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 今度から必ず携帯電話とかそういう類のものは二つ持って出よう。
 ハンドルの中央でひたすら沈黙するモニターを見つめながら、そんなことをニトロは思っていた。
 芍薬と連絡が取れていればいいと、持ってきたのはA.I.と通信する機能しかない機器だけとは、備えが悪かった。
 今回の事態はまあ最悪のレベルだとは思うが、そうでなくても何らかの事情で通信が阻害されることはあるかもしれない。前にどこだったか遠くの地域で大規模な通信障害が起きた事件もあったことだし、そこまで重大なことでなくてもたった一つの通信機器が故障することだってあるだろう。
 そして、壊されることも。
「ニトロ・ポルカトだな?」
 進路を塞ぎ立つ獣人が応答を求めてくるが、どうでもいい。
 それより芍薬が心配だった。
 まさかティディアがここまで……不正等行為ハッキングを超えて明らかな攻性不正行為クラッキングまで仕掛けてくるとは思っていなかった。
 正直、油断していた。これは考えを大きく改める必要がある。
(間違いなく、)
 王家のA.I.も絡んできているだろう。となれば、いくら芍薬自身が立ち向かえても地盤ハードに差がありすぎる。芍薬が頑張っても先にハードが根を上げる可能性は極めて高い。頃合で避難してくれればいいのだが……。
(ハラキリん家のシステム、いくらか借りられないか頼んでみようかな)
 しかし今回のような不意打ちでは、まず外部システムへのアクセスを遮断されるはず。そうなったらハラキリにシステムを借りていても、宝の持ち腐れだ。
 それでは貯金を全部つぎ込んで、現状のシステムを組み直した方がいいか?
「……ニトロ・ポルカトだろ?」
 昨日、なぜかハラキリが『お礼です』と大金を寄越してきた。何のお礼なのか聞いても彼は曖昧な答えしか返さず、それなら受け取れないとつき返そうとしたのを芍薬が『無駄ニナルモノジャナイシ』と受け取った。それが早速役に立ちそうだ。
「……ニトロ・ポルカトじゃないの?」
 それにしても腹が立つのはメルトンだ。
 よりにもよってティディアに助力を請うとは。まだどこぞの小悪党を雇ってきた方がマシだ。
 同じアデムメデス人なら自分の力でも何とか対処できようが、獣人ビースター相手ではただでさえ分が悪いというのに、しかもティディアの手下ときた。
「あれ? 人違い?」
 ハラキリほどの格闘技術があれば種族間の能力差を埋められるかもしれないが、こちとらただの高校生だ。敵うわけがない。てーか、こんなの送り込んできて王女あいつも一体何をしようというのだ。
「もう一度聞くけど、ニトロ・ポルカトですよね?」
「ああ、そうだよ」
 まったく判っているくせに何故確かめてくるのか。
 ニトロが鬱陶しそうに答えると、獣人はなぜか震え始めた。
「?」
 意外な反応にニトロは戸惑った。なんか、嫌な予感が延髄をビンビン刺激する。
「馬鹿にしているのか貴様あ!」
「うわっ!?」
 獣人が怒号を上げた。その拍子にフードがずれ、陰に沈んでいた顔がわずかに光に照らされた。
 獣人はネコ科の起源を持っているようだった。加えて大きな体躯。ちょっと洒落にならないかもしれない。
「あれ? 人違い?」
 今度はニトロが聞いた。
「ティディアの手下じゃないの?」
「馴れ馴れしく呼び捨てるな! ティディア姫もしくはティディア様だ!」
 獣人は牙をむき出し、明らかな敵意を閃かせている。
 ニトロの背筋に悪寒が流れた。
「あー、えーと。もう一度聞くけどティディアの手し」
「ティディア姫! もしくはティディアちゃん!」
「変わって……てか敬称レベル下がってね?」
「親しみこめて! はい!」
「ティ、ティディアちゃん?」
「やりなおーし!」
「ティディアちゃん……」
「大きな声で!」
