通り雨が過ぎ、光透く夕焼けの下、ハラキリ・ジジの家に一人の客があった。
雨のもたらした涼気の中を足早に抜け、突然『相談があるんだ！』と上がりこんできたその客は、空調の効いたハラキリの部屋に通されるなり赤道直下の炎天を引き連れてきたかのように声を張り上げた。
「――というわけで！ 何でもいいからどっか行こう！ この滅多にない大チャンスを逃す手はないぞ我が友よ！！」
やたらテンション高く言うニトロの手には、様々な旅行会社が提案するツアー企画が次々と表示される
三大リゾートの一つとして名高い南大陸のマイレン諸島。
西大陸の秘境ボドスルカ高地。
北大陸のアデムメデス最大の大瀑布・グレインバドム。
東大陸の屋根・クレプス-ゼルロン山脈の中で最も風光明媚で知られるレディエンド地方。
そして中央大陸の魔境ユーリーヌ密林……
いずれも各大陸の『行ってみたいところアンケート』で上位に来る地名だ。ハラキリは見たこともないほど瞳を煌めかせている友の顔と画面を交互に見ながら、はぁと生返事を返した。
それが気に食わなかったらしく、ニトロが
「もういくつも寝れば夏の長期休暇！ でも受験生には大事な試験対策稼ぎ時！ とはいえ効率良く学ぶには程良い休みと遊びも必要！ というわけで二泊三日くらいで！」
小さなチャブダイを間にニトロと差し向かい、彼の持ちかけてきた相談とやらに――もっと深刻なものかと思っていた――苦笑しつつ、ハラキリは言った。
「もういくつもって、あと五日ですよ？ 随分急な話じゃないですか」
「それは急に思いついたからさ！ というか芍薬に言われるまで『旅行』って単語を完全に他人事だと思いこんでたんだ！ だって何泊何日だよ？ 数日がかりで楽しく安全快適自由気ままに観光だよ？ そんなのちょっとばかり諦めてた、諦めてたんだ！ 自由満喫できることに浮かれながら、はは、俺って馬鹿だよ、ふっつーに『勉強貯め』しようとしていたよ。でも行けるのならばここは『遊び貯め』に決まっているじゃないか、違うかい？ 高校時代、ああ青春の思い出ブ・ラーーヴオーーー！！」
浮かれるにしてもほどがある。
気持ちは解るにしても流石についていけず、ハラキリは苦笑を深め、
「しかし思い出作りにしては味気なくありませんか？ 男二人旅も趣がないとは言いませんが、青春の思い出なら女子も含めておいたほうが華やかでしょう」
ニトロが仲良くしている級友には男女混成のグループが一つある。スライレンドに一緒に遊びにいった友たちだ。ニトロはハラキリが彼ら彼女らを示して言っていることは解っていたが、しかし大きく首を横に振り、
「クレイグたちとも遊ぼうと思ってるよ。でも、こういう旅行には誘いづらい」
「まあ、そこそこ金がかかりますからねぇ。学生の小遣いじゃちょっとキツイですか」
「それに『俺』がいるわけだから」
「まあ、旅先で窮屈な思いをするかもしれませんねぇ。ニトロ君だと気づかれて騒ぎにならないように気を遣ってたら、旅も楽しめないでしょうし」
「ひょっとしたらバカのいぬ間にメディアがうるさくなるかもしれないから、その点はとっても気がかりでね。それに、さらに何日かは勉強をサボれと言うことにもなるわけだから……」
「諸々鑑みて、拙者と二人旅が最適というわけですか」
「そういうわけです」
ニトロは撫子が操作するイチマツ人形が運んできたユノミを手にすると――異国の食器にももう慣れたもので――飲みやすい温度の茶の半分を一気に流し込んだ。冷たくもなく熱くもなく、ほんのり甘味のあるグリーンティーが喉を優しく潤す。ニトロは大きく息を吐いた。ようやく気が落ち着いたらしく、今度はいつもの調子で言葉を紡ぐ。
「それにさ、ハラキリとこういう旅をゆっくり楽しめるのもそうそう無いチャンスだと思ってるんだ」
ハラキリは良い答えを期待しているニトロの輝く視線をずずっと茶を啜って受け流し、イチマツ人形が茶と共に運んできた茶菓子を齧った。
「確かに滅多にないチャンスだと思いますが……申し訳ありません。非常に残念ながら、お誘いを受けることはできません」
「え？」
あからさまに、ニトロの顔が曇る。そこに小さな不審もあるのを見て取って、ハラキリは無念そうに続けた。
「いやぁ……こうなると判っていたら、お
ニトロの顔がさらに曇った。というよりも、雷雲の影を帯びたと言ったほうが適切だろうか。期待に輝いていた視線は溜め込まれた憤懣のために熱を帯び、その眼差しに刺されながらもハラキリは平然と茶を飲み、
「ニトロ君をどうにかしようという仕事ではありませんよ」
飄々とした口振りで懸念を払おうとしてくる親友兼師匠――時々敵の共犯者――に、ニトロは眉間に皺を刻んで言った。
「じゃあ、どんな仕事だよ」
「内容は言えません。守秘義務がありますので」
「『依頼』があった時は教えてくれる約束だろ」
