ミリュウは王城の門をくぐるや不機嫌に頬を固めた。
背後から聞こえてくる民衆の歓声は早くも聞こえなくなる。彼女は隣を歩くセイラの足音さえ忘れ去った。
心を占めるのは、ニトロ・ポルカト。
急遽作ることになったプレスリリースには、あの男が死んだという事実はないことと、その行動はあの男の独断であること――つまり、あれは『ニトロ・ポルカト』のショーへの参加表明なのだということへの追認のみを示した。
報道各所からは会見を求める強い要望が届いたが、それは無視した。実際、プレスリリースだけで十分な要望に応えている。
アデムメデスは既に歓喜しているのだ。“もう一人の主役”が彼ら彼女らの期待に応えて動き出したこと、それもテレビを通じて視覚的にも音声的にも意思表明をして見せたこと、意思表明にこちらも応えたことで役者が同じ舞台に同じ意思を持って立ったこと、その事実だけで十分な歓喜に沸いている。そして沸き上がる歓喜は、自らの動きをも一つの演目として楽しむことができるのである。
そう、歓喜を産む観客は自らも動き……早くもネットには、王家専用機に轢かれたはずのニトロ・ポルカトが空港ロビーで目撃されたという情報がいくつも書き込まれていた。颯爽と去り行く主演男優の横顔、あるいは後ろ姿を捉えた動画もいくつか上げられている。結果、あの『事故』はニトロ・ポルカトが仕掛けた素晴らしい『大脱出マジック』だと持て囃されていた。当時現場にいた観客達は“目撃者”という役を与えられて一時舞台に乗ることを許され、その特権に意気揚々と語られる証言は扇情的な口上となり、彼ら彼女らが現れるコミュニティはさながらそのセリフを消費する小劇場として隆盛を極めている。
――それは、いい。
それはむしろ、とてもいい。
不機嫌なミリュウが気に食わないのは、管制官の答えであった。
滑走路へ侵入を許し、滑走路の異常を伝えてこなかった彼は何を考えているのか。ミリュウの問いに、管制官は和やかにこう答えたのだ――「ティディア様の了解を得ているとのことでした」
そんなはずはない!
お姉様が、ニトロ・ポルカトが管制官を抱きこむことを助けるはずがない。ニトロ・ポルカトへ自助努力による解決の期待を寄せておきながら、それとは裏腹にあのお姉様がそんな手助けをするはずがない。
確認を取ると、管制官はニトロ・ポルカトが保証したとだけ答えた。
つまりは、あの『ニトロ・ポルカト』が言うのだから間違いはない、そういうことだった。
ミリュウは気に食わなかった。
ニトロ・ポルカトは、間違いなく、自身の影響力を理解しながらお姉様の名を利用したのだ。
なんという倣岸不遜にして不敬極まる行為か!
管制官は“命令”に応じ、一時的に該当滑走路におけるセキュリティシステムの管理者権限を預けていたことも証言した。
それもミリュウの不機嫌を加速させていた。
記録を取り寄せれば、やはり、
「……」
しかし、不機嫌の一方で、ミリュウは、心臓の中では意気が高揚していることを感じていた。喜びがあり、うきうきとした不思議な感慨もあった。
目に焼きついている、機内で見たニトロ・ポルカトの顔。
あの男の目は、真っ直ぐだった。
車輪の陰に消えるまで――まるで鏡を見ているかのように――真っ直ぐにわたしを見つめていた。
そうだ。憎くてたまらないあのニトロ・ポルカトが、己の『師匠』と、セスカニアンの王女というわたしが迂闊に手を出せない重要な友好国の貴人に会いながら、その庇護に甘んじず、挑戦的な瞳を携えて、『わたしの舞台』に上がってきたのだ。それは素晴らしい展開、何より望む展開に他ならない!
今のミリュウには自信があった。機内で感じた異様な自信が未だ消えずに彼女の心を強くしていた。
それは、これまでには無かった自信であった。
昨朝の生まれ変わったかのような充実感と、西大陸での成果が、自分でも驚くほどの自信となっていた。加えて望外にも賜ったお姉様のお言葉が追い風を吹かせる。今や彼女は、もしかしたらニトロ・ポルカトに勝てるかもしれないとまで思い始めていたのだ。瞼の裏にクロノウォレスから送られてきた姉の姿が思い浮かぶ。瞼の裏では、その隣には、私がいる――今のわたしなら『私』を思い浮かべることができる。
もしかしたら――
いつしか燃え上がった希望に、いつしか不機嫌が消し去られていた。
わたしは戦えるのだ。ニトロ・ポルカトと。
揚々と王城の中を姉の部屋に向けて進みながら、ふと、ミリュウは進む先に小さな人影とそれに付き添う警備兵のあることに気がついた。
「おかえりなさい!」
とたとたと駆け寄ってきたパトネトが飛びついてくる。
ミリュウは可愛い弟を抱きとめ、ただいまと囁いた。
「おねえちゃん、かっこよかったよ!」
見上げてくるパトネトの、姉を思わせる黒曜石の瞳はきらきらと輝き、真っ直ぐに。
ミリュウは心臓の中で熱を増した意気が、脈打つ度、胸一杯に広がるのを感じていた。
彼女は知った。
一度殺され、夜が明けて、やってきたのは、そう、明るい日差し。青空の下、胸躍らせる光に包まれている。ああ、わたしは……
「……ありがとう」
パトネトの頭を撫でる。柔らかい髪が手を撫でて、弟がくすぐったそうに笑う。
隣でセイラが微笑ましくこちらを見つめているのが判った。歩み寄ってきた警備兵、その制服を着るアンドロイド――いつも無感動なA.I.フレアの眼差しにまで温かなものを感じる。
