「ニトロ」
 クレイグに呼ばれ、ニトロは慌てて茶席に向かった。
「これはどうすればいいかな」
「その辺にでも」
 ニトロへ画板の置き場所を雑に指定したクオリアは、美術室の大きな机の一辺にミーシャと並んで座っていた。そのミーシャと机の角を挟んだ隣にキャシーが座り、その横にクレイグ、また角を挟んでフルニエがミーシャの対面にいる。最後の一辺にダレイがクオリアの方に寄って座っていて、その右にハラキリがいた。フルニエの隣で空いている席は角を挟んでハラキリの隣でもあり、つまり消去法でそこにニトロの収まる場所ができたらしい。彼はそこに座った。
「いつまでも帰ってこないでどこに行ったのかと思ったら。メールも返さないでさ」
 ハラキリの動向を知ったミーシャが、ティーバッグを片付けている彼に言う。
「トイレに行った後、行ったのか?」
「ええ」
 ミーシャは、肯定する相手を何となく胡散臭げに見つめた。
「本当か?」
「本当ですよ」
 何食わぬ顔でうなずきながら、ハラキリは湯気の立つコップをそれぞれの前に置いていく。中央に敷かれたシートの上にキャシーがタルトカップを並べ出すと、ミーシャは可愛らしいお菓子に気を引かれて小さな歓声を上げた。クオリアは目を細め、ダレイはほおと息をつく。
 外は相変わらずの大雨であった。
 閉門時間までまだ時間はあるが、空はもう真っ暗で、それだけに教室の灯りが煌々と輝いていた。
「それじゃあ食べようか。こっちにあるのがバターを使ってて、こっちは不使用」
 ニトロが言うと、早速ミーシャが手を伸ばし、そこでちょっと迷った後、ホイップクリームの乗っていないバター不使用のタルトカップをつまんだ。
 キャシーがニトロを一瞥する。
 その視線にミーシャが気づき、次いでもう一つ気がついた。彼女はニトロを見つめ、怪訝な様子でおずおずと訊ねた。
「もしかして……あたしのためか?」
 ニトロは肯定も否定もしない。しかしその態度で十分だった。驚き、そして嬉しさを前面に出すのが恥ずかしいかのようにミーシャは言う。
「そこまで厳しくやってないから、いいのに」
「まあ、食べ比べも含めて選択肢を増やしただけだよ。それに脂とクリームばっかりじゃ胸焼けするかもしれないからさ」
 ニトロの科白せりふにクレイグとキャシーが笑った。それをミーシャは不思議そうに見つめていたが、その目をニトロに戻すと、はにかみにも似た微笑を浮かべた。
「ありがと」
「どういたしまして」
 ニトロはそう言って、話を切り上げることを示すようにホイップした生クリームとバターでコク深いタルトをつまみ上げ、齧った。ミーシャも齧った。
「――おいしい!」
「そりゃ良かった」
 笑うニトロへミーシャは言う。
「あの汚い……つったらあれだけど」
「いや、確かに見た目は悪かった」
「それなのにあの夏みかんでこんなのができるんだな、魔法みたいだ」
「そんな大袈裟なもんじゃないよ」
「だけど、おいしい」
「ありがとう」
 一つ目を平らげ、早速二つ目も頬張る彼女は幸せそうだ。その隣でクオリアも頬を緩めている。逆の隣ではキャシーが微笑している。
「魔法といえば、カルテジアさんも魔法使いみたい」
 品良くコップに手を添えてキャシーが言うと、クオリアは半分齧ったタルトをゆっくりと飲み込んで、
「それも大袈裟よ」
「いいえ、ほんの少し見ただけだったけれど、凄かった。だってペンを動かす前と後で絵が全く変わってしまって」
「そうなんだよ!」
 思わずといったようにミーシャが話に加わる。いや、我慢できずにというように彼女は拳を握る。
