中吉:蛇足編

(おみくじ2016『中吉』の後)

「よし、間に合った。さすが韋駄天」
「予定ヨリ33秒短縮シタゼ」
 区民競技場から直線にして約20km離れたスタジオ――途中に市街地ゆえの飛行禁止区域、交通量の多い箇所や速度制限の厳しい空路がなければもっと早く着けただろうが、その条件下でも遅延なく、しかも到着を早めてくれたのは見事である。
「助かったよ、ありがとう」
「オウヨ。仕事、気合入レテケヨ」
「ああ、頑張るよ」
 車輪が駐車場の飛行車発着スペースに接地するや否やニトロは韋駄天スカイカーから降り、走った。
 芍薬はスケジュールに変更はないと言っていた。準備は順調に進み、準備は順調に進み、共演者達も遅れていない。あと480秒で予定通り収録は始まるだろう。撮影用のメイク――といっても簡単なものだが――は車中で終えた。着替えが必要だが、早着替えも必要から覚えた、それも余裕をもって済ませられる。十分間に合う。
 駐車場から建物内に入る際、ニトロは背後に足音を聞きながら守衛に声をかけた。
「お疲れ様です、彼がハラキリ・ジジです」
 既に芍薬がセキュリティに手を回していたので、大柄な守衛は外出先から戻ってきたニトロ・ポルカトに愛想のいい顔と、ちらりと新しい来訪者に一瞥を向けた。その前を、少しだけ足を遅め、二人は会釈をしながら通り過ぎる。ゲートをくぐっても警報音が鳴らなかったところで、また足を速める。
 友を先導し、ニトロは迷うことなくスタジオ内を進んだ。
 精勤に人々の行き交う廊下から、厳戒態勢の警備員が塞ぐ無人の廊下に入る。彼らとすれ違う時にも守衛にかけたものと同様の言葉をかけ、そうして彼は『ティディア&ニトロ』の休憩場所にあてがわれている大部屋に駆け込んでいった。
「あら、おかえりなさい」
 ノックもせずドアを開け、無作法にも許可無く入ってきた少年を無造作な声が出迎える。
 その瞬間、ニトロは頬を引きつらせた。
「ぉ」
 急に足を止めたニトロの背後で、ハラキリの小さな声と慌てて立ち止まった音がする。
「どうだった? 応援はできたかしら」
 部屋に入ったところで突っ立つニトロにそう問いかけるのは、床に敷いたマットの上でストレッチをする女であった。座り込んで足を開き、ぐ、ぐ、と上体を横に倒していた彼女は一度背筋せすじを伸ばすと己を半眼で見つめる――いや、睨みつけてくる少年の視線を誘うようにさらに股を開いた。もはや180度開脚である。切れ込む布地の左右に陰影を生む鼠蹊部そけいぶの、くぼみが危うい。
「……ああ、お陰で、できたよ」
「良かった」
 にこりと笑って、ティディアは上半身をそのまま前に倒し、ぺたりと体の前面をマットにつける。
 背面はほぼ裸だった。
 ビキニタイプのウェア。そのトップスの背部は、無い。胸を覆う生地はホルターネックのように首にかかる部分以外、側面は脇に至ったところで途切れ、しだいにゴムを押し伸ばしたかのように薄くなりながら肌に貼り付いている。隠すもののなくあらわとなった肩甲骨と背骨の流れるようなラインは皮膚に秘された肉のなまめかしさを浮き上がらせて、わずかな身じろぎすら克明に映じて背筋のうごめく様はどこか卑猥ですらある。一方、ボトムスといえば魅惑的な弧を描くヒップが右も左も下半分が丸見えであった。