「ティディアちゃん!」
「よろしい!」
「で?」
下僕げぼくになりたい!」
(……しまった『バカの馬鹿マニア』だ)
 これは自分のことも心配になってきた。
 芍薬の助けはない。
 ハラキリに、いやせめて撫子に連絡がつけば援軍を請えるのに、それもできない。
 もはや笑うしかなさそうだと、ニトロは口の端を引き上げようと試みた。
 だが、笑えない。
 頬が硬直して引きつり笑顔すらも作れない。
 笑えているのは、膝だけだ。
「一体……何用で?」
 ニトロがおずおずと聞くと、獣人は拳を突き出して叫んだ。
「決まっている! ティディアちゃんを殴った貴様を殴りに来たのだ!」
「あああ、やっぱりそんな御用でございますかい」
 『ラジオ出演』直後にもこういうのがいたな、と心中に嘆息を流しながら、しかし洒落にならない事態にニトロは、手にまで滲み出した汗で滑りそうなハンドルを強く握った。

 カメラはニトロと獣人の大男を映し、マイクはその会話全てを拾っていた。
「ありゃー」
 ティディアの口元は、笑いを堪えるのに必死で震えていた。
 しかし逆に、眉間には不具合の影が刻まれていた。
 眉は笑いの形に跳ねれば良いのか、それとも弱り目に垂れれば良いのか、笑い事と困り事の狭間でぴくぴくと震えている。
「笑えるんだか、笑えないんだか」
 ニトロが遭遇したトラブルと、その元凶については笑える。だがニトロの目の前にぶら下がっている『結果』は、まったく笑えない。
「いかがいたしましょう」
 画面の外から明るい声が割り込んでくる。彼女はとりあえず、楽しんでいるようだ。
「いいなあ。現場にいられて」
 ティディアはカメラの外で、ニトロがどういう行動を取るか目を輝かせて見守っているだろうヴィタに羨望を送る。
 そう。現場にいれば単純に楽しめるのに、遠くにいるから完全には楽しめない。こんな状況でニトロに直接関われないのは、とにかく歯がゆいことだった。
「まあ、仕方ないわね。危なかったら助けてあげて。判断は任せる。
 でも、できればギリギリまで私を待っててほしいな」
使ってもよろしいですか?」
 ティディアは、一気に飲み干したコーヒーの缶をダストボックスに放り込んだ。
「使わないと駄目そう?」
「獣人の力は未知数です。万が一を考慮しますと」
「……そうね」
 強張ったニトロの顔が、画面に映っている。確かに獣人の中には、猿孫人ヒューマンでは及びもしない筋力を保有しているものがある。そして彼の前にいるのはその中の一人だろう。輪郭線を分析した結果は、間違いなくネコ科を起源にしていることを示していた。体の大きさを見ると、虎やライオンのような大型獣の特徴が濃いのかもしれない。
「仕方ない。任せる」
「かしこまりました」
 ティディアは肩を落として嘆息した。
「残念ね、初陣がこんなことになっちゃって」
「いえ、構いません」
 全く気兼ねを必要としない即答にも、ティディアの顔は浮かなかった。
 何を置いても悔やまれるのだ。
「ヴィタの『能力』にニトロが慌てふためく姿……見たかったなあ」
「それはわたくしも残念でなりません」
 カメラが動いた。画面が引かれ、二人の男をフレームに入れると今度は背を向けている大男にズームする。
 レンズは力が入りすぎた尾を硬く揺らす獣人を、恨めしそうに見つめているようだった。

 今にも突進してきそうなティディア・マニア獣人ビースターを目に、ニトロの脳は焼け焦げそうなほど高速で回転していた。
「待った! ティディアを殴ったって『ラジオ』の中継だろ!? あれはツッコミだってドツイタだけだって!」
「ティディアたん!」
「また変わってるじゃねえか! ちゃんだろ、ちゃん!」
「どっちにしたって貴様がティディアたん――」
「ちゃん!!」
「ティディアちゃんを殴ったことには変わりない! 貴様の拳、ティディアちゃん。どれほど痛かったことか……」