「あたし、もうずっと感動しっぱなしでさ! 凄いんだ、なんていうか、なんてのかな、もう描くってのか、生み出してるってのか、真っ白な画面にさ、さっきまでなかったダレイの体がどんどん出てくんだよ! あれはホント魔法だよ、キャシーの言う通りだ」
「本当に、大袈裟」
 タルトの残りを頬張り――恥ずかしいのか、嬉しいのか、皆の視線から逃れるように顔をそむけたクオリアの目がばちりとニトロの視線にぶつかった。彼女は一瞬うろたえたが、すぐに話題を見つけて彼に言う。
「美味しいわ」
 彼女が食べていたのはホイップクリームの乗った、バター入りのものである。
「そっちのはキャシーがメインで作ったんだ」
「そうなの?――美味しいわ」
 クオリアがキャシーに向いて言い直すと、キャシーは嬉しそうに笑った。彼女は真っ直ぐクオリアを見つめている。クオリアも笑みを浮かべるとすぐに目を逃してタルトを眺め、それからまたニトロへ目を向けた。
「――作ったのは、これで全部?」
 彼女の仕草にはまだ慣れぬ相手と目を合わせたことへの緊張と、そこからの不安があった。それにキャシーも気づいているようだが、といって不快感を示してはいない。ニトロはうなずいた。
「タルトはね。コンポートの残りは数が少なかったから向こうで食べた。カード……タルトに入ってるやつの残りは、ハラキリの」
「ハラキリの?」
 とはミーシャである。ニトロはそちらへ顔を向け、
「今回のスポンサーだから」
「どゆこと?」
「夏みかん以外の材料は、全部ハラキリ持ち」
「あれ、そうだったんだ」
「ええ、依頼料みたいなものです」
 紅茶を飲みながらハラキリは言う。ニトロは苦笑し、
「つか、そう言う話になると俺達はただ働きなんだがな?」
「お金に替えられないものって、あるじゃないですか」
「そいつはお前が言っちゃあ横暴だ」
「そうだ、横暴だ」
 ミーシャがニトロの味方をする。ハラキリは肩をすくめてタルトを齧る。つられたようにミーシャはバター入り・クリームなしの夏みかんカード・タルトを頬張って、途端にその頬を緩めるとキャシーを見た。その視線が語るところを察したキャシーはとても誇らしげに目元を緩める。
 その二人の少女を見比べていたフルニエが、ふと思いついたようにクオリアへ言った。
「そういやミーシャはモデルにしなかったんだな」
「す、するわけないだろ!?」
 自分のことを思わぬ形で持ち出されてミーシャが顔を赤くする。しかし言われてみればそれは不思議なことに思えた。キャシーとクレイグにも疑問が浮かぶ。ニトロもスイッチの入ったクオリアならそれを希望する可能性は十分あり得るように思う。何しろミーシャも中距離走者として励んできたのだ。そう思えばこそ、ミーシャ自身も少し不安に思い始めたらしい。
 注目される中、クオリアはコップに当てていた唇を離し、言った。
「必要ないわ」
 その断言にミーシャが安堵の表情を浮かべる。一方でフルニエは追求した。
「何で女はいらないんだよ」
「その大祭には女は参加できなかった。だから、残念」
 微笑むクオリアに、フルニエは肩をすくめた。
「マジで残念」
「フルニエ?」
 ミーシャに睨まれたフルニエは、しかし机を挟んでいるから平然としている。
「でも、何でそんな昔のを?」
 と、ニトロが訊ねると、クオリアはもう一つタルトを手に取って、
「たまたま目についたから、読んでみようかなって」
「たまたま目につくようなものかな」
「ちょっと調べごとをしていたら、その関連でね」
 そこでさらにフルニエが訊ねる。
「何を調べてたんだよ」
 それは他の皆も興味のあることだった。この新しい友人は、一体何に興味を引かれていたのだろう?
