「オカエリナサイマセ」
引き戸を開けるとすぐ、出迎えの小さなアンドロイドが頭を垂れた。
キモノという遠い異星の小さな地域の民族衣装に身を包んだイチマツ人形。すとんと真っ直ぐ落ちる長い黒髪の、毛先を同じ長さで切り揃えられている髪型のせいか、姿勢よく控える様は頭から足先まで歪みのない芯が一本すうっと通っているようだ。
「今日ハイカガデシタカ?」
マスターの――正確には、ずっとマスターの一人であったが、先日手に入れた莫大な報酬で自分と『
「今日も大変だった。これはしばらく学校に行かなくて済む方法を考えたほうが良さそうだ」
靴を脱いでゾウリに履き替えながら言うハラキリは心底面倒そうで、その様子に彼のA.I.は小さく笑った。
「ニトロ君が律儀ににわかの相手をするものだから、キリがない。拙者だけ逃げようとしたら一人にするなって追いかけてくるし」
「逃ゲ切レナカッタノデスカ?」
「彼は時々驚きの身体能力を発揮する。あれはちょっと、脅威だ」
ハラキリは、普段の友人からは考えられない速度で追いかけてくる、これまた普段の彼からは想像もつかない鬼面を思い出して苦く笑った。
鞄を受け取ったイチマツ人形が二階に上がっていく。
ハラキリは踏み込む度にキィキィと鳴くフローリングの廊下を抜け、居間に入った。居間の中央には四角く床が掘り抜かれた穴があり、その縁に立つ簡素な
ホリゴタツ、というテーブルだ。
冬の寒い時期には
天板にも面白い構造があり、中央に砂地のコンロが備えられている。テーブル上で料理をしながら同時に食事ができるようにするためのシステムで、代表的な料理は確か、ナベと言ったか。同様の料理はこちらにもあるが、それをしながらぬくぬくとする冬の夜は例えようもない極楽だ。
そのコンロでは、今はことことと分厚い鉄のヤカンが白い息を吐いている。
ホリゴタツの下に足を滑らせてハラキリが座ると、鞄を運んでいったアンドロイドとは別のイチマツ人形がやってきた。テーブルの上にちょこんと正座をし、ヤカンから湯をキュウスに注いでグリーンティーを淹れる。
「ありがとう」
ユノミを受け取ったハラキリは、火傷をしないよう茶を啜った。イチマツ人形はほうっと息をつくハラキリの様子に満足すると、三つ指ついて頭を垂れて台所に去っていった。
居間に一人となったハラキリは、沈黙の中でずずと茶を飲んでぼうっとしていた。
茶を飲みながら脳に休息を与えるこの時間は、ハラキリの気に入りだった。
台所に去った人形と入れ替わりにやってきた、また別のイチマツが盆に運んできたクッキーをサクリと齧る。その動作は緩慢で、思考というものを全く感じさせない。ただ運ばれてきた茶菓子を脊髄反射で食べたという感で、実際、ハラキリの頭の中は空っぽだった。
舌にじわりと広がる甘さを甘いと感じるのは、生理的な現象。脳がそれを甘いと感じても、ハラキリ自身が甘いと思うことはない。
撫子が作った菓子を機械的に食べ茶を飲みながら、あるいは無我の境地に達するほどの空白に没頭する。
時間がある時は毎日欠かさず行っている、これは儀式と言ってもいい習慣だった。
そして、たっぷり五分。ちょうど三百秒。
時計で計らずとも身に染みついたタイミングで、はた――と、ハラキリは我に戻った。
「さて」
リフレッシュされた脳裡に今後の予定を呼び起こしながら、ハラキリは撫子に聞いた。
「何か連絡は?」
「奥方様ヨリ、メッセージガ」
ホリゴタツの上に
彼女の背後に映りこむ多くの人は誰もが正装し、母もきらびやかなキモノを着ていた。どうやらこれは彼女が参加しに行った、ラミラス星で開催されたアマチュア王棋のパーティー会場で映したものらしい。
[準優勝]
女性……母のランが手の中の小さなトロフィーを見せる。しかしこのしかめ面、実力を出し切って負けたのではなく何かミスをしたなとハラキリは察した。
「敗因は?」
「棋譜ヲ見ル限リ、驚キノ凡ミスデス」
撫子の応えに失笑する。とすれば母は内心、自分への失望と苛立ちに腹が据えかねているだろう。
