ハラキリとヴィタの試合は、本当にすぐに終わった。
 始めの十数秒は互いに見合って動かず、次の十数秒は獣人ビースター特有のしなやかさと敏捷性を活かしたヴィタの猛攻を、やや大きめに間合いを取ったハラキリがひたすら逃げ回るだけだった。
 大きく試合が動いたのは、三十秒をいくばくか過ぎたあたり――何の変哲もないヴィタのジャブをハラキリが不用意にもらった時。
 ジャブとはいえ王女の護衛を努められる実力を持ち、あまつさえアデムメデス人よりも遥かに強い筋力を誇る六臂人アスラインの肉体を備えたヴィタの一撃だ。彼女の拳を頬に受けたハラキリはぐらつき倒れ、彼女の足にすがった。
 そしてその直後、ヴィタがハラキリの腕を取り力任せに振り回し、それがただ力だけに頼ったものであればハラキリに逃れられてしまっただろうが、最後は流麗な所作で肘を極め――
 そこで、試合は終わった。



 言われた通りとはいえ試合はあまりに短く、短いだけならまだしも内容は正直呆気に取られるもので。
 ニトロは何をどう捉えればいいのか分からず、唖然として握手を交わす二人の強者をただ見つめていた。
「どうでした?」
 ハラキリにそう訊かれても、弱かったね、くらいしか出てこない。
 いや、よく見れば、ヴィタの拳を受けたハラキリの頬には青痣一つなかった。練習用のグローブ越しとはいえ、それでも獣人と六臂人の力を兼ね備えた拳がまともに当たったにしては綺麗すぎる。それに足下もしっかりして、ダメージの一欠けらも見当たらない。
 どうやら……彼は見えざる技術でヴィタのパンチの威力を最大限殺していたようだ。
「私の負けです」
 と、ヴィタがグローブを外しながら言った。汗の一玉も浮かべぬ麗人は何やら十分満足した様子で、彼女のセリフにぽかんとしたニトロへと歩み寄っていく。
「え?」
本物の実戦であれば」
 そして腕時計をニトロから受け取りながら付け加えた一言で、自分の言葉に戸惑いを深めていた『弟子』をさらに困惑させる。
「いやいや、拙者の完敗ですよ」
 スポーツドリンクを飲むハラキリはヴィタの主張をやんわりと否定し己の敗北を清々しく主張する。
 ニトロは堪えきれずに訊ねた。
「解説は?」
「おや、『ただ観るのではなく考えながら観る、観ながら考える』――ともいつも言っているでしょう? もしやそれを怠ったわけじゃないでしょうね」
 ついさっきの『意地悪なお願い』の仕返しだとばかりに言われ、ニトロはハラキリに言葉を返せずぐっとうなった。
「アキレス腱を撫でられました」
 そこに助け舟を出したのはヴィタだった。髪をまとめていた髪留めを取り、美しい長髪を背に流す。
「撫でられた?」
 おうむ返しに言うニトロへマリンブルーの瞳を向け、彼女はうなずいた。
「まるで切るように」
 ニトロは、うなった。
 ハラキリにやりこめられた先とは違い、今度は感嘆を込めて。
「曲者ですね、ハラキリ様は」
 それは実際の近接戦……ナイフ、ガラス片でもいい。何でも使える状況であればハラキリはヴィタの拳をあえて顔面に――それもほぼダメージで――受けてぐらつき倒れ、相手の一瞬の油断、それとも戸惑いの内にアキレス腱を切り裂き勝利を得ていたということだった。
「そういう貴女も」
 やけに感心した目を向ける『弟子』の眼差しに照れ臭さを感じながら、ハラキリはヴィタに言葉を返した。
「ぎりぎり届く間合いを維持し続けていたじゃないですか」
「?」
 ニトロは眉間に皺を寄せた。
 ハラキリの指摘に、ヴィタは目を細めている。
 ……この二人の会話は、王棋の熟練者同士の感想戦を聞いているようによく判らない。
「あのさ」
 解説しろ教えろと訴える声に振り向いたハラキリは、眉間に皺寄せてこちらを凝視しているニトロの形相にぎょっとした。
「何が届くんだよ。ハラキリ、ずっとヴィタさんのリーチ一杯より外にいたじゃないか。手だって足だって届かない」
 そして、ハラキリは『弟子』の眼力に「おや」と感心した。本当によく成長したなと思う。それが解っているなら、彼のレベルでは十分だ。
「爪ですよ」
 成長した彼に答えへ辿り着くよう問答つけて教えるのは失礼だなと、ハラキリは素直に答えた。
「ヴィタさんは『爪』を出せる。その間合いは外させてもらえませんでした」
 ニトロの感嘆が、ヴィタに移った。
 その純朴な『弟子』の眼差しはさすがに照れ臭く、ヴィタは照れを誤魔化すように微笑みを返した。