「陸上競技よ」
 それを聞いた瞬間、彼女が興味を持った理由を誰もが理解した。その上でニトロは深く納得もした。
 ミーシャが我知らず顔を緩めている。
 だが、彼女の嬉しさも、まだ完全な理解の下にはないことをニトロは知っていた。クオリアの調べごとは、つまり予習である。とはいえその大会へ応援に行くことは本人に隠すよう頼まれているから、彼はハラキリと同じく何食わぬ顔で沈黙していた。
 そのクオリアは妙に黙ってしまった皆を見回し、
「次は料理のことでも調べようかしら」
 ニトロに目を止めて、悪戯っぽく言った。
「それとも庭師か、哲学者か――働き者の物語もいいかもね」
 そこで彼女の大きな眼にられたフルニエは、ふいと目をそらした。目をそらされたクオリアは微かに不安を浮かべたものの、描きかけた線を半端に止めては失敗するとばかりにすぐに続ける。
「恋のお話は一つ前に読んじゃったから、また今度」
 クレイグとキャシーは一瞬どのように応じたものか迷ったようだが、やおら顔をほころばせた。そしてキャシーが訊ねる。
「ねえ、カルテジアさんが読んだ中で素敵だと思ったラブストーリーはある?」
「そうね……」
 刹那、クオリアの『熱烈文芸講義』を受けたことのあるニトロとミーシャが警戒心を抱く。それを敏感に察したクオリアは目を細め、
「最近のだったら『マリーの部屋』かな。古典だったらやっぱり『神の国』の“オウアとナイーウータ”のエピソードがいいわね」
「オウアとナイーウータ、って、オペラの『ホウルとナユタ』?」
「ええ、読みが変わってるけど、同じもの――いえ、同じと言ってもそのエピソードだけ独立化させたもので、本質もテーマも変わってるから正確には翻案ほんあんね。でもそっちの方が昔から大人気なのも分かるわ。やっぱり素敵だもの」
「今、ハイパーリアルオペラが公演中よね」
あのヴァステロ・ヴルトン演出の?」
「そう」
「何だかんだで大評判みたいね」
「私、一度観てみたいのよ」
 そこでクレイグも話に加わり、ここぞとフルニエも『上流ハイソな趣味』を腐しにかかる。
 やがて会話は題目を変えながら、クレイグとキャシーを中心に輪を描くように続いていった。
 それぞれの話題にミーシャが明るく交わる。
 隙あらばフルニエは場をかき混ぜようとする。
 クオリアは様子を伺いながら聞かれたことに応え、ダレイが要所要所で交流を補綴ほていする。その中で、ニトロは流れに乗りつつ時々ぼけたセリフにツッコミを入れることで場を温めて、ハラキリは輪の縁側でマイペースに紅茶をすする。
 今朝、ハラキリからニトロへの思わぬ提案から始まったお菓子作りは宵の口に和やかなティータイムをもたらして、それはといを伝う雨水のようにあっという間に過ぎていった。
 タルトは売り切れ、冷めた紅茶も残りわずか。
 ようやく雨脚も衰え始め、そろそろ帰る仕度を始めようかという頃に、震えた携帯電話を一瞥してハラキリが立ち上がった。
「ちょっと用ができましたので、先に帰ります」
 会話はラストスパートとばかりに盛り上がっていた。ハラキリ・ジジが突然いなくなることはよくあることなので誰も違和を覚えなかったし、ニトロも疑問を抱かなかった。ただ一瞬、親友が何やら訴えかけるような目をしたことは気になったが、全員集まっての楽しい時間に浸っていた彼が、そのひっかかりを真剣に吟味することはついになかった。
 それからしばらくして、閉門時間も迫ってきた、茶会も切りのいいところで仕舞いとなる。
 片付けはすぐに終わった。
 皆満足そうで、特にキャシーはいつにも増して楽しそうだった。
 彼女とクレイグがにこやかに言葉を交わし、その傍にフルニエとダレイがいて、ミーシャも充実した顔で笑っている。
 それを、ニトロは少し離れたところから眺めていた。
 そして彼は、ふと思う。
 ハラキリは何の用ができたのだろう? 近頃彼は忙しそうだ。昨日、一昨日と学校も休んだ。ミーシャ達には単にサボり癖が出たと思われているし、彼もそう思わせているが、事実はそうでない。
 また誰かの頼みを聞いているのだろうか。
 もしやまた危険なことに関わっているのだろうか。
 それとも神技の民ドワーフか……最悪、王女の依頼を受けたというのであればこちらも気をつけねばならない。そうだ、彼の最後に見せたあの目は『警告』ではなかったろうか?
 そしてまた思う。
 そういえば、クオリアは?
 ――まるで遠景の一点を見つめるように眺めていた友人達の囲いから視野を広げると、彼女はすぐ傍にやってきていた。
 彼女もまた充実しているようだ。
 その口元がほころぶ。
「ニトロ」
「何?」
 その瞳が燃え上がる!
「脱いで!」
「何ぃ!?」

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