我が家の煮っ転がし

 我が家には風変わりな居候がいる。そいつの態度はでかい。
 春は俺が仕事に出ている日中、風雅に桜を眺めちゃ花見客から「かわいい〜!」と馳走攻めだったとふんぞり返って自慢し。
 秋は残業を終えて帰ってきた大黒柱に対し、芸術の秋だと優雅に『ぢゃず』を聴きながら酒を舐めては開口一番肴をよこせとくる。
 さらに態度だけでなく、そいつは体もでかい。
 デブだ。
 標準的なデブを軽く二回る。いや、二・五回る。
 それも見た目通りの大食漢で、我が家の食費をキレイに半分持っていく。いや、秋口を過ぎてからは俺の食費まで軽く上回りやがり出した。
 今朝ともなると、なんとまぁマツタケを所望してくれた。もちろん国産だ。昨夜は残業と付き合い飲みのコンボで遅かったから、ゆっくり昼近くまで寝ようとしていたせっかくの休日――土曜の陽も昇らぬうちから俺を叩き起こしてくれると、奴は悪いことをしたなんて顔の一つもなくそれどころか至極当然とばかりに形も太さ大きさも指定し作る料理も当然指定してきて必要数計七本なり。そうして追い出されるように一般人にも開放されている市場まで行かされて、指定された通りに八百屋に窺うと、なんとまぁ仰天することに「一本あたり一諭吉と惜別する覚悟」を求められた。もちろんキャンセルだ。そんなものは買えない、買えるわけがない。あの妖怪め、給料日まであと二週間もある上に来月の食費にまで手を出させて……俺を飢え死にさせるつもりか!
 もちろん奴は抗議してくるだろう。
 脅し文句を並べて購入を迫るだろう。ひょっとしたら今夜は文字通り悪夢を見るかもしれない。
 だが、もちろん!
 俺は今回ばかりは譲るつもりはない。断固拒否する。何だったら二・三日、駅前のビジネスホテルで寝泊りしてもいい。なぜならそっちの方が断然安上がりだからだ。
 意を決し、でもちょっと気後れして近所のファストフード店でコーヒーを飲んで間合いを取って、もう一度覚悟を固めてから帰宅すると、俺は玄関を開けると同時に決意を表明しようとしていた声を失い代わって口からため息を吐き出した。
 ――サキチは、出かけていた。
 あのデブ猫ときたら……そうだ、いつもそうなんだ。いっつもこうなんだ。人間様の心を見透かしたかのように、今日で言うなら人が並々ならぬ覚悟をしてきた時に限って姿を消してくれる。加えて、文句を言おうとしようものなら機先を制してしゃがれ声を挟み込んで意気を奪いにくるし、文句を言われたとしてもいけしゃあしゃあとした物言いで丸め込んでくる。
「はぁ」
 ため息が出る。
 情けないと言わば言え、そうだ、俺はいつも猫の手の上で踊らされている。いっつも負かされている。だからこそ、どうせ情けないのならと家出をする覚悟までしていたというのに……もう夜だ。マツタケを頼んだくせに食事時を過ぎてもヤツは帰ってこない。つけっぱなしのテレビからは9時台のニュースが流れている。そこではアナウンサーが今朝方首都高速で起きた玉突き事故について語っていた。
 駅前のビジネスホテルにキャンセルの電話を入れた時にはさすがに涙が滲んだものだ。
 食事も外でするつもりだったから料理をする気もおきず、腹に収めたインスタントラーメンの塩気はいつにも増してきつく感じられたさ。
「……はぁ」
「何をため息なんぞついている」
 しゃがれ声が、ふいに、冷め切って表面の脂が白み出したインスタントラーメンの器を片付けようと立ち上がった俺の足下から駆け上ってくる。
「マツタケはどうした」
 いつの間にか――玄関のドアを開ける音も閉める音もなく部屋に入ってきていたデブ猫は、その小汚い茶色の毛皮で包んだ太く丸い体躯からは想像もつかない軽やかさでテーブルの上に飛び乗ると、俺が手にしようとしていた器を機嫌悪そうに一瞥してから言った。
「値に、尻込みしたな」
「ぐぅ」
 ぐうの音も出ない――という常套句は、嘘だ。
 こんな時に出る音は“ぐう”の他にあるもんか。この化け猫め……ッ!
「ま、ちょうど良い」
「……何?」
「ちょうど良かったと言っている。マツタケは、いらん」
 サキチは意外なことを言うと面倒臭そうな様子で尻尾を一振りした。その一振りはまるで『この話題はもういい』と示しているようだった。
 ……その態度に何だか腹立ちを覚えながらも、半面マツタケの件で口論をして――そもそも論戦自体がなくなったことで“負ける”ことがなくなったことに――安堵している自分がまた、情けない。
「何をしょぼくれている、ヨシユキ」
「うるさいな。しょぼくれてなんかない」
「嘘をつくな」
「嘘なもんか」
「変な意地は恥を増すだけだぞ。客も笑っている」
 テーブルの上に姿だけは猫らしく座る小汚い茶色は、至極真面目な顔をして言う。
「……なんだって? 客?」
 俺の住むこのマンションの一室に、俺とサキチの他には誰もいない。いや、正確には、サキチに脅かされて身を縮めている悪霊が部屋の隅にでもいるはずだけど、その他には誰もいない。
 俺が聞き返すと、サキチはまた面倒臭そうに尻尾を一振りした。
「勘の悪い奴め。お前に見えぬ客ならば……決まっているだろう?」
 ざっと、自分の顔から血の気が失せる音が聞こえるようだった。
「そうだよ、ヨシユキ。ほれ、彼女はお前の背後にいる」

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