ミリュウはパトネトと手をつないで姉の部屋に向かった。
「今夜は何を食べたい?」
おねえちゃんの微笑みに、弟も笑顔を返す。
「マカロニグラタン。エビがいっぱいの」
「セイラ」
「かしこまりました」
「デザートはね、いちごのアイスがいいの。つぶつぶがあって、とってもあまいの!」
「伝えておきます」
パトネトの一生懸命な注文を優しく受け止めるセイラは執事というよりも、わたし達のおねえさんという様子で……ミリュウの視線に気づいた彼女が主にも柔らかな微笑を向け、この場の主たるミリュウは不可思議なほどに幸福な思いだった。
「わたしはチョコレートがいいな。つぶつぶがあって、少しビターなの」
セイラがうなずいてから、くすくすと笑う。
ミリュウは目を細め、辿り着いた姉の部屋のドアノブに手をかけた。
「今日はあなたも同席なさい」
普段は給仕役を務める執事は少し返答を躊躇い、しかし、
「お言葉に甘えます」
「よろしい」
ミリュウは嬉しさだけを顔にして、ドアを開いた。
姉の部屋は前もって空調を利かせて快適な室温となっていたが、明かりはなかった。現在の部屋の主が帰ってきたのだ。今になっても暗いというのは部屋付きのA.I.が点灯させるタイミングとしても遅すぎるのに、それだけでなく、未だに光は点かない。
黄昏の、粘りつくような赤光が部屋を満たしていた。
色濃い日没の陽光はどす黒い陰影を生む。そのコントラストは、禍々しさをも湛える。
「――あ」
そううめいたのは、セイラだったか、あるいはパトネトだったろうか。その時のミリュウからは、それを判別するだけの頭が失われていた。
――信じられない。
ミリュウはただ、凝視した。凝視することしかかなわなかった。
部屋の奥。
何故、お前がそこにいられるのだ?
彼女の脳裏がぐにゃりと
大きなフランス窓の傍に運ばれた、出かける前は中央にあったはずの、小さなテーブルと椅子。
そこに存在する黒い影。
色濃い日没の赤光にどす黒い陰影。そのコントラストの中で、最も禍々しい人影。
何故、お前は、わたしが一度『死んで』――生まれ変わって――得意の絶頂で――わたしが! あの清い黎明の空を見上げたバルコニーを、何故? 片肘など突いてそれほど退屈そうに視姦している!
「っこれはこれは」
と、その男が、ミリュウ達にようやっと気づいたとばかりにわざとらしく驚き立ち上がった。
黄昏を背負い赤黒い影の塊にも見えるその男は、機内でも見たあの戦闘服を着ていた。その戦闘服に身を包んでいることを知れば、どうしてか、ミリュウには光が彼に飲み込まれているように思えてならなかった。
やおら男が右膝を床に突き、左手を立て膝となった左脚の付け根に添える。畏まり、右手を心臓の上に当て深々と頭を垂れる。それはアデムメデス
「ご尊顔を拝し恐悦至極に存じます、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ太子殿下。我らが敬愛せし王の愛し姫君様。ご機嫌麗しきは国の誉れ、神の賜りもの」
公的・儀礼的な場面で用いられる決まり文句を並べた挨拶はとても流暢で、そのためにかえって慇懃無礼な色彩を帯びている。その落ち着いた声にしても、ミリュウには、落ち着いているからこそやけに大きくやけにざらついて聞こえてしかたがない。
「お初にお目にかかること、光栄の至りにございます」
口上を終え、下げられていたニトロの面が王女の許しを待たずに上げられる。
「あ……」
と、またうめいたのは誰だったろう。セイラか、パトネトか、それとも――わたしか?
ミリュウは影の中に閃くニトロ・ポルカトの双眸に射抜かれ、心身の全てを凍りつかせていた。彼女を包み込んでいた温かな光が失せていく。追い風は止み、彼女を強くしていた異様な自信はしぼみ切って塵となる。
認めたくないことを、認めたくないと頭が思うよりも早く、心が先に認めてしまった。
黄昏の中。
姉の部屋は、今や姉の部屋ではない。
本来の主がいなくともその存在感に染められていたはずのこの場所は、今や、それに並ぶ存在感に塗り潰されてしまった。
「そのお姿では、お初にお目にかかります。パトネト王子様」
続けてニトロ・ポルカトが発した、先とは違い平時の言葉遣いでの挨拶に、ミリュウの手を握るパトネトの手も緊張に固まる。
だが、ミリュウには弟の緊張を和らげることはできなかった。それだけではない。何も出来ずに、ただ呆然とニトロ・ポルカトという存在に圧迫され、呼吸を潜めていた。
「セイラ・ルッド・ヒューラン様」
名を呼ばれた執事の小さな吐息がミリュウの足元をすくいそうになる。
ニトロ・ポルカトが一人一人の名を呼ぶ度に、その声に支配される空間の重みが増していく。
「A.I.フレア殿」
公表されていない弟のオリジナルA.I.の名まで出たことには――それがティディアから聞いていたのだろうことであっても――決定的なものがあった。
ミリュウの心臓で熱を帯びていた意気は、もはや地の底に沈んでいた。腹の底にあの気持ち悪さが蘇り、呪われた赤子が吐き出す汚泥の臭気が胸を腐らせる。
ミリュウは震えるようにして深く息を吐き出した。
ああ、わたしの中で、得体の知れない巨躯の怪物が叫んでいる。
あの議場の栄光は虚飾である!
あの黎明の青空は虚構である!
彼女は今まさに悟った。
明るい日差しも何もない。
夜が明けて、やってきたのは、また夜だった。