敵を知って己を知って

「――ぅおぐぇぇぇ…………!」
 クッションの効いた格闘技用トレーニングルームの床の上を、ニトロは腹を押さえてのた打ち回っていた。
「まあ、そこそこ良しです」
 苦悶を噛み締める彼に、どこか気の抜けた調子で声がかけられる。
「……っ、っ、っ、、〜〜っ」
「ちょっと力を入れてみましたが、まずまずついてこれましたね。護身術、としてはそれなりのものになってきていますよ。一年未満でここまでくるなんてたいしたものです。自信を持って下さい。しかしだからといって慢心しないようにして下さいね。それから途中で変なポ」
「デ・ジャ・ヴュ!」
 思い切り顎の付け根に肘を打ち込んだ上に鳩尾みぞおちに膝を鋭利な角度でめり込ませておきながらダウンさせた相手を何も気遣わずつらつらと語るハラキリに、ニトロは床の上に座して抗議の声を上げた。
「なんか前にもこんなことなかったか!?」
「ダウンさせて講義、なんていつものことでしょう」
「いつものことだから言ってるの! もっと弟子に愛を!」
「不要な情は弟子を腐らせるだけです。師弟愛なんてものは基本厳しいと相場が決まっていますよ。それとも、まだ君を育てる厳しい試練あいが足りませんか」
「……ぐぅ……」
 すぱっとぐうの音しか出ない反論を返され、ニトロは口を結んだ。頭部保護のためにつけていたプロテクターを外し、最高の衝撃吸収素材の上から打たれたというのに痛みが滲む顎の付け根をさすり、これがなかったらと思うとぞっとする。
 ハラキリは、
(まあ、別に拙者が与えなくても、試練はいつもそこに転がってますけどね)
 と、プロテクターを眺めながら何か物思いに耽っているニトロを見て、それから見物人に目を移した。
「楽しかったですか?」
「はい」
 すぐ側で体育座りをしている女性がマリンブルーの瞳をキラキラさせてうなずく。
「ニトロ様は技の失敗の仕方もとても面白いです」
 ハラキリは、ヴィタの関心が――意表を突こうとしたのか、ニトロが繰り出そうとした飛びつき膝十字(失敗)に向いていることに、さすが面白好きの嗜好だと内心笑った。
 確かにまあ、途中まで技を仕掛けようとして、途中から戸惑ったように変なポーズで動きを止めた様は間抜けで仕方なかったが、
「そうだ、話の途中でしたね。ニトロ君、あれは一体なんだったんです。技を失敗したにしては不自然ですし、その格好が面白過ぎて思わず爆笑しそうになりましたが……ああ、もしやそれが狙いでしたか? だとしたら駄目ですよ、そんな愉快な作戦。よほど実力があるか、そういう戦い方をし慣れていなければただの間抜けで終わります」
 辛辣な――とはいえ教える者としての厳しさからきたものではあるが――ハラキリの指摘に、ニトロは口を尖らせた。
「作戦とかじゃない。自然と動いたんだ」
 むすっとして手からオープンフィンガーグローブを外し、胃に残る鈍い痛みに顔をしかめながら足を投げ出して言う。
「こういう時はこういう技も! って。でも頭では分かってたけど体が動かなかったんだ。『格闘プログラム』の影響だよ、絶対に」
 ぽん、と、ハラキリが手を打った。
「なるほどそれで。いや、これは失礼しました。それは拙者のミスです」
「……ミス? 何が?」
「ニトロ君の体を動かしたのは、きっと『コレクション』です」
「コレクション……って、ああ、あの色んな技を放り込んだって言っていた?」
 それはハラキリが、「知らぬ技をどういうものか知らぬまま喰らうのは危険だから」と、無意識下の備えになるようにプログラムに組み込んでいたものだった。
 多種多様な格闘技の動きに加え、まず滅多にあることではないだろうが他人種とトラブルになった時に際し、アデムメデス人には実現不可能な技や技術も大量に放り込んだコレクション。
「あれの中にある基本的な技法には体動作用のプログラムも併せておきましたが、それ以外はまだ知っておくだけでいいと併せてなかったんですよ」
 『格闘プログラム』は意心没入式マインドスライドを利用した仮想空間でのシミュレーションと併せて、体につけた電極から筋肉にどういう動きをしろという信号が送られる。それで脳が思う体の動かし方と身体が思う体の動かし方を一致させ、例えば最適なパンチの打ち方を短時間で覚えることができる。
 無論それはその後に練習を積み、覚えた脳の動作・体の動作ともに心身へしっかりと染みこませねば一過の内に剥がれるただのメッキとなってしまうのだが、それでも入門には十分なものだ。
 しかしどれだけ情報を脳に刷り込んでいても、体へそれと一致する刺激を与えていないケースであれば、
「だから当然、ニトロ君が失敗した技を、君の体は覚えていません。それでも使えるとどこかで判断したということは、今の実力ではもうそのような技を選択肢に加え、使いこなせると君自身が判断したということでしょうね」
「えっと、つまり……俺は頭の中の感覚だけで技を覚えたつもりになってて、それが暴発した――でいいのかな?」
「ええ。それでも結構です。比較的アクロバティックな技でしたからね、そうでなければちゃんとできていたかもしれませんが」
「……できてたら、かかった?」
