ニトロが悲鳴を上げなかったのは奇跡であった。
「ぶほッ!?」
しかし代わりに彼は飲みかけていたレモンスカッシュを思いっ切り吹き出した。鼻からも溢れる。炭酸が、粘膜に、痛い!
「――おああッ」
堪らずうめき声を上げると、そっとハンカチが差し出された。
そちらへ振り向けば、やはり、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
いつの間に隣席に座っていたのだろう? 空色のリボンの巻かれた帽子を被り、春に相応しいカジュアルな服装。きっとこの目に涙が滲んでいるからだろう、その身は淡く光に包まれているかのようだ。彼女の前には肉厚バーガーセットを載せたトレイが置かれている。
「な――なな」
鼻の痛みが治まって来たのに反比例して湧きあがってきた驚きがニトロの口を突く。しかし、彼はもう自分の声が聞こえなかった。
店が轟いていた。
それは凄まじい音量であった。
人が突然
……だが、いつまで経っても彼に触れるものはない。
何故だろう?
ひたすら隣席の女を凝視していた目をちらと巡らせれば、いつの間にか屈強な男女が数人、この席を半円に囲んで並び立っていた。影が走り、慌ててそちらを見れば、窓の前にも数人の男女がこちらに背を向けて立ち並んでいた。皆いずれもカジュアルな服装であるが、それが王軍の兵士達であろうことは誰の目にも明らかだ。その威圧的な結界が店内に響く喚声を静めていく。足音は止み、罵声は消えた。それでも興奮と好奇に突き動かされる口々だけは消えずに残る。
「失礼致します」
と、すぐ傍に聞こえた声にびくりとしてニトロが振り返れば、実にダンディな服装の『犬』――王女の執事がそこにいた。彼は布巾を持っていて、汚れたカウンターと窓を手早く拭き上げる。
「新しいものをお持ちいたしましょう」
レモンスカッシュはトレイにもこぼれていた。ポテトが数本浸っている。唖然としたまま、ニトロは言った。
「い、いや、いいです。これくらい、勿体無い」
「左様でございますか」
ロマンスグレーの頭を垂れて『犬』は去っていく。この場をぎゅうぎゅうに取り巻く人ごみに無理なく分け入り消えていく様子はまるで魔法のようだ。
未だ正常思考を取り戻していなかったニトロは、つんと肩を押されてやっと我に返った。
汚れた口と鼻の周りに、ハンカチがそっと触れてくる。
ニトロは反射的に身を引いた。
しかしハンカチは追ってくる。
「勿体無い、でしょ?」
周囲にどよもす声の中、小さな声がニトロの耳を撫でる。既にハンカチは肌に触れていた。それを拒絶したい気持ちがその言葉に圧し止められる。そう、触れてしまった以上、汚れ損になるのも勿体無い。
「……」
素晴らしい肌触りのハンカチに拭われながら――悲鳴と歓声が入り混じる――ニトロはじっとティディアを睨んだ。彼女はそれを微笑んで受け取る。外から見れば、二人は熱く見つめ合っていた。
「びっくりした?」
囁くようなのに、その声ははっきりとニトロに届く。
彼はハンカチが離れるのを待って、言った。
「何しに来たんだよ」
ハンカチをポシェットに仕舞いながら、ティディアはニトロを見る。その
「迎えに来たの」
「迎え?」
まさか王城にか? 王様か王妃様にでも引き合わせようというのか? それは絶対に、絶ッ対に拒否しなければならない!
すると彼の心中をはっきり読み取ったとばかりに王女は唇を開いた。
「お父様に夕食へご招待頂いたのよ。だから迎えに来たの」
一瞬、ニトロは誤解した。そのお父様とは王様のことだと思った。しかしティディアの意図は違う。彼は、そのお父様とは、我が実父であることを悟った。
「え?」
「ニトロの家にね? 息子さんはご在宅ですか? って電話したら、出かけたって。それでちょっとお話していたら、是非どうぞって言ってくださったの」
「……言ってもらったんじゃなくて、言わせたんだろう?」
「やー、そんなわけないじゃない。これは純粋に、優しいお父様のご好意よぅ」
ニトロはティディアを胡散臭げに見つめる。その一方で彼は、父が卑しくも王女様を気軽に食事に誘うことが容易に想像できた。しかも腹立たしいのはそんな事態になったというのに連絡を入れてこないメルトンである。帰ったら、絶対に怒ってやる。
「家の周りにも警備を敷いているから安心してね」
「安心できるか。この前は庭に踏み込んできた奴がいたじゃねぇか」
「花壇が踏み荒らされたことには心を痛めているわ。そうそう、あれは不法侵入でちゃんと叱っておいたから」
「……お前」
「大丈夫、法律に則っているわ。ただ余罪がぼろぼろ出てきたけどね?」
「お前」
あの件は、その見せしめをこそ狙ってわざと踏み込ませたんじゃないだろうな?――彼の眼差しはそう詰問していた。ティディアは、微笑するだけ。細められたその双眸の奥には黒紫の瞳がある。底の知れない、深い、深い輝き。覗き込めば覗き込むほどに神秘的な黒紫色……
と、その時、ニトロはふと周囲のざわめきが聞こえなくなったことに気がついた。と、そう気がついた瞬間、ふいにざわめきが耳に戻ってきた。彼は自覚できなかったが、今、魔女の瞳に飲まれかけていたのだ。だが彼はそれを単に意識がそれていただけだと思い、急に蘇った音声に気を