 説得と言うには雑すぎるが、とにかく会話を試み時間を稼ぐ。
 そしてありとあらゆる条件を現状に組み合わせ、その中から選ぶべき最適な行動を導き出そうと試みるが、どうしてもうまくいかない。
「そんなに痛がってなかっただろっつーかむしろ喜んでたろあのバ……ティディアちゃん!」
「殴られて悦ぶなんて、ティディアちゃんがSではなくMだとでも言うのか貴様! それは嬉しい!」
「ええい、てめえの趣向なんぞ知ったことかぁぁ」
「しかしだとすれば貴様は衆人環視の中でティディアちゃんとそんな楽しいことをしていたということになる! それは羨ましすぎてまた許せないじゃないか!」
「そんなのただの妬みじゃねぇか!」
「違う! ティディアちゃんの痛みを貴様にも与える大儀がある!」
「何が大儀だっ、て、俺は何を怒らせるようなことを!」
 ハラキリやティディアのように回転の速い頭が欲しかった。あの、複数のことを進めながら別のことを同時に考えられる力が。
「まあ大儀でいいや! それならそれとして、だからってお前が俺を殴る必要はないだろ!? ティディア……ちゃんが俺を殴りゃいい話じゃねぇか!」
「ティディアちゃん、本当はとっても優しいから貴様に殴り返せない……」
「ん? それには断固として反論したい」
「貴様にティディアちゃんの何が解る!」
「解りたくもない!」
「我々は研究し尽くし解るのだ!」
「待てぃ俺の主張は聞こえているか!?」
「だからこそ! 我々、私立ティディア親衛隊が代弁しなくてはならないのだ!」
「――え? いやちょっと『我々』って。他にも仲間がいるの!?」
「今のところは隊長一人!」
「一人!?」
「俺一人!」
「ふざけんなーーーーっ!!」
 大体、ティディアは何をやっているんだ。こういう時にこそちょっかい出してこないでどうする。てか絶対近くに配下を忍ばせているだろ。今が出番だ、さあ手下共よ今がその時だ。それとも何か、本当にクラッキングだけを仕掛けてきたというのか。
(だとしたらちょっかい出してこなかったことを怒る!)
 いや何を考えている自分。ほらなんか獣人さん一歩踏み出しましたよ。のん気に考えている暇があったら逃げ出せ自分。
(いや逃げ切れない)
 そんなことだけ即座に判断できるのが、ニトロは口惜しかった。
 獣人の立ち姿には素晴らしい柔軟性が垣間見える。まさに野性の力を強く引き継ぐ、そのポテンシャルが滲み出ている。
「さあ、覚悟しろニトロ・ポルカト」
 全力で自転車を飛ばせば? 駄目だ、無意味だ。せめてプロレーサーほどの太腿があれば逃げられるかもしれないが、まず自転車が最高速度に乗る前に獣人は追いついてくる。
 一方的な……
「覚悟なんかできるかそんな理屈で」
 一方的な狩りしか、ここにはない。
「理屈ではない、これは私立ティディア親衛隊の総意だ!」
「一人だけならそりゃ総意だろうさ!」
「さあ歯を食いしばれ……顎を砕いてやる」
「流動食は好みじゃないんだけどなあ……」
 もはや何を言っても無駄だろう。時間稼ぎもできそうにない。
 全身に力を漲らせ、獣人がまた一歩踏み出した。
(こうなったら戦うか? 正面きって)
 心の中でハラキリが苦笑いするのが見えた。
 以前の、同じようにティディア・マニアの強襲を受けた時。『映画』の時に身につけた格闘技術、ティディアと渡り合うことができた自信を持って反撃を試みた。
 だが結果は最悪。二対一ということもあったが、何もできなかった。ハラキリの介入がなければ骨の一本くらいは持っていかれたかもしれない。
 その時ハラキリが言った言葉は耳に残っている。生兵法は怪我の元、格闘プログラムの刷り込みは所詮刷り込み、そんな技術はすぐに体も忘れていく。
(ああ、言うこと聞いて護身術でも習っときゃ良かった)
 幸い良い先生は身近にいるのだ。早速明日にでも弟子入りしよう。
(だから先生、何かいい助言をテレパシープリーズ!)