母が一応の職としているのは軍事アナリストだが、だがそれは彼女の若き日の経験が延長しただけもので、生業として熱心に行っているものではない。
精を出しているのはむしろそこで鍛えた戦術的な思考を発揮できる王棋や、航空機の設計士だった彼女の父の影響を受けた機械いじり……といった趣味ばかりだ。
しかしその趣味、ただの趣味ではない。
前者はアマチュアながら大会に出場し賞金をもらってくる程だし、特に一番の趣味である機械いじりは、ある意味で母の本当の職――他人に言えない秘密の収入源につながっている。
[これ、送っておくから受け取っておいてね。ピッパの伝言ありがとう。帰りに一緒に食事していくから、帰星は予定より遅れる。よろしく]
短く用件だけ告げてメッセージはそこで終わった。少々淡白なところがある、実に母らしい内容だった。
だが今回に限っては、あまり長く話せば愚痴を言い出すかもしれないと、母はそう思ったのかもしれない。いつもならそんなミスをした時は、母は試合内容を息子と検討しながら散々悔いを吐き出すものだ。
しかしミスをした上、パーティー会場でそんな情けない姿を晒すのは御免だったのだろう。そう考えると、途端にメッセージの短さがそのまま母のプライドだと思えておかしくなる。ハラキリは口の端を引き上げて小さく笑った。
「そういうわけだから、撫子、受け取りよろしく」
「カシコマリマシタ」
「ピッパさんはこっちに?」
「ハイ。シカシ奥方様ヘノ取次ギ依頼デシタノデ、『
『御前』は母のオリジナルA.I.だ。撫子と同等の能力を持ち、父の『ガルム』と共に撫子の『親』でもある。
ハラキリは撫子の対応に問題なしと伝えた。
ピッパは、母の友人の『
昔、母は転勤を命じられた彼女の父に連れられアデムメデスを離れていたことがある。そして移り住んでいた星で――それは母と父が出会うきっかけにもなった――
その星は、母が住む以前は暗君の圧制に苦しむ国であったそうだ。しかし愚王を追放した民主政権によって見事な復興を遂げ、日に日に豊かになっていく暮らしを誰もが享受していた。
運が悪かった……としか言いようがないと、子どもの頃、寝床でお伽話代わりに語り聞かせてくれた母は決まって言っていた。
運が悪かった。追放された王の一派が、いずこかで
たかが数十人。数十人の反乱軍によって、希望と活気に溢れていたその星は、瞬く間に地獄に突き落とされた。
運が、悪かったのだ。
悪夢の中、元王を頂とした反乱軍は暴走した呪物によって自滅した。
しかし呪物だけは止まらず、応援要請を受け処分に乗り出した
そこに身内の不始末を片付けるよう依頼されてやってきたのがピッパだった。
現場で、アデムメデスから
人に言えない秘密の収入源は、ここにつながっている。つまり立場的には、
まあ、お陰で年に数度の商談だけで、通帳に刻まれている数字はどでかいわけだけども。
「ハラキリ様ニモ伝言ガ残サレテイマス」
「何?」
「『ニトロ・ポルカト君は面白いね。協力感謝費、色つけておくよ』ト」
「ふぅん。いくら寄越すって?」
「詳細ハマタ後日トノコトデシタ」
「分かった。ニトロ君、驚くだろうね」
「ハイ」
神技の民は協力者に対して
(……いや、待て?)
ハラキリは、彼がどういう反応を返してくるか予測する内、思い当たった『結論』に考えを改めた。
(『天使』が正規品じゃなかったなんて言ったら……)
『天使』が神技の民由来の物だったと、ニトロには言っていない。そして、それが『試験製品』だとも。
彼にその事実を知られれば、おそらく――否、絶対に怒りを買うだろう。もしかしたらえらい勢いでぶん殴られるかもしれない。
だとするとこれは、ちょっと不利益が勝つか。
(黙っておこう)
礼金を彼に渡すだけ渡して、具体的な説明は省いておこう。一応嘘は言わないように、『お礼』だとだけ告げて。
「あ、そうだ。芍薬を『ラッカ・ロッカ』に潜ませておいて」