思い出の

 早朝、ミリュウは畜舎にいた。心から楽しく、心から嬉しい成人のお祝いを受けた翌日である。
「よし」
 東に高い尾根があるため、この地の日の出は遅い。空を阻むように聳えるその尾根の肌は暁光のさきがけによって夜空が薄められていくこの時間にこそ最も重苦しく、暗く、土地が西南に向けて開けていることもあって空の底を走る明るい光は壁を回り込むようにして南の空から溢れ出してきてはいるが、それでも太陽の温もりはまだまだ遠い。熱源を失ってから一晩を経た空気は涼しいというより、冷たい。
 だが、ミリュウの頬には汗が流れていた。今の今まで、ルッド・ヒューラン家の姉弟と共に畜舎の掃除をしていたためだ。この掃除は、元々はお世話になるのだからと彼女自身が望んで得た仕事だったが、今では彼女の楽しい日課である。執事のセイラにはお姉様と弟様がいらしているのだから今朝はお休みになってと言われたものの、しかし彼女は変わりなく参加した。昨日のパーティーで飲み過ぎた家長のルッド・ヒューラン卿と長男が揃って二日酔いで寝込んでいるため人手が足りないという理由もある――が、もう一つ、何より大切な目的のあるために。
「準備できましたか?」
 ヤカンと、必要な道具をタライに入れて持ってきた作業着姿のセイラが、同じく作業着姿のミリュウに声をかけた。
 ミリュウは肩にかけたタオルで汗を拭きながら振り返り、
「ええ。ばっちりよ」
 綺麗に整えられた房に立つ彼女の傍らには、柵に繋がれ黙々と飼い葉を食む一頭のヤギがいた。その乳房は見事に膨れている。本来なら他のヤギらと共に搾乳機に繋がれているところであるが、『目的』のために、二人はこの一番乳を出す一頭を特別に借りてきたのである。
 ――カロルヤギ。
 この辺りが原産のヤギで、受胎率の低さゆえ数が少ないものの、そのミルクの味はアデムメデス自生のヤギの中で一番と評される。
「でわ、はずめましょうか」
 故郷にいるからだろう、セイラは近頃よく訛る。始めはその度に恥ずかしそうにしていたが、しばらくすると開き直って気にしなくなった。ミリュウも当然気になどしないのだが、しかし、油断すると訛りが感染うつりそうだとちょっと心配している。
 ミリュウは場をセイラに任せ、足早に水場で手を洗いに行った。その間にセイラは持ってきた湯を含ませたタオルでヤギを拭き清める。戻ってきたミリュウが仕事を引き継ぎ、新しいタオルを湯に絞り、ヤギの乳房を最後に丁寧に綺麗にして、それから彼女はヤギの傍らに屈み込むと慣れた手つきで乳を搾り出した。始めの数回は衛生のために捨て、次いで手持ちの搾乳缶で受け止めていく。
 ヤギに余計なストレスを与えないよう一定のリズムで搾りながら、ミリュウは思う。
(喜んでくれるかな)
 脳裏にあるのは、愛する姉でも弟でもない。
 ニトロ・ポルカト。
 大変な迷惑をかけたのに、私の全てを受け止め、その上で叩き潰し……許し、わたしを救ってくれた恩人。
 敵対しながらの会話ではあったが、彼はルッドランティーを飲みたいと言っていた。新鮮な乳で淹れた本場のお茶は本当に美味しい。味に関して言うなら手搾りも搾乳機も変わらないのだが、それでも可能な限りこの手で贈りたいと思う。
 ミリュウが一心に乳を搾っていると、
「これは」
 と、セイラが驚きを声にした。

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