 獣人の足は次々と踏み出すたびに勢いを増し、その勢いを飲み込んで怒気がさらに大きく膨れ上がっていく。
 仇敵を殴り殺さんばかりの意志の塊が、迫っていた。
 爛々と光る眼を血走らせ、唇の隙間から軋むほど噛み締められた白い牙を覗かせて、見るからに渾身と握りこんだ拳を大きく引き絞る。
(――あ、隙だらけ)
 その時、ニトロの脳裡に閃きが走った。
『とりあえず意表を突いてみたらどうですかね』
 凄まじく面倒臭そうな口調で、ハラキリがそう言うのが確かに聞こえた。
「ティディアちゃんに成り代わりぃ!」
 獣人が叫び、バネを巻くように捻った体を弾けさせ……今にも握りこまれた大きな拳が飛んできそうなその瞬間、ニトロはペダルに掛けていた片足を地に下ろし、そのまま爪先立ちに腰を浮かせた。
「天罰覿面!」
 獣人が雄叫びを上げた。もう三歩駆け込んで、耳の後ろにまで引いた拳に体重乗せて打ち出せば――
「チャリンコアタック」
 その時だった。
 ニトロが、自転車を駆け込んでくる獣人にほうった。
「!?」
 獣人の目が大きく見開かれた。
 ニトロと獣人の間で、無人の自転車が頼りなく揺れている。
 刹那の機だった。
 完全にニトロを殴るつもりでいた獣人の体は前にしか進まない。彼にそれを避けることは、できなかった。
「どわあ!」
 えらい勢いで自転車と激突し、獣人は自転車を巻き込みもんどりうって転倒した。その拍子にハンドルか何か突き出た部分が体をついたらしく、くぐもった悲鳴が上がる。
 ニトロは自転車を放るなり横に動いて、獣人の転倒に巻き込まれるのを避けていた。
 そして見事な成果を見ながら、考える。
 これからどうするべきか。逃げるか。少しの猶予はある。サイクリングロードの片脇を固める緑地帯に飛び込んで、やぶを突っ切り何とか人通りのある道に出られれば無事に済むだろう。
 ただ逃げ切れるか、どうか。
『それより後頭部蹴りましょう。全力で』
 脳内ハラキリが笑顔で言った。
『ほら今ならガードもできません。いくら獣人でも頭を綺麗に蹴っ飛ばされたら気絶しますよ』
 自転車のフレームが変に足に絡んで立ち上がれないでいる獣人、確かに今その頭部は無防備で、ボールを蹴るように全力で蹴り飛ばせばニトロの力でも倒せるだろう。
(いやでもそれは人としてどうだろう!)
 だが、ニトロは躊躇した。
 ともすれば大事に至りかねない攻撃を、自分の身が危険であるからといって躊躇いなく行動に移せるほど、ニトロは非情になりきれなかった。
「き、貴様ぁ……」
 そしてその躊躇いは、ニトロにさらなる事態の悪化をもたらした。
 思わぬ反撃と思わぬ打撃を受け、獣人には激しい怒りが満ちていた。
(しまった、逃げとくんだった)
『もしくは蹴っておけば』
(だからそれはどうだろうっ)
『中途半端な反撃は怒りを増すだけですよ』
(今さら言うな! あれ!? ホントにこれテレパシー!?)
 それが本当にテレパシーなのか、追い込まれた脳味噌が聞かせる幻聴なのかを検討する時間はなかった。後悔する時間すらなさそうだった。
 フードが外れて、痛みに歪む憤怒の形相と、我を失った眼光が街灯の下に露となっていた。その容姿をはっきりと目にしてニトロは、泣きたくなっていた。
 どの属が顕著とは言えないまでも、しかし明らかに大型獣の面影がそこにあった。
 だとすれば、筋力は相当なものだろう。級友に虎の獣人がいるが、彼女の腕力にさえ、猿孫人ヒューマンの男子で敵うものは少ない。
(反則だよ……)
 獣人は立ち上がり、ウィンドブレーカーが破れていることに気づいて、顔色にまた怒りを差した。
 そして鼻筋に刻まれた皺を怒気でさらに深くする。まさに獣そのものに咆哮を上げた。
「もう許さん!」
「て、いつ許そうとしてたよ! っあ!」
 思わずツッコンでしまったニトロの顔が、失態にみるみる青ざめていく。
 何をしていると自分を罵倒する。
 足元の火に油を注いだらどうなるというのか。
「ニトロ! ポルカトォォ!」
 そんなの、ひどく火傷するにきまっているじゃないか。
 獣人が烈火のごとき勢いで迫ってくる。振り上げられた拳は、もう握られてはいない。
