(『ハラキリ・ジジの8分の1日』の前)



 ニトロは言った。
「おはよう。ところで毎日普通に暮らそうとするとどうしてもアイツの顔を見るか声を聞くか名前を聞くかを防げないんだけど、一体どうしたらいいだろうか」
 ハラキリは言った。
「おはようございます。挨拶もそこそこにいきなりな質問に驚きを禁じ得ないわけですが、それより驚きなのはその顔色です。今日になってまた酷い。ちゃんと寝ていますか?」
「だって寝ても覚めてもアイツの存在が俺を侵食しようとしてくるんだぞ? この一週間は特に非道い。顔色だって悪くなるさ」
「はあ、つまりここ一週間近くはろくに寝られてもいないと」
「知ってるだろ? 今更言うようなことかよ」
「今更だから言うのです。駄目ですよ、ニトロ君。人生を豊かにしようとするなら人生において多くの時間を占める睡眠の質を高めることが重要です」
「しれっと言ってくれるがな、お前は知ってるくれてるはずだろ、そのためにこそアイツの存在から逃れたいんだよ。テレビもネットもあらゆるメディアを避けようとしても町を歩けばどうしたってアイツの影がちらつく。看板、街頭モニター、誰かの会話、見ようともせず聞こうともしなくてもどうしたって目にも耳にも入ってくる。うっかり全身模造シミュラに出くわした時にゃあ声を抑えるのも難しいってもんだろう? そりゃ家にこもってベッドに潜り込んで目も耳も潰して起きながら眠っちまえばアイツの顔も声も名前にも触れずにけるかもしれない。ンなわけあるか!……ああ、いや、それはそれでいいんだ、仮定の話だからな、けどハラキリ、それは違う、違うんだ、そんな風に暮らしてみろ、それはアイツのためにそういう生活を強いられた結果じゃないか、アイツのために、アイツのために! ア・イ・ツのためにぃ! ぃぃぃい忌まわしひ!!! やっぱりそんな暮らしはダメだ、そんな生活は死だ、アイツの全てを避けながら結局アイツに全てを侵食され尽くした心休まることのない墓場だ! そんなことは許されない!! しかしそれを避けてなおアイツを逃れるには一体どんな方法があるのか?――あるのか!? 夢に出てきたよ、アイツは笑っていたよ。笑い声がね、今も聞こえるんだよ。なあ、ハラキリ、きっと俺は狂うぞ、いや、狂ってなんかやるもんか、でもちょっと挫けちゃうかもしれない、否、挫けてたまるか! よし、生きよう!」
 ハラキリはうなずいた。
「ええ、生きましょう。頑張れニトロ君」
「これ以上何を頑張れと!?」
「これ以上頑張るなら頑張ることを。これ以上頑張れないなら、頑張らないことを」
「え、馬鹿にしてる?」
「でなければ息をすることを頑張ってみたらいかがでしょう」
「息をどうやって頑張るんだよ」
「限界まで吸い込んで、限界まで吐く」
「深呼吸かよ」
「深呼吸してみます?」
「……。
 何か、するまでもなく気が抜けた」
「そうですか。では気の抜けたついでに学校サボりますか。どうせ授業もまともに受けられないでしょう」
「いや、行くよ」
「まだ気の抜き方が足りませんかねえ」
「それとこれとは話が別だ」
「別ですか」
「ああ、別だよ」
「そうですか」
「じゃあ行こう」
「ええ、行くとしましょう」
「ところで相談なんだけど」
「先の件については解決不能ですのでアデムメデスに住んでいる以上我慢してください」
「それについては諦めないことを頑張るからひとまず置いとくとしてさ、新しいオリジナルA.I.を育てようと思うんだ」
「メルトン君じゃ駄目なので?」
「さすがにな……任せられない」
 その声には傷がある。ハラキリはニトロの心中を慮り、話頭を転じた。
「汎用A.I.は、まあ、無理ですか」
 するとニトロは不思議と激しい反応を示した。肩を怒らせ、顔を蝋人形と化し、
「無理も何も可哀想なくらいに無理さ、無理どころか無駄だ無駄だったんだ一昨日もその前も今朝なんか目覚めて一番に見たものは何だと思う、隣で眠るあのバカだしかも全裸だまたも再び今日も一体いつ入ってきたんだ、きっと明け方だかっこそうであって下さいかっことじるセキュリティはもちろん完全沈黙だ俺は何で起きなかったんだろうなさっき言ったろ俺は最近良く眠れないここ数日は自分の寝返りする音で起きちまってたほどだけどどうやら俺は熟睡していたらしいやいや熟睡ってのもおかしいこれは寝てたんじゃない昏倒してたんだ絶対睡眠薬でも盛られたんだ睡眠ガスでも撒かれたんだどうやってかは知らない知りたくもないけど汎用A.I.のログにも残ってねぇ鮮やかな手際だ前にも部屋の中にあいつがいた時には叫んだもんだがベッドの上で一糸纏わぬ痴女が添い寝していると理解した時にゃあマジで数秒心音が消えたぞ段々目の前が暗くなっていくんだ意識が遠くなっているんだって気づいて慌てて心臓を叩き起こしたよこうやってドーン! って自分の心臓殴りつけてついでに昨夜の続きなんつって絡みついてきたクソ犯罪女をドーン! って叩き出して事なきを得たけどもう毎日がこんなんだ知ってるだろ知ってくれてるだろ毎日たまらないんだそこで我がくにのお美しい王女様であらせられるらしい最低女の奇襲強襲を弾き返せるだけのA.I.を育てるにはどうすればいいかお願いですから教えて下さい」
 恐ろしく単調ながらどこで息継ぎしているのか判らぬ勢いまさに怒涛、言葉の途中では実際にドーンと音を立てて胸を叩いて見せたニトロは最後に深々と頭を下げた。異様な迫力に思わず圧倒されていたハラキリは、思い出したように苦笑する。
「教える、ですか」
「だって普通に育ててたら色々間に合わないだろ、だから何か良い手はないか? 特別なトレーニング環境とかあるんだったら頼むから教えてくれ!」
 ニトロの目は血走り、胸の前に出された手は今にもハラキリへ縋りつかんばかりである。そろそろ口角泡を吹きそうな唇はわなわなと震えている。それは、そう、まさしく命懸けの懇願であった。
「手立てがないわけではありませんが……」
 ハラキリの言に、ニトロの瞳に希望の色が差す。しかしハラキリはその手立てを講じたところで哀れな犠牲者の希望は叶えられないと確信していた。例え神技の民ドワーフの協力を仰いだとしても、そのオリジナルA.I.が必要最低限まで成長する前にこの少年の精神は儚く散ってしまうことだろう。
 彼は固唾を呑んで次の言葉を待っている。
 それを横目にしばし思いはかったハラキリは、期待に胸を膨らませている友人へ言った。
「数日待ってください」
「待てるもんか!」
 それは抗議ではなく、悲鳴だった。
 ハラキリは笑って言った。
「いいえ、待ってください」
 笑顔でありながら、ハラキリの言葉には異様な力があった。先ほどは睡眠の質など持ち出して話を煙に巻く素振りも見せたのに、今は驚くほど真摯な様子さえ伺える。
 ニトロは、黙して彼を見つめた。
 すると彼は飄々とした調子を取り戻し、続けた。
「君に譲ることのできるA.I.があるかもしれません。撫子とも相談しなければならないので確約はできませんが――しかし、もし叶えば」
 ハラキリは、幽かに笑う。
「それはきっと、君の大きな助けとなりましょう」



後吉



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