防音の効いた部屋の中にいても、人間レベルに調整した
芍薬は、閉め切ってあるカーテンと窓に向かった。ニトロが出掛ける際はセキュリティのためにいつもこうしているのだが、反面これでは外から中を窺うことはできない。もちろん手段を選ばない悪質なパパラッチには『違法ではない』装置を様々用いる者もあるが、軍用レベルの防音・防弾・防振動等各種性能のある特殊ガラスを用いた窓には偏光機能、赤外線カメラ対策機能等を備えた最新防犯シールも貼ってあり、よほどの計器を用いても、さらに分厚いカーテン(もちろん最新のセキュリティグッズ)を重ねられては太刀打ちできない。それでも、もし、これをも
芍薬は部屋の電気を消し、カーテンを少しだけ開き、窓を開けてベランダに出た。
ここに『保護対象』が明確に存在する今、流石に“完全に”本気になった警察によって飛行禁止域からスカイカー等はもう排除されているが――その瞬間、感度・範囲を全開にした芍薬の各種センサーは無数のカメラの存在を感じ取っていた。それらカメラは、あたしの背後に、ニトロ・ポルカト宅が早くも消灯しているのを見ているだろう。
芍薬はベランダの際、手すりの直前に立ち……ここから最も遠い位置にいるカメラに眼差しを投げた。カメラを携える者は――ある大手放送局の『下請け』であったのだが――ゾッと背筋を凍らせた。
最遠のカメラが目を反らしたのを『目視』した芍薬は、マンション敷地内に侵入して隠れている者に視線を移し、そして唇に人差し指を立てた。
凛とした姿の、異国の装束に身を包む『戦乙女』の静かに叱りつけるその立ち居振舞いは、アンドロイドながらに……いや、アンドロイドであるからこそ美しく、激動と狂騒の『祭』を仕舞う絵として長らく評判となる一枚となった。そしてまた、芍薬の『警告』はそれが故に強力な規制ともなったのである。
――肉体を傷つけなくとも、カメラを壊すのは至極簡単。
――あるいは、現行犯逮捕も、朝飯前。
「……」
目論見の成功をセンサーで確認した芍薬は部屋に入り、窓とカーテンを閉めた。それから暖色の常夜灯だけを点け、マスターの真新しい下着とパジャマをバスルームの前に置いておく。折り良くシャワーの音が止んだ。キッチンに戻った芍薬は電気コンロの上で保温状態に保たれていたヤカンからお湯をカップとティーポットに入れ、それぞれを温めながらヤカンを再沸騰の火に戻した。
(……)
芍薬は、その時、ある事に思い至り、夕食のための『買い出し』はできないなと考え直していた。ついさっきの人間達の反応が表す通り、今は事件後最大の混乱期だ。マスターの側を離れるわけにはいかない。
では、
(デリバリーヲ使ウカ)
宅配ボックスに取りに行く程度なら、許容範囲である。
(注文内容ヲ漏ラスヨウナ所ヲ選バナイヨウニシナイトネ)
そうこう考えている内、アンドロイドの『耳』に湯の沸騰を知らせる音が聞こえてきた。湯気を吹くヤカンを見ながら、そこで芍薬はふと、再び……いいや、今度はまるで天啓のごとくに思い至った! そして芍薬は――そう、張り切っているのである!――大きくうなずいた。
やがてニトロがバスタオルで髪を拭きながら戻ってくる。
そのタイミングで甘いミルクティーも出来上がっていた。
ニトロは嬉しそうに微笑み、あえて冷たいミルクを多めに加えることで風呂上がりにちょうどいい温度に整えられた飲み物に口を添えた。
ニトロは、ため息をつく。
疲れが中からほどけていく。
一人の時間……とでも言おうか。芍薬は話しかけず、ニトロもそれに甘えて話しかけない。ただゆっくりと、薄暗い部屋で静かな時を過ごす。そういえば何故部屋は暗くされているのかと彼は疑問に思うが、しかしそれも一瞬のこと。芍薬が何らかの気を利かせてくれたのだろうからそれでいい。