 ティディアは胸と腹とをマットに密着させたその状態から背を弓なりにくっと反らせると上目遣いにニトロを見上げた。不思議な衣に抑えられた胸は、そのためにかえって形が強調されている。
「少しはお友達とお話できた?」
「そんな時間まではなかった」
「そう。もう少し早く終えられていたらよかったのにね」
「まあ……仕方ないさ」
「結果は?」
「4着」
「残念」
「ああ」
 微かにうなずくニトロは未だ半眼、頬は引きつったまま、部屋に入るなりお迎えしてくれた彼女を見下ろしたままで、ひたすらその場に突っ立っていた。隙間を縫ってそろりと部屋に入ったハラキリは状況を確認するや壁に寄りかかって傍観を決め込んでいる。その中で、彼女は誘いかけるような眼差しをニトロに送り続けている。
 ニトロは、やおら犬歯を剥くようにして、誘いに乗った。
「そんな衣装は聞いてないな」
 その言にティディアはパッと顔を輝かせて上体を起こした。足を軽く閉じ、両膝を立ててM字を描くと、己を見下ろす彼の眼差しに若干興奮しながら言う。
「私も聞いてなかった」
 目を逸らし、ほのかに恥じらい彼女は続ける。
「ニトロが、まさか陸上女子のユニフォーム好きだったなんて!」
「ぅおおおおい!」
 解り切っていたといえば解り切っていたことではあるが、実際にのたまいやがったからには抗議せずにはいられない。
「何でいきなりそんな話になるんだ!」
 例えトップアスリートが着ていたとしても物議を醸すであろう露出度の高いウェア。無論あの会場にはこんな格好をした者は一人もいなかった。ティディアは恥じらいながらもM字に立てていた膝をぺたんとマットに倒し、いわゆる“女の子座り”となってニトロを見上げ、
「だって、あんなに期待一杯で出て行くなんて他に理由が考えられないじゃない」
「つい今しがたお前は『応援はできたか』って聞いたよな!?」
 ティディアはさも意外そうに小首を傾げる。
「もちろん下心があるからでしょう?」
「下衆の勘繰り突き抜けてんなこのクソ痴女!」
 すると彼女は目を怒らせた。
「なんで痴女なのよ!」
 呆れを通り越してニトロは怒鳴る。
「ンな格好して痴女でなけりゃなんだ!」
「この格好!? 立派に全国放送できた格好なのよ!? それならやっぱり、ほら! ニトロはそんな目で見ているってことじゃない!」
「逆にそんな目的で着てるから痴女だッつってんだ!」
「違う!」
「何が違う!」
「いい? ニトロ」
 急に口調を落ち着けて、ティディアはニトロを見つめた。その年下の少年を教え諭すような眼差しにニトロは意表を突かれて勢いを失う。ティディアはゆっくりと立ち上がり、色っぽい腹部も誇らしげに腰に手をあて、
「女がどんな服を着たところで男はそこにエロを発見するの。清楚だろうが淫らだろうが、着こんでいようが脱ぎ捨てていようが関係ない。男の根っこにとっちゃ中身さえあれば実際パッケージがどんな形状だろうと性的興奮を誘うに足る。つまり肉さえあれば味付けは自由自在! 各自のお好みによってエロスを際立たせるエロ概念は、そう! 無限に伝統と格式の様式エロを創り出していく! どんなに封じ込めようとし! いくら目を背けようとも! 性のある限りはそれこそが真実! よって私の目的がどうであろうがこれを着ることによってすなわち痴女になることはない! だから痴女と思うニトロの方がエッチなの!