 ニトロは目の前にいる二人を交互に見比べ、感心し切っていた。
 確かにハラキリの言った通り試合はすぐに終わった。
 だが、けして期待に添わないものではなかった。
 短い攻防に両者がどれだけ探り合っていたかと思うと震えがくる。
 ――ハラキリは逃げ回り、ヴィタの拳をくらい、彼女に捕まってからは圧倒的な腕力の差に成す術も無く関節を極められた。
 ――ヴィタはハラキリを捕らえ切れず、しかしハラキリのミスを逃さず、最後は圧倒的な腕力と確固とした技術を合わせて敵を捕縛した。
 そうとしか見えなかった短い間に、ハラキリは『やりようによって』ヴィタが満足する一つの勝利を示し、そしてヴィタは危険な隠し技をわずかにも出さず試合に勝利した。
 もしヴィタが『爪』を使っていたら? それはそれでハラキリは『やりよう』を変えて対抗しただろう。
 鍛え込まれた肉体と技、それらに裏打ちされた策を駆使するハラキリ。
 活かし切られた資質と磨き込まれた技を高い次元で融合させるヴィタ。
 強さのあり方の違う二人。
 違うあり方を見せられたことで二人の奥深さが伝わってくる。
「……私からもニトロ様に、一つ」
 ついさっき見たニトロの不機嫌はどこに行ったのか。
「何?」
 少年の根の素直さを再確認できるそのキラキラとした尊敬の眼に耐え切れなくなったように、それともあまりに感嘆を寄せられほだされてしまったかのように、ヴィタは言った。
「こと技術テクニックに関しては、ティディア様は私の上を行かれます」
「……え?」
 まさに高度な試合を見せつけられた直後にそう言われては、ニトロはあんぐりと口を開けるしかなかった。
「マジで?」
「マジです」
「マジ、で……」
「はい」
「……」
「まあ、別に不思議じゃないでしょう」
 愕然としてニトロが事にうまく対応できないでいると、ハラキリが口を挟んできた。
「おひいさんの多芸っぷりは有名ですし」
 確かに、ティディアの才能についての逸話は多い。
 身体能力に限ってみても、陸上競技や水泳では素晴らしい記録をはじき出し、体操も得意で舞踏も達者、社交ダンスだけでなくクラシックダンスからストリートダンスまで何でもござれだ。軍内で開催された剣術の試合では優勝を飾り、そういえば二・三年前には素性を隠し顔を変え女子ボクシングのプロテストを受け真っ当にライセンスを取得して世間を騒がせたこともあった。
 普段はバカっぷりしか見ていないためについ忘れそうになるが……ティディアは、そう、無敵の王女様。
 半ば呆れを込めて『なんでもいい、もし彼女が本気で打ち込めばトップを取れない世界はないだろう』と言われ、『彼女が王族に生まれなければ、多くの分野で天才として歴史に名を残していただろう』とも賞賛される姫君。
「にしてもヴィタさん、随分実感がこもってましたね。何かお姫さんの実力を体験することでもあったんですか?」
「私はティディア様のトレーニングのお手伝いをさせていただいていますから」
「ああ、それで。でもまさか負かされているわけではないでしょう?」
「『合気』では負けることもあります。剣を持たれては全く敵いません」
「なるほど。では他の――『総合』などではどの程度やりあえてますか?」
「お答えできません」
「おや。それはなぜ?」
「ハラキリ様にこれ以上の情報を与えるには、ティディア様の許可を頂きませんと」
「おや、それは残念」
 抜け目なくティディアの本当の実力を推測するための材料を集めようとしていたところに釘を刺され、しかしハラキリは肩をすくめるだけで口とは裏腹に残念がることもなく話題を変えた。
 その一方で、ニトロは、もはや会話を続ける二人の言葉に耳を傾けてはいなかった。
「…………あぁ……そぉなんだ……」
 小さな小さなかすれ声でつぶやく。自分の中でちょっとだけ大きくなりだしていた自信が背を向けて消沈していくのをまざまざと実感する。
 のっそりと独り整理体操を終え、それからごそごそと荷物をまとめ、ニトロは王女の女執事が奢ってくれたドリンクを飲んだ。
 アミノ酸やらクエン酸やら色々と入っている美味しいスポーツドリンクを一気に飲み干し、そして、ため息をつく。
「もっと頑張ろ」
 分かっちゃいたが……解っちゃいたが自分に襲いかかってくる女の底知れなさを改めて知った今、ニトロが言えることは、それしかなかった。





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