やがてミルクティーを飲み終えたニトロは、
「美味しかったよ」
と言って振り返り、そこでまた怪訝に眉を寄せた。
「芍薬?」
床に、芍薬が正座していた。
きちんと揃えられた膝の前にはクッションが二つ縦に並べられ、また芍薬の揃えられた膝と腿の上には折り畳まれたタオルが敷かれている。
「耳モ綺麗ニシヨウ」
瞳を輝かせて、芍薬は言った。
ニトロは思わず笑ってしまった。芍薬のその行動は明らかにはしゃぐ気持ちにあかせたものだ。そこまで? と半分呆れてしまうし、反対では、そこまで……と我慢させていたことに詫びる気持ちになる。
――しかし、
「サ、主様」
ぽんと膝を打つ芍薬のもう片方の手には耳掻きがある。
「いや……」
ニトロは苦笑した。
「でもそれはちょっと気恥ずかしいかな」
「何言ッテルンダイ。恥ズカシイコトナンテ一個モアルモンカ」
チャキチャキとした調子で芍薬は言う。ニトロからすれば何はともあれ『膝枕』という行為自体が何ともあれなのだが……
(まあ、ね)
ニトロは、うなずいた。
芍薬の正面、クッションの上に一度座り、それから少しだけ躊躇いながら芍薬の膝に頭を載せる。
「硬クテ痛カッタラゴメンヨ」
いくら素晴らしい人工皮膚と人工筋肉を使っていても、大部分は金属や無機質から成るアンドロイドの体だ。確かにその膝は人間のものらしからぬ硬度を感じさせ、『体温』も不自然である。
だが、ニトロはそれらの奥にあるものは時に人より『アツイ』ものが流れていることを知っていた。
「大丈夫だよ」
言って、横を向く。
すぐに耳掻きが絶妙の力加減で掃除を始める。
「痛カッタラ言ッテオクレ」
「大丈夫、気持ちいいよ」
実際、本当に気持ちがいい。
こうして誰かに耳を掃除してもらうのは幼い日以来のことだ。母は下手だったから、この役はもっぱら父のものだった。しかし、その思い出の補正を借りてもなお、芍薬の腕前は素晴らしい。
「ハイ、反対」
言われて向きを変えるニトロは、いつしかまどろんでいた。
汗を流し、甘いミルクティーを飲み、そして、胸を借りることはなかったが、膝を借りてのこの心地よさ。
数日に渡って強い緊張の中にあったニトロの心はすっかり弛緩し、彼が急速に深い眠りにつくのは自然なことであろう。
「……主様?」
聞こえてきた寝息に問いかけを返してみるが、マスターは反応しない。
自分の膝の上で眠りについたマスターを、芍薬は微笑んで見つめた。
丁寧に掃除を終え、多目的掃除機を走らせて持ってきたドライヤーで髪を乾かす。
その間もニトロは起きない。
すっかり安心しきり、無防備に眠り続ける彼の姿は、つまり芍薬への信頼に他ならなかった。
芍薬は、オリジナルA.I.としての『人生の手応え』……あるいは『生の実感』を強く強く胸に抱きながら、眠るマスターの体を軽々抱き上げた。
「コレカラハ、毛布ヲカケルダケ――ジャアナクナルネ」
言いながら、ひょいと足も軽やかにベッドに向かう。そうしてマスターを優しく横たえ、ケットをかけ、
「オヤスミ、主様」
返事はない。
ただ穏やかな寝息だけが続いている。
しかし、何よりこれこそが芍薬への最高の返事であった。
「――サテ」
常夜灯も消し、真っ暗な部屋の中でも芍薬は昼の平原を歩くようにキッチンへ向かう。
(クロワッサンノレシピハ……)
守りきった主のデータからパンのレシピ集を参照し、
(足リナイモノハ、ナイネ)
ならば支障はない。
芍薬は張り切っていた。
朝が来たら、マスターを焼きたてのクロワッサンの芳しい香りで起こすのだ……と。