「ですから、『依頼』があったと今まさに教えたじゃないですか」
「いやまあそうだけど……」
確かにハラキリの言い分は正しく、彼は約束を守ってくれている。
だが、ニトロは憤懣を消し去ることはできなかった。それだけの情報では安心できないし、何より納得もできない。
特に
「なんかさ、最近、ちょっと思うんだけど……」
ニトロは、言い難いことを言うように口をもごつかせながら、ハラキリに疑惑の目を向けた。
「少しばかり、ハラキリ、ティディアに優しくなってないか？」
その問いかけに、ハラキリは内心非常に驚いていた。そこには初めてニトロから投げつけられる種類の感情がある。彼がこちらとあの王女の協力関係を疑ってきたことは何度もあったが、それ以外――言うなれば、『交友の感情面』に特別な不安を覗かせてきたのはこれが初めてのことだ。
彼が『師匠』と『敵』の関係性に憂いを抱くことには何の不思議もないが……
それにしたって彼は、“ティディア関連”に対して面白いほどの鋭さを見せてくれる。
「はぁ……そうですか？」
とりあえずハラキリが胸中の動きを隠してぼんやり問い返すと、ニトロは大きくうなずき、
「そうだよ。ほら、ヴェルアレインに遊びに行ったって言ってたろ？ その頃からちょっとばかり思ってたんだ」
「気のせいですよ」
笑えるほど鋭い、と再び思いつつ、ハラキリはしれっと言い放った。
先ほどの『優しく』という言葉には多少の語弊があるが、以前に比して、ニトロとティディア――両者に対する立ち位置に修正を加えたのは事実であるし、その明確な転機はヴェルアレインでのティディアとのダベりだ。
「しかし、その言い方だと、まるでヴェルアレインで拙者とお姫さんの間に何かあったとお思いのようですね」
ひとまずニトロからこの点について深くツッコマれるのを避けるため、ハラキリは少々意地悪な展開に持っていこうと話を振った。
「何かあった、ってちょっと疑ってるよ。例えば、」
口を少し尖らせるニトロのセリフが継がれる前に、ハラキリは嘴を挟んだ。
「浮気とか？」
「ああ、それはないだろ」
ハラキリは、挟んだ嘴をあんまりあっさり折られて目を丸くした。
「……どうかしたのか？」
ニトロはハラキリの反応が意外だったらしく、こちらも少々目を丸くしている。
「いや……」
ハラキリは一度ニトロから視線を外し、一考してから言った。
「随分あっさりと否定してくれましたが、よほど自信があるのですか？ 例えば、お姫さんがそれだけ君を愛していることに」
「そんなんじゃないって。つうか、そういうこと言われると寒気がするなぁ」
「それは申し訳ない。――それで？」
「単純に、ハラキリとティディアはそうならないって思ってるんだ」
「興味深いご意見ですね。理由があったらお聞きしたいのですが」
「理由も単純だよ。そういう線引きの上で、ハラキリとティディアの関係は成り立ってる。男としてとか女としてとかそういう話じゃなくて、『ハラキリ』として、『ティディア』として――なんて言うのかな、種の共存ができてるって言うのかな？ でも二つの種は互いに独立しているからこそ共存・共生できるわけで、だから決して交わらないんだ」
鋭すぎる、と、ハラキリはもはや内心呆れていた。
ニトロの背後――部屋の隅で茶器を備えて控えるイチマツ人形に微笑を見つけて、思わず苦笑しそうになる。
なるほど、彼の喩えは非常に面白い。
自分とティディアの関係性を示すに実に絶妙な図式だ。
ハラキリは “交わらない”と変に具体的なことを言ってしまって居心地が悪そうにしているニトロへ感嘆の言葉を返そうとし、
「大体、それならハラキリとヴィタさんがそうなる方がずっと自然だしね」
しかし先んじて飛んできたニトロの不意打ちに意識を奪われ、眉を跳ね上げた。
「そうですか？」
「そうだとも」
ニトロは自信満々にうなずく。そして、
「だから、例えば、ヴィタさんと良い仲になって、ヴィタさんにもっとティディアに協力するように頼まれた――とかね。そういうのを考えてみた」
「ああ、そういう形でのお姫さんとの間に何かがあった、ですか」
「我ながら邪推だとは思うんだけど、結構いい線いってるかなーとも思ってるんだ」
「はぁ、なるほど、そうでしたか」
「……違うの？」
「違いますよ。それに少々心外です。拙者はそういう情で友達を売りません」
「……ごめん。ああ、でも、ありがとうか？ ここは」
ハラキリのきっぱりとした応えにニトロはばつが悪そうに言い、次いで嬉しそうに頬を緩め……どちらの感情を示すべきか判らず困惑の顔を見せてハラキリに笑われた。
機嫌を損ねた相手に笑われてしまっては立つ瀬が無く、ニトロは頭を掻くと一度うつむいた。それからやはり疑念が抑えられないらしく、顔を上げるなり首を傾げ、
「じゃあ、何で？」