけない』と言えば、どういう結果が高確率で訪れるか。
 それをよぅく知っているメルトンは、これから数日生きた心地がしないだろう。
 モニターには抗議と悲鳴がうるさいくらい表示されている。
「あ、あのお花、綺麗ね」
 テレビを見ると、チャコールグレイの毛並みをした山猫の獣人が、ティディアに代わって植物園の一角を紹介していた。
(山猫の時の色、本当はあれか)
 わざわざあの姿ということは、新しい執事の真のデビューは別の機会に用意しているのか。
 それにしても、あれがゴシップ写真のティディアの横で一緒に正座している謎の女性とは誰も思わないだろう。
「花って……あの赤いの?」
「そう。いいなぁ、欲しいなぁ」
 ニトロは苦笑した。
 獣人の女はとても熱心にその毒性を語っている。母は美しい花を見るばかりで、その説明を聞いていないようだ。
 もしかしたら、あれはヴィタが育てているのかもしれないな……と思いながら、羨望の眼差しを画面に向ける母に言った。
「多分、手に入らないよ。特別なものみたいだから」
「そうでしょうねぇ、ティディアちゃんのところのものだものねぇ」
 肩を落とす母に、ノートパソコンにつないでいたケーブルを外しながら、ニトロは言った。
「母さん、今日はこれから用ないんでしょ?」
「ええ。仕事も休んじゃったから、暇よ?」
「それじゃあ、どっかに何か食べに行こう。ちょっと臨時収入があったから、奢るよ」
「あら、本当?」
 息子の誘いに、母は顔を輝かせた。
「それじゃあ、着替えてくるわね。ちょっと待っててね」
 嬉しそうに立ち上がり、いそいそとリビングを出て行く。
「ゆっくりでいいよ。俺も今日は時間あるから」
 その背に声をかけ、ニトロは一息つくとメルトンに言った。
「メルトン、母さんの好みに合ったレストランを芍薬に紹介してくれ。最後の仕事になるかもしれないから、力入れて選べよ?」
 ノートパソコンのモニター一杯に、メルトンが泣き顔を現した。口をぱくぱくと動かしているが、やはり何も音にならない。
「『ヒトデナシ』、ダッテ」
 メルトンの大顔のせいでモニターの隅に追いやられた芍薬が、面倒そうに代弁する。
 ニトロはメルトンのカメラに向けて、首を掻っ切るジェスチャーをしてみせた。
「『ゴメンナサイ許シテクダサイ』、ダッテ」
「罰を受け終えたらな」
 ニトロの言葉に、モニター一杯にあったメルトンの顔がしゅんとなり、文字通り消え入るように小さくなっていった。
「『生キテイタラ、マタオ会イシマショウ』、ダッテ」
 そしてとうとうメルトンの顔がぷつんと消えて――
 ニトロと芍薬は目を合わせ、これで十分だとうなずきあった。



 ――その夜。

 ニトロは『あのティディア姫をへこませた』と改めてメディアに大きくクローズアップされ、迷惑な憶測報道のその結果、『ティディア姫の最重要人物』としての存在感をさらに際立たされてしまった。
 思わぬ事態に打ちひしがれる中、ニトロは
「もしかして、これがあいつの狙いだったのか?」
 と思い至り、戦慄したのだが。
 それが真実だったかどうかは、結局、闇の中――

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