「拙者に?」
「うん」
「びっくりくらいはしましたよ」
 そう軽く言われては立つ瀬がないが……まあ、ハラキリが未熟な奇襲にひっかかるはずもあるまい。ニトロは『まるで無駄』とまで言われなかっただけマシかと思い直した。
「今後、同じミスが出ないようにそのあたりの補正プログラムを追加しておきますね」
「うん、よろしく」
 ニトロがうなずくと、ふいにハラキリが考え込んだ。
「?」
 何を考えているのかと問おうとするニトロに、ハラキリが期待に満ちた目を見せる。
「……なんだよ」
 嫌な予感を感じて、ニトロは身を引いた。
「ついでだから、全ての技にも対応できるようにしておきましょう」
「ふざけんな!」
 一瞬でハラキリの意図を理解して、ニトロは叫んだ。
「いくら対応できるようにしたってできるわけないだろ! 六臂人アスラインの関節技なんて腕がまず足りねえし! 獣人ビースターの尻尾を使った動きなんか不可能だし!」
 ハラキリが放り込んだと言っていたものを断片的に思い出しながら、言う。
「ああ、そうだ。全部っつったらあれだ、尖耳人エルフカインド超能力サイオニクス使ったものもあったろ! 無理だ無理! 俺に空は飛べない! 地球ちたまのニンジァーみたいに分裂もできない! てかそれとも何だ、『プログラム』使ってりゃ分裂もできるようになるってのか!?」
「そりゃ無理です」
「ほらみろ!」
「でも何だかニトロ君ならできそうな気がするんです」
「目から怪光線などもですか?」
 ヴィタが瞳をいっそう輝かせて話に割り込んでくる。ニトロは即座に彼女にびしっと指を差し向け、
「こらそこ! 阿呆な期待はしない!」
「ですがわたくしもニトロ様ならできると思うのです」
「できるか! お前ら俺を一体何だと思ってるんだ!」
「「えー」」
「声を揃えて残念がるなーーー!」
 ニトロは立ち上がっていた。突き上げた両の拳はわなわなと震え……やおら、がくりと彼は肩を落とした。
「とりあえずさ、師匠。バカを撃退するのに必要なものだけでいいから」
「おひいさんは普段から何をやってくるか分からない人ですよ? ならニトロ君も普段から何をしでかすか分からないようになれば」
「いや限度があるし。そりゃ、ティディアが目から怪光線を出すってんなら俺も努力するよ。でもそうじゃないだろ?」
「……ふむ。
 どうでしょう」
 ハラキリはこの上なく真剣な眼差しをヴィタに向けた。
「残念ながら」
 ヴィタは唇を噛み、心の底から無念そうに目を伏せた。
 ニトロはとりあえず二人をぶん殴っておきたい気分になったが、やめた。この二人を相手にするのは、ティディアとヴィタのコンビを相手にするのとはまた別の労力がいる。ただでさえトレーニングで疲れているのだ。これ以上変な具合に疲れたくはない。
 ニトロはのそのそとヴィタの側にある自前のスポーツボトルへ動いた。それに気づいた彼女がボトルを手渡そうとして――
「あら」
 ボトルを再び床に置いた。それから腕時計を操作し、内蔵のコンピューターを通じてドリンクを持ってくるようにとスポーツジムのサービスへ告げる。
 ボトルが空に、それともそれに近いのだと悟ったニトロはヴィタの横に座った。
 ……いつもとは違うトレーニングルーム。
 春休みも終わり、学校が始まってすでに一週間。
 まだスライレンドでの事件の余波が残っていて、周囲が騒がしくあまり学校に行くことができないでいる。トレーニングもさすがにいつものジムでは落ち着いて練習できず、今は芍薬がティディアに要求して費用全額お姫様持ちで借りさせた、要人御用達の会員制スポーツジムを利用していた。
 本当なら横にいるヴィタが――そしてティディアが――気兼ねなく出入りできるこういう場所を使うのは嫌だったが、背に腹は代えられない。
 『天使』が製造中止になったからにはもう『赤と青の魔女』のような危機は二度とないだろうが、しかし別のベクトルの危機は今も傍らで山盛りになっているという実感がある。そうである以上、毎日の鍛錬に抜かりを得ることはできないのだ。
 それに最近はハラキリも熱心に教えてくれる。たまにふらっとどこかに消える彼が教えてくれる機会は、一回たりとて逃したくないという気持ちもあった。
「失礼致します」
 貸し切りのトレーニングルームに高級レストランのウェイターかと思う服装の男性が入ってきた。彼は純銀のトレイに恭しく三本のボトルを載せて歩いてくる。
 一本一万リェンもする――こういうところに来る方々には大抵過ぎたものですよとハラキリが笑って言っていた、ちゃんと負荷の高い運動をしていれば効果のある特製スポーツドリンク。
 さすがに市販の飲料で十分だとニトロは通販で大量購入したハイポトニック飲料の粉末から作ったドリンクを持ち込み、これに手を出すことはなかったが……
「どうぞ」
 男性を出迎えてボトルを受け取ってきたヴィタが差し出してくる。
「……」
 ニトロはそれを受け取り、ハラキリが受け取ったドリンクを飲んでいるのを横目にジムの職員が去るのを待った。

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