(……最悪だ)
 光を受けて閃く鋭い爪を見てニトロは嘆いた。
 心は絶望に沈みそうだったが、体は反射的に急所を庇おうと身を縮めていた。格闘プログラムに刷り込まれた技術がまだ残ってくれていた。腕が自然に首と顔面をガードする。
 そしてニトロは、次に来る衝撃に備えて息を止めた。

(まずいね)
 芍薬は焦っていた。
 次第に、段々と、メルトンに押されている。
 辛うじて確保している外界ネットワークへの戸口は狭く、通信妨害も加えられてうまく黒幕を捜しきれない。
 主人ニトロの状況が全く判らないのも不安だった。自転車のモニターへアクセスを試みても、どうしてもニトロと接触をさせたくないらしい、敵はそれこそ完全に遮ってくる。
 焦燥が募った。ニトロが、とんでもない危機に直面しているかもしれないというのに。そしてその可能性は、非常に高いというのに。
(アレは……何を言っても聞く耳持たないか)
 調子に乗って、それこそクラッキングに回す手が留守になりだしていることを自覚すらせずに、ミニミサイルを乱発するメルトン。
 A.I.に使うには不適当な表現だとは思うが――完全に頭に血が上り、理性を失っている。例えバカ姫が暴走しすぎてニトロが死にかけている映像が手に入ったとしても、それを見せたところでこちらの謀略と思うだけだろう。
(……仕方ない)
 芍薬は決心した。
 メルトンがあれほど調子に乗れるのは、大きな理由がある。
 それは、こちらがメルトンを破壊することはないということ。
 オリジナルA.I.は設計上、またその特質性から複製コピーが作れない。もし強引にコピーしようとしても、基幹部分に組み込まれた自壊命令ネクローシスによって阻止される。バックアップとて、可能なのは基本的な人格情報やハードディスクにある外部記録だけで、完全なる二個を作り出すことは不可能だ。
 それゆえ、ニトロに禁じられた行為。最大の枷。そしてメルトンに最強の剣と盾を与えている戒め。
「メルトン」
 芍薬の静かな声に、メルトンは揺るがない優勢に立ち不遜に応えた。
「なんだよ、降参するのか?」
 メルトンは攻撃の手を止めた。その様子は期待に満ちている。ニトロのA.I.に戻りたいというのは、まあ本心からの願いなのだろう。
 しかしだからと言って、芍薬にこの座を渡す気はさらさらなかった。
「後でサポートA.I.を送ってやるよ」
 芍薬のセリフを、メルトンはいまいち理解できなかった。
「……なんで?」
「必要になるからさ」
 言うや否や、芍薬が三人になった
「げえ!?」
 信じがたい光景に、メルトンが驚愕する。
 その瞬間、芍薬の一人がメルトンに駆けた。手に大きさと鋭さを増して輝く鎌を握り締めて。
「うわわわ! 来るな来るな!」
 メルトンが乱射したミサイルをすり抜けて、いや、ミサイルが芍薬をすり抜けた!
 何が起こっているのか、メルトンは理解できなかった。駆け寄ってきていた芍薬の体をミサイルがすり抜けたかと思うと、その芍薬の姿も消えてしまった。
「ただの囮だよ」
 笑いを含んだ芍薬の声に目を向けると、得意気に腕を組んで、元の場所から一歩も動かぬ位置に芍薬がいた。芍薬が、一人だけ。
「本命はそっち」
 その芍薬が目を向ける方向は……メルトンの背後だった。
「ぐえ!」
 素早くメルトンの首に、細いくせに異常に力強い腕が絡みついた。分身した芍薬の残りの一人が、そこにいた。
 この感触はさっきの囮のように『消えるモノ』の感触ではない。まるで、本物そのものだ。
「どどど……どういうことだぁぁあ」
「どういうこと? ああ、分身?」
 メルトンの目は化物を見るかのように、あるいは、許されざる大罪を犯しているものを見るかのようにみはられている。
「アタシの得意技さ。あんただって『全体』の一部を切り離すことはできるだろ? それを応用したもんだよ。別に複製コピーしているわけじゃないけどね……」
 芍薬は愉快そうに言った。
「皆、驚く」
「だからっであんなに速く……しがも個々に自律じてべべべ!」
 首に絡む腕に力が込められ、メルトンは足をばたつかせた。もがき逃れようとするがどうしても抜け出せない。
