「――ということだったよ」
駅前ロータリーに面したカフェのテラスで、ニトロはその話を終えた。
彼が組んだ手を載せる丸いテーブルの向こうには、無地のユカタに深い青の帯を締めた芍薬がいる。細い骨組みの洒落た椅子に真っ直ぐ背を伸ばして腰掛けて、やはり背中に真っ直ぐ落ちるそのポニーテールの後ろには、満席のテラスと賑わう歩道とが左右に分かれて背景を描いている。
古びたデザインの車が何台もロータリーをぐるりと回り、家族連れや恋人達がレンガ造りの建物に面してウィンドウショッピングを楽しんでいた。昼下がりのカフェは忙しそうに動き回るスタッフとゆったり食後の時を過ごす客とが実に対照的である。
そしてそれらは、全て、無音の中にある。
ニトロの隣の席に座る老紳士が新聞――紙の新聞――を大きく広げた音も、そこへ軽食を届けたウェイターの足音もない。車道にたなびく土煙、歩行者にベルを鳴らしているらしい自転車、駄々をこねる子も、駄々っ子に困る親の顔も、何もかもが音の無い世界で生きている。
芍薬は伏していた切れ長の目を、そっと上げた。
マスターはこちらを見つめていた。
「なるほどね」
芍薬は吐息混じりに、ほとんど呟くようにそう言った。
深い理解、その実感が一言に込められていた。
背もたれに体重をかけ、ニトロは腕を組む。
「だけど、それだけがフルニエの気持ちじゃないと思うんだけどね」
「そうなのかい?」
ニトロは顔を上向けた。
「ああ言いながら結局フルニエは……『オリジナル』を嫌い切れてない」
「御意。アタシもそう思う」
「
「……」
芍薬は何も言わず、ニトロはテラスに張り出す
しばしの沈黙の後、彼は視線を芍薬へと落とし、
「芍薬は、笑える?」
「そういう風に『死ぬ』時にかい?」
ニトロはうなずいた。
芍薬は少し考えた後、首を振った。
「わからない。笑えるかどうかはね。だけど――フルニエ殿は正しいよ、アタシ達は残酷なエゴイストだ。アタシがそのオリジナルA.I.と同じ立場に立ったとしても、絶対に後悔はしない。だから笑うかどうかは別にして、ただ満足であることは間違いないよ」
「何故?」
率直な問いに、芍薬はまた少し考えた後、マスターをじっと見つめた。
彼はその視線から目を逸らさない。
芍薬は言う。
「確認するけど、件のオリジナルA.I.のマスターは、フルニエ殿の母君だったんだよね?」
「そうだと思う」
「それで、そのマスターは幸せになったんだろう? そのマスターの主観でさ、その時は」
「……そうだ、と思う」
「それならやっぱりアタシの結論は変わらない。主様、そのオリジナルA.I.は、マスターに尽くし切ったんだ。そして自分の『命』を使ってマスターに幸福を贈れたんだ。それは幸せなことだよ。もちろん至善至福の『死』ではないけれど、それでも最善の終わり方の一つなのさ」
「マスターに捨てられたのに?」
「違うよ、捨てられたんじゃない、必要を全うしたんだ」
「そう解釈するんだ」
「御意」
断言した芍薬は真っ直ぐな目をしている。その口元にはほのかに微笑がある。
「そっか」
ニトロはうなずき、やや目を落とした後、つぶやいた。
「……でも――必要、か」
芍薬がうなずく。
「それが存在意義だからね」
ニトロは目を上げて芍薬の黒く澄んだ瞳を見た。
「よく言われることだけど」
「なんだい?」
「それに縛られることは、苦しくないの?」
「人間は『自由な魂』を持っているからそう思うんだろうね」
即座に返されたその言葉に、ニトロは苦笑した。
「その“自由”は、必ずしも良い意味じゃないね?」
人間の問いに、オリジナルA.I.は笑顔で応じる。
――人間も、笑む。
二人の周囲では無音のまま人々が活動し続けていた。サウンドのオン/オフに隔たれた一つの世界。随分前に届けられたカフェオレはいつまでも温かい。
丸みのある白磁のカップを手にしたニトロは一口喉を潤し、今日知ったこと、考えたこと、考えさせられたこと、これから考えたいこと、それら全てを一つにまとめるように息をつくと、背筋を伸ばして対面に座る芍薬へ言った。
「そろそろ始めようかな」
「承諾」
芍薬がうなずいたところに慌ててニトロはまた言った。
「ああそれで、フルニエへの対応だけどさ、これからもこれまで通り普通にしてくれる? さっきの話を聞いて、もしかしたらやりづらくなったかもしれないけど」
「そんなことはないよ。感情のオンオフなんてアタシらにはそれこそ朝飯前、なんならこの
「――ああ、そういやそっか」
それは当たり前なことなのに、うっかりしていたニトロは自嘲気味に苦笑し、
「消す必要はないけど……まあ方法は何にしても、そういうことでよろしく頼むよ」
「承諾」
改めて芍薬がうなずくと、瞬間、世界が騒がしくなった。
車の走行音、雑踏、食器の擦れる音、溢れる音・音・音らを押し分けて聞こえてくるのは、人々の声。
だが、その声の中にニトロの馴染んだ響きは無い。
それらの全ては銀河共通語で語られていた。
町の看板にもアデムメデスの文字は一つもない。このカフェのメニューにも。
ニトロの反応を確認すると芍薬は立ち上がり、彼を力づけるように言った。
「それじゃあ主様、ちゃんとアタシを見つけておくれね」
その言葉、その声が消えると共に、芍薬の装束がその身と薄れ、さらりと揺れたポニーテールもまた空に尾を引いて消えていく。
「……」
一人カフェテラスに残されたニトロは、しばらくどことなしに景色を眺めていた。
やがて、誰かが声をかけてくる。
《こんにちは》
振り返ると、隣席の老紳士がこちらに笑顔を向けていた。
《 ですかな?》
《失礼、もう一度お願いします》
ニトロが銀河共通語で返すと、老紳士はゆっくりと、
《ご旅行ですかな?》
ニトロは首を振った。胸ポケットに手をやる。そこには期待した通りの物があった。
《私は人を探しています》
基本的な文型を使って言いながら、取り出した写真を老紳士に見せる。
《彼女はこの町にいます。彼女の名前は芍薬です。どこに彼女はいますか?――いえ――どこに彼女がいるか、あなたは知っていますか?》
《申し訳ない、知りません》
《そうですか。ありがとうございます》
《無事に見つかるよう、祈っています》
《ありがとうございます》
老紳士は新聞に目を戻した。
ニトロはやはり銀河共通語でウェイターを呼び、支払いを済ませるとカフェを出た。
駅に周辺案内図がある。
それを見に行くと『行動可能範囲』は存外広い。どうやら芍薬はなかなかハードな設定をしていってくれたらしい。この地図の中のどこかにいる芍薬を見つけ出すには、果たして何人と話さなくてはならないだろう。
ニトロはロータリーの先に広がる街へ体を向けた。
アクションアドベンチャーゲーム風の他言語習得のための仮想世界。だが、今は現実。埃っぽい空気だ。歩き回れば汗も流れよう。
「さて」
思わずアデムメデス語で呟いて、それを打ち消すようにニトロは咳払いをした。
そして息を吸い、力を込めて探索の一歩を踏み出す。
空には太陽が眩しく輝いていた。