「それでは、この辺でお暇いたします。片付けは……申し訳ないですが、お願いできますか?」
「ええ、もちろん」
「ありがとうございます。それにしても、何だか最後は拙者ばかりが話してしまいましたね」
ティディアは、首を振った。
「楽しかったわ。ご馳走様。それに、こっちこそ色々ありがとう」
「……お粗末さまです」
ハラキリは小さく会釈をした。
「ヴィタ」
「はい」
ティディアに命じられ、執事は素早く預かっていたハラキリの上着を手に取ると二人の下へ歩み寄ってきた。
「ハラキリ君を送って。その後は戻ってこなくていいわ、部屋で休みなさい」
「かしこまりました」
ハラキリが上着を着るのを手伝っていたヴィタはティディアに返事をすると、自分のコートを取りに行った。
ヴィタがコートを取ってくるのを待ち、ハラキリがドアに向かう。先に立つ女執事がドアを開け、優雅な立ち居振る舞いで客人が出て行くのを助ける。
――と、そこでハラキリが足を止めた。テーブルから見送りの眼差しを向けるティディアへ振り返り、
「では、おやすみなさい。ティディアさん」
にこりと笑ったハラキリは――ティディアのことを初めてそう呼んだ。
姫とも王女とも付けず『ティディアさん』と――『ニトロ君』と、そう親友を呼ぶ時と同じ響きで。
「 おやすみなさい」
ティディアは目を丸くしたまま、搾り出すように言った。
「また、王都で」
「ええ、王都で」
直属兵に化けたハラキリと、コートを着た執事が部屋を出て行く。
ティディアはドアが静かに閉まるのを見届け、それから手の中のカードケースに目を落とした。
「……………………びっくりね」
胸に――これまでに味わったことのない感情が去来していた。
どういうわけか、ハラキリの友情を浴びてもどこか漠然としていたこの心……それが今……今更、今頃になって――底の奥底から驚きを感じていた。
ティディアは、己の心が込められているというカードケースを愛しげに撫で、立ち上がるとクローゼットに向かい、その中に置いていた仕事用のバッグに大切にしまいこんだ。
窓を見ると、雪が降り続けていた。
窓に歩み寄り、開ける。遠くから祭りの喧騒が届いてくる。
空には地上の光に照らされる厚い雪雲があり、月はやはり見られそうになかった。
だが、それでいい。
しんしんと降る冷たい雪が、心にはしんしんと温かく降り積もる。その温もりが少し、しんしんと、痛い。
「……」
ティディアは、胸に溢れる感情を持て余すように窓を閉めた。
テーブルに戻り、椅子に座り、ヒズロゥの瓶を手にすると残りを全てグラスに注ぐ。少し溢れ出てしまったが構わない。グラスを持ち、彼女はその半分を一気に飲み込んだ。
冷たいのに熱い液体が喉を焼き、腹の内に落ちる。
それを待っていたかのように、心がまた騒ぐ。
吐き出した息は、ことさら熱く感じられた。
(……もしかしたら)
ハラキリ君が強い酒を持ってきたのは、慣れぬ話をする勢いをつけるためだったのかな――と、ふとティディアは思った。
それを確かめる術はないが、今の自分なら、それが正しいと確信できる。それが正しいと判る。何故なら、私は希代の王女ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナなのだから。
無敵の……
そう、無敵の、クレイジー・プリンセスなのだから。
ハラキリの声が脳裡に蘇り、それをそのまま口にする。
「……ニトロ君は、貴女を弱くした――か」
無敵のクレイジー・プリンセス・ティディアを。
無敵ではなくした、ニトロ・ポルカト?
「…………貴女はきっと、貴女が思う以上にニトロ君を愛している」
ティディアはグラスを置き、その縁を撫でながらつぶやいた。
以前の自分。
無敵であったティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナでは決して得られなかったであろう感動が、もはや胸などでは収まりきらず、体中を駆け巡り、全身を震わせている。
ハラキリは、私に『友達』と言われて嬉しかったと言った。ニトロの友達であると同様に、私の友達であると言ってくれた。いや、それだけではない。けして心地良くはなかった彼の数々の言葉が……何故なのだろうか、今、例えようもなく優しく感じられてならない。
「……ニトロが私を弱くした……か」
ティディアはついさっきまでそこにあった友達の顔を思い返した後、目を瞑り、いつだって克明に思い出せる愛しい少年の顔を瞼に浮かべた。
愛する人は、少し怒った顔をしている。
本気で怒ると誰よりも恐ろしく、そのくせ怒った後には、どれほど怒らせた相手にもお人好しの顔を覗かせるニトロ・ポルカト。
私を悩ませる、悪い人。
心を奪う、憎い人。
……ああ、そうか。ハラキリが友達への思いを語った時、彼に言うべき言葉を出せず、己の心と体をうまく律せなかった理由が、ようやっと分かった。
ニトロへの想い。
気づいていなかった――それとも気づきたくはなかったのか、そのあまりにも大きい想い。
それをハラキリにはっきりと自覚させられたことで、動揺していたのだ。
その上……そのあまりに大きなニトロへの情に知らぬ間に心を奪われ、そのために、その時既に他の情動を受け止められるだけの余裕が心から失われていたのだ。ハラキリに『貴女に友達と言われて嬉しかった』と言われたことを私も嬉しいと思いながら、無自覚の感情のために余裕がなく、この心は嬉しいという何の変哲もない感情ですら正常に処理できなくなってしまっていたのだ。
そして、ともすれば単なる思い込みにしかならない断定と断言をつなげて作られていた友達の忠告に、その要所要所で反論することができなかった理由も今なら解る。
ハラキリの忠告を支える論理の影には、常に『ニトロ・ポルカト』がいた。
彼が紡いだものは『ニトロ・ポルカト』の存在を盾にした――悪く言えば人質に取った筋書きであり、だからこそ私は反論できず、また反論する言葉を見つけられもしなかったのだ。何故なら、“ハラキリの忠告に対する反論”は決してハラキリへの反論には成りえないのだから。皮肉なことに、それは己のニトロへの想いに反抗することに他ならないのだから……そんなことが、できるはずもない。
また一つ自覚する。
ニトロへの想い。
それを否定することなど自分にはできない。
できないからこそ、できないと理解し納得してしまうからこそ、そのためにまた自分がどれほどのニトロへの想いを抱いていたのか――それをどれほど自覚していなかったのか……痛切に思い知る。
また一つ自覚する。
その通りだ。彼がこの心にいる限り、私は無敵ではない。私は私の心に住まうニトロ・ポルカトに克つ術を持っていない。彼を追い出そうかと思うだけで、ああ、ことここに至れば心臓を千切らんとする痛みが走る。この弱点を攻められれば、私は、無力だ。
また一つ自覚する。
ハラキリ・ジジ。私のたった一人の友達、たった一人の私の親友。
君は正しい。
確かにニトロは私を弱くした。
それなのに、なぜだろう!
「不思議なものね。それがこんなにも嬉しいなんて」
ティディアは、いつしか顔をしかめていた。
微笑むべきか、泣くべきか、それが判らぬように顔をしかめていた。
ティディアは、しかしそのしかめられた顔に誰も見たことのない美しさを湛えて。
ただ――
幸せであった。
終