「簡単にアタシを模した条件思考ルーチンを埋め込んでいるんだ。ちょっと気分的に悪いことになるし、ハードにでかい負担もかけるから、あまりやりたくないんだけどね」
 残ったサブコンピュータだけでなくメインまで熱暴走寸前に陥っている。もし一つでもダウンしていたら、負けだった。
「俺を壊しだらニドロが怒るぞぉぉ……」
「怒られておく。それよりもう、時間がないよ?」
「時間?」
 芍薬は答えずに組んでいた腕を解き、メルトンにさよならを言うように手を振った。
「アタシはもうすぐ『爆弾』になるよ」
 するとメルトンの首を裸絞めスリーパーする『芍薬』が、そっと告げた。
「なにぃぃぃぃ!?」
 滑稽なほど慌てふためきメルトンが悲鳴を上げる。
「おおお前、自分を爆弾にずるなんてどうかじでるぞ!」
「だから気分的に悪いって言ったろ」
「気分の問題がよ! ごう何て言うが『人の道』って知っでるが畜生!」
「アタシらA.I.じゃないか」
「あれあれ何だかすっげぇ既視感この会話!」
 切羽詰ったメルトンの叫びに、芍薬は苦笑した。
 そういえば、似たやり取りが『映画』の中にあった。因果応報、まさにそれだ。
「それに、今はアタシの分け身でも爆弾に変われば別物さ。あんたのミサイルと同じだよ」
「そうそう。あともう少しで変化完了」
 芍薬の言葉を受けて、『芍薬』がメルトンの耳元でからかうように囁く。
「嘘! マジで!? ちょ、姐御助けで!」
「あんたのお仲間に助けてもらいなよ。爆発する前に壊せば大丈夫だから」
「オーケー分かった! 助けてオングストロームさ〜〜〜〜ん!」
 言うが速いか踵を返し、メルトンが『芍薬』を引き連れ逃げていく。その姿がふいに消え、同時にクラッキングの手も退き始めた。
 どうやらメルトンに手を貸していた奴は、引き際を探っていたようだ。
 メルトンの退却と共に気が抜けるほど攻撃が緩くなった。しかし、そのくせ粘り強くシステムの支配権だけは保とうとしてくる。
 目的は時間稼ぎだと容易に解った。あちらとて、それを隠す気はさらさらないだろう。
 芍薬は鼻を鳴らした。
 ここまではいいようにやられていた。
 だが今度はこちらの番だ。
「バカ姫はそこか」
 メルトンが連れて行った分身からの通信を受け、ティディアの位置情報を把握する。
 そして、その直後だった。
 クラッキングの全てが、息を飲んだように止まった。
 敵の抵抗がなくなったその瞬間、セキュリティプログラムが一気呵成に部屋スペースを侵していた黒色の染みを掻き消していく。それを目にするまでもなく、相手に何が起こったのか推察することもなく。芍薬は取り返したシステムの使える部分を平然と再起動させながら、にやりと笑った。
「クノゥイチニンポー、鳳仙花の術」
 『嘘』を信じて仲間の下に逃げ帰ったメルトンは、知っているだろうか。
 熟した果実は触れれば弾ける。『私に触れないで』の花言葉。
「ま。しばらくポンコツになる程度にしといてやったんだから、感謝しな」
 さりとて哀れなるは、メルトンに爆弾を持ち込まれ、たった一手の反撃が致命打となった『オングストローム』とやら。
 しかしこれも因果応報。恨むなら、こんな実のない任務を与えた主を恨んでもらおう。
「――ん?」
 会心の勝利の余韻を味わう暇もなく、芍薬は新たな危機に直面し身を強張らせた。
 システムを取り返すや即座にかけたアクセスに、ニトロの自転車にあるはずのモニターが応じない。通信機器が故障している……いや、すでに壊されていたのだろう。
「!」
 慌てて芍薬は最後にニトロと通信をしていた場所に近い公共端末を探した。そこからニトロの安否を探ろうとしたが、しかし使えそうなものが見当たらない。
「主様!」
 ならばと分身から受け取ったティディアの位置とニトロとの位置関係を洗い出し、主を助けるためには、一気に頭を押さえた方がいいと判断する。
 芍薬は、すぐさまハッキングを開始した。

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