中凶:蛇足編

(『2016 中凶』の後)

 尻が痛かった。
 正確には尾てい骨が痛かった。
 詳細に言えば臀部の肉も痛かった。
 今は、痛み止めが効いているから痛くない。
 しかし、いくら痛みが止められていても患部に触れる行為は精神的に恐れが立つので可能な限り避けたい。
 椅子に座ることなく、テーブルに片手をついて、ニトロはホットミルクを飲んでいた。使用したのもカルシウム強化牛乳である。骨にヒビは入っていないと診断されているが、そういう気分である。
 難しい顔をしてカップを傾ける彼に、芍薬が言った。
「バカハ予定通リ、パーティーニ出テルヨ」
 あのティディアの奇襲、それに対するこちらの脊髄反射の結果、今晩の『漫才』の練習くんれんは中止となった。まあ、それは当然であるとして、確かにあのバカ姫は一昨日から今夜のパーティーのことを何度も口にしていた。「一緒に行きましょうよぅ」とかいうふざけた提案はもちろん却下しておいたのだが、そんなに楽しみにしていたのだろうか?
「あいつも結構なダメージだったはずだけどな……」
 無意識に繰り出した『スタナー』――プロレス技は総じて素人が行っては危険である。真似をしてはいけない。プロレスラー達も長年口を酸っぱくして言っている。ニトロもそう思う。それなのにティディアには(時にハラキリやヴィタにも)遠慮なく執行してしまえるのは何故だろう。自分の悪い癖、ツッコミの勢い……それ以上の理由はなさそうだ。が、他に理由を探すとすれば、ひょっとしたらこいつ(ら)には食らわせても色んな意味で大丈夫という特別な信頼を抱いているからだろうか――と、そこまで考えた瞬間、ニトロはゾッとして頭を振った。
「ドウシタンダイ?」
「いや」
 カップを置いて、ニトロは言う。
「今年は生中継されてるんだっけ?」
「御意」
 それはこの時期に毎年行われるパーティーである。大昔のこと、農民の収穫祭を羨んだ王族に連なる公爵様が貴族社会でも……と始めた由緒あるバカ騒ぎだ。正装・仮装・奇装も良し、概ね無礼講で恥を忘れよ。飲めや歌え、夜を通して語れや踊れ。以前は貴族達が贔屓の芸達者を引き連れ自慢し合っていたそうだが、現在は今年ブレイクした芸能人を中心に呼び集めることが恒例となっている。そのため毎年多数のメディアも集合していた。そういった変化に伴い当初は貴族だけの宴であったものが、今では王都の上流社会に顔が利けば誰でも入り込めるようになり、よってその気軽さから王家の人間が参加することは稀であるが、今年は第一王位継承者の参加が早いうちから噂されていた。
「映してくれる?」
「観ルノカイ?」
 少し驚いたように言いながら、芍薬は壁掛けのテレビモニターに灯を入れる。
 宴の変遷に伴い会場も大貴族の大邸宅から『ドロシーズサークル』にあるヘキサ・ドームが恒例となり――画面にシーンが切り出される――そのグラウンドは、まさに華々しく飾り立てられていた。がくの音が場を賑やかし、松明たいまつを模した照明の下に豪勢な酒盃と酒肴の並ぶ中、ニトロは観る、画面に映る酒気と陽気に浮かれる人々の間をゆっくりと進んでいく美々しい姫君の姿を。
 女性レポーターが甲高い声で何やらまくし立てていた。が、興奮しすぎているせいで何を言っているのか解らない。ただ、レースがどうとか、宇宙でも何だとか、そういったことを繰り返し述べていることは分かった。
 話題のレースに豊かに飾られた純白のドレスを纏う王女は歓声に応えて手を振っている。その手も純白の手袋に包まれていて、ドレスの袖は手首まで伸び、手袋との間に隙間はない。スカートの裾も足首までかかり、パンプスも白、彼女は全くの白ずくめだ。肩に流れる黒紫の髪がいつにも増して色濃く見える。
「――ええっと?」
 役に立たないレポーターの音声をオフにして、ざわめく会場の音をBGMに芍薬が言う。
「バカガ登場シテ、マズ、ドレスガオ披露目サレタ」
「うん」
「デ、ソノ『レース』ナンダケド――」
 そのドレスもレースも実際はフライングしてお披露目されていたわけではあるが……その現場では明らかにされなかった詳細に、ニトロは驚いた。
 巻きつくようにドレスを飾る、キラキラ輝くあのレース。それに用いられている繊維にはなんとブリリアントカットされた超極小のダイヤモンドが練り込まれているという。糸の幅に収まるサイズの宝石を加工するナノテクノロジーも驚異的だが、しかもダイヤモンド粒はいくつあるのか。さらに粒と粒をしっかり輝くよう繊維に練り込む技術、加えて耐久性も機能性も無視しているであろう繊維を用いて素晴らしいレースを編み上げる技術ときたら……。
 そう、それは、あくまで技術力を誇るためだけのオートクチュール。
 無数の銀河に一つの逸品――しかし現実的には価値のない一品。値段は付けられまい。
 ニトロは、ため息をついた。
「いや、本当、バカだあいつは」
「御意、大バカダヨ」
「本ッ当に頭がおかしい」
 そのドレスを着て無茶な“サプライズ”を仕掛けてきて、挙句『スタナー』を食らって悶えていたクレイジー・プリンセス。
 ニトロは今、心底思う。
 スタナーで良かったと。
 なにしろ他の技――『フライングメイヤー』なり『ブロックバスター』なり『ネックブリーカー・シフト・リバースDDT』なり、そういった技で地面に叩きつけられたらその貴重なレースがボロボロになることだってあり得たではないか。もちろん俺は弁償しないぞ、でも冷や汗がっ。
 震えた背筋を温めようとホットミルクを口にしたニトロは、眉根を寄せた。
「ゆっくり戻して」
 芍薬が映像を遡らせる。
「ストップ」
 スポットライトを浴びてゆっくり後ろ向きに歩いていた王女が止まる。微笑みを絶やさぬ顔は、一時停止をかけても完璧だった。
方眼グリッドを」
 その映像に被せて半透明の白線が格子を描く。
「4の7を拡大してくれる?」
 上から4、左から7の升目が拡大されると、濃緑のドレスを着た女性がクローズアップされた。ドレス……といっても、それはどうも苔したした衣を着ているような感じである。
 ニトロはその緑色の瞳の女性に見覚えがあった。

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