「今回は、前回以上に固めている。前例があるから多少高圧的でもご近所に理解を求められるわね」
「……」
ティディアは肉厚バーガーの包みを外していた。大振りなハンバーガーへ豪快にかぶりつく。
「それ食って、夕食も入るのか」
「ほんはいはい」
「飲み込んでからしゃべれよ」
「はっへまっへふえう?」
「待つから。それに――」
ニトロは窓の外を一瞥する。身を挺して防護柵となる私服警備兵のさらに向こうは人だかり、そして人の輪は現在進行形で重なり続けている。彼は嘆息混じりに言った。
「逃げられないことが判らないほど馬鹿じゃない」
食べ物を飲み込み、ティディアは微笑んで言う。
「逃げるだなんて、照れなくていいのに」
「照れてな――」
ニトロはそれ以上言えなかった。ふと目に入った窓の外、警備兵に押し止められる男の形相にぎょっとしてしまったのだ。そして一端それに気がつくと、他の人々の顔にも気がつく。様々な顔があった。憧れ、親愛、感激――そういった明るい眼が王女に向けられている。一方で羨望、嫉妬、疑惑――そういった暗い眼が自分に向けられている。光は王女に注がれて、闇は『恋人』に。対照的だからこそ、その二つの差異は彼の心に恐れを生んだ。その恐れはまた彼をひどく叩いた。何も悪いことをしていないのに叱られた子どもの心がねじけるように、彼の心もねじれるように痛む。光と闇に共通しているものは好奇心くらいなものである。だがその好奇心がまた怖い。怖いといえば、とにかくこの身に集まる視線が怖い。例えこちらに好意的な眼差しだったとしても、あちらはこちらの本名を知り、こちらは知らず、あちらはこちらの家庭環境まで知り、こちらは何もかも知らない、ニトロにはそれを受け止められる気が全くしない。
「よく平然としていられるな」
思わず、ニトロは言った。するとティディアはたおやかに小首を傾げた。
「だって、なんでもないもの」
「……」
「お父様は腕によりをかけるから、夕食はいつもより遅くなるって。そう言っていたわ」
「王女様に伝言を頼むか」
ニトロは苦笑する。それにしても『映画』の件では両親も同じくこいつに騙されたというのに、今ではすっかりこいつと仲良しだ。というか仲良しすぎて困る。それを両親の度量が広いと見るべきなのか、それともただの間抜けと言うべきなのか、あるいはティディアの取り入り方が見事だと恐れるべきなのか……彼は惑う。
肉厚バーガーを食べる王女は、それがちょうどいい腹ごしらえだとばかりに、もう半分も食べてしまった。
それを見つめるニトロの視線に気づいて彼女はちょっと照れ臭そうに口を止め、唇を汚した肉汁をぺろりと舐め取る。どこからかため息が聞こえる。
「美味しいわね」
ニトロは自分のトレイの上で完食されるのを待つバーガーを一瞥し、
「お前はこれを“美味しい”って言えるんだな」
「何故?」
きょとんとするティディアに、ニトロは性根の悪い笑みを見せて言う。
「いつも最高級のものばかり食ってるんだ。俺は好きだけど、お前は喜ばないと思ってたよ」
そのセリフに彼女は、ふ、と笑った。
「狭い範囲でしか味わえない舌こそ『貧乏舌』って言うものよ」
唐突な主張に意表を突かれてニトロは目を丸くする。ティディアはファストフードにかぶりつき、咀嚼し、飲み込む。
「そこに値段は関係ないわ」
周囲に感嘆の吐息が聞こえた。賛意にうなずく気配を感じる。ニトロは、ふいに恥ずかしさを覚えてうつむいた。
「ちなみに好き嫌いの範囲でしか味わえないっていうのは、ただの偏食ね」
横目で見ると、ティディアは悪戯っぽく微笑んでいる。まるで『先にツッコミを潰してやった』と言わんばかりである。……そんなツッコミ、こちらには入れる余裕もないというのに。
「だけどこれ、冷めるとひどそう。ニトロも早く食べたら?」
ほとんど言われるまま、ニトロは肉厚バーガーの残りを齧った。
丸めたティッシュを食べているような気がした。
冷めてひどく味が落ちたとはいえ、病的な味だった。それは舌でなく、精神が味わっているのだった。――自分は、卑屈だった。
「ね、お父様は何を作ってくださるのかしら」
こちらの気持ちを知ってか知らずか、ティディアは目を輝かせて言う。その明るさから彼は目を
「わからないな」
身を縮め、レモンスカッシュで湿ったポテトを口にしてニトロは目を伏せる。
「わからないっていうのは、いいわねー」
「……そうかな」
「ええ、楽しみ。だって私達、わからないからこそ、これからもっと知り合っていけるんだもの」
ティディアが優しく囁きかける。ニトロはティディアを見て、何も言わずにまた目を伏せる。彼はそのやり取りが周囲にどう見えたのか考えることができない。
今現在、本来真面目で素直な彼が、自己嫌悪に苛まされていることをティディアは察していた。だから彼女は彼をまるでその視線で慰撫するかのように優しく見つめ、微笑んでいた。そして、その微笑みに大衆は王女の愛を見る。
――少年は、まだ何も知らなかった。