 オッケー!?」
「オッケー言うと思うてか! 黙って聞いてりゃンなもん詭弁だろうがこの阿呆!」
「どこが詭弁なのよ! 一理あるわよ!?」
「一理あったところで結局私利しりにこじつけてるじゃねぇか! それはそれ、これはこれ、混ぜて使えば暴論だ!」
「まあ、それはそれとして中身が無くても興奮するのもいますがね」
「ハラキリ、黙れ!」
「フェチ突き抜けちゃった超人とかね」
「黙らんかティディア!」
「いけませんティディア様」
「ヴィタさん!?」
 思わぬところから味方が現れた。ニトロが目を丸くしていると、スーツ姿の執事は力強くうなずいた。
「ここは女も同性セイム同体性ハーマも劣情を掻き立てられるとしなくては全性平等に差し支えます」
「ッそういう問題じゃなくてダネ!」
「ですが実際」
「それはそうだとしても、違うの!」
 思わず地団太踏んでニトロが叫ぶと、ハッと何かに気づいたようにティディアが腕を広げる。そうやってセックスアピール抜群の美乳を誇示しながら、
「まさかニトロ、前世代の全身ぴっちりボディスーツタイプがお好みだった? 逆に全裸だろっていうような!」
 ニトロは、頭を抱えた。
「あーーー! もーーーッ!! 台無しだ、色々台無しだこのド阿呆!」
 さらに地団太踏んで叫ぶニトロにティディアは手を組んでにっこり笑う。
「良かった! そうじゃなかったのね? それならいいわ、ね、ニトロ」
 と、ここで腕を振って走るマネをして、彼女は言う。
「一緒に汗を流しましょう?」
「お前の言う汗は絶対いやらしい意味だろう!」
「貴方がそう思うなら!」
「またその論法か!」
「相手に言責げんせきすりつけるのは口争いの基本ですよね」
「だから黙れハラキリ!」
「為政者から子どもまで」
「じゃあ子どもだ! 悪ガキだこんなバカ姫は!」
「悪ガキだからニトロお兄ちゃんとカケッコしたいなー」
「するか! てか誰がお兄ちゃんか!」
「なら私の旦那様!」
「そこまでぶっ飛びゃ論にも詭弁にもなってねえ!」
「そう! とぶの!」
「――はあ?」
「跳ぶのよ、ニトロ!」
 そう言って、ティディアは目を疑う速度でバックステップを踏んだ。ニトロとの間に可能な限り距離を作ったところで停止し、気をつけをし、さっと右手を挙げる。
 ニトロは半笑いでティディアを見つめた。
「これから私は貴方に向けて跳んでみせるわ!
 これぞ愛の三段跳び!
 さあ、私を全力で受け止めて!」
 完全にこの悪ふざけに興奮しきっているクレイジー・プリンセスにこれ以上何を言っても無駄だ。キラキラと瞳を輝かせ、元気一杯、ぐっと身構える彼女はこちらの応答を待たずに動き出す。
「今は貴方との間にどんな距離があろうとも!
 いざ縮めてみせるわこの愛で!
 いくわよニトロ!
 せーの!
 ホップ!
 ステップ!
「ジャンピングニー!!「ャぶン!」
 激突音とくぐもった悲鳴、そして落下音。
 ――おそらく、ティディアが本気でトレーニングを積んだらこの星の三段跳びの女王にもなってしまうだろう。
 ほとんど助走しなかったにもかかわらず、そんなことをハラキリに思わせるほど彼女の跳躍は見事であった。そしてそれを真正面から撃墜したニトロ・ザ・ツッコミ怒りのジャンピング・ニーパッドも、それはそれで実に見事なものであった。
 ハラキリは内心苦笑する。
 本来なら膝をカウンターでまともに顎に食らったお姫様がただで済むはずはない。しかし柔軟性の賜物か、それとも天性のセンスの発露と言おうか、彼女はその威力を最小限にまで殺してみせていた。
 ……もっとも。
 お姫様はちょうどストレッチマットの上に落ちた際に頭を打ち、仁王立ちのニトロの足下でうねうねと悶えているが。
「恐ろしいですねえ」
 ハラキリの言葉をどう取ったのか、鬼の形相でニトロが振り返る。
「自業自得だろう!?」
「否定はしません」
「ところでヴィタさん!」
 鬼の形相を振り向けられて、流石に真面目な顔つきでヴィタがうなずく。
 ニトロはどこか、口惜しそうに言った。
「スタッフと共演者の皆さんに、遅れますって伝えといて!」



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