(……)
 ニトロは、ふと不安に駆られた。
 もし二人がもう少し親しくなったら、クオリアの好奇心がミーシャをひどく傷つけることもあるかもしれない。口が走ればハラキリとも議論できるクオリアは――その上で交友能力に自ら不安を漏らしていた彼女は、ミーシャの触れられたくない場所に、勢いに駆られて容赦ない言葉を打ちつけてしまうことがあるかもしれない。
 クオリアが言う。
「優しいと自称する人は信用しないことにしているの」
 ミーシャがはっと目を上げる。
 目と目がぶつかって、クオリアは慌てて視線を外した。ミーシャが訝るようにクオリアを見つめる。その視線にクオリアは自分の態度を誤魔化そうとしてニトロのランチボックスを目で探り、またもキノコを取り上げる。
「これ、美味しいね」
「マジ?」
 クオリアはニトロに言ったのだが、ミーシャが応えた。そして彼女もキノコのソテーを食べてみて、実に満足気にうなずく――うなずいて、急にニトロへ自分の弁当を差し出した。
「好きなの取れよ、お返しだ」
 どうやら急に貰ってばかりで悪いと思ったらしい。
 ニトロは、ハラキリが大して関心のない素振りをしながら内心ひどく笑っているであろうことを右肩にひしひしと感じながら、ミーシャからヤングコーンを分けてもらった。ダレイは黙々とミルクを飲んでいる。
「ルンシェンのぬいぐるみ、今でも持ってるよ」
 前触れもなく、ミーシャが言った。
「もうぼろぼろで、グジウみたいな色になってるけど」
 彼女に目を向けられたクオリアが少し口ごもりながら応える。
「私は、ハッチーのキーホルダーを、持ってる。尻尾が折れちゃったけど」
 ミーシャはうなずいた。
「やっぱりルンシェンかハッチーだよな」
 クオリアもうなずいた。
「グジウの魅力は、子どもの時には解らなかったからね」
「そんじゃあ今はグジウ派?」
「ジェードさんは今もルンシェン?」
「実はハッチー派なんだ。周りがルンシェンばっかりだったから……」
 そう言って、ミーシャは眉を垂れた。クオリアは納得顔でうなずき、
「一番人気あったもの。それなのにあの展開だから」
「わたしも泣いたよ」
「そう」
 クオリアは目を細めた。その眼差しに今度はミーシャが照れたように目を背け、やはり探るようにしてニトロのプチイチゴのコンポートにその目を止めた。そうして照り輝くイチゴを見つめたまま、ぽつりと言う。
「ミーシャでいいよ」
「……うん。私のこともクオリアで、いいわ。ダレイ達だけなのも変だし」
 二人は交互に大粒の真っ赤な真珠のようなコンポートをフォークに刺した。生では酸味が強すぎる、しかし加熱すると素晴らしい風味となるプチイチゴが二人の頬を赤らめる。それを見るニトロは、笑顔を得意気に噛み殺す。
「俺はルンシェンだったな」
 ふいにダレイが言った。ミーシャとクオリアが彼を見る。彼は二人の視線を促すかのように、真っ直ぐ正面へ目を向けた。
「ハラキリは知ってるか?」
「ええ」
「誰だった?」
「強いて言うならハッチーですかね」
「グジウじゃないのか?」
 と、意外そうに言ったのはミーシャである。他の二人も同意見らしい。ハラキリは肩を軽くすくめ、
「グジウはひねてますから」
「ハラキリがそれを言うんだ」
 ちょっと呆気に取られてミーシャがそう言うと、彼女も含めて三人が笑った。
「……おお、知らないのは俺だけか」
 予想外の展開にニトロが思わずつぶやく。と、それに気づいてハラキリ以外の三人がまた意外そうに彼を見つめる。
「それは人生を損してるよ」
 ミーシャが言った。すると彼女が筆頭となってニトロへ『サマラの冒険』がいかに素晴らしいかの講義が始まった。幼児期の思い出も手伝ってそれはなかなか猛烈であり、しかもそれが児童文学であったからにはやがてクオリアがめらめらと燃え上がり、最後には、ニトロだけでなく全員が彼女のための聴衆となっていた。
 ――気がつけば、クオリアの眼前にはぽかんとした顔が二つあった。
 我に返ったクオリアは息を止め、言葉も止めた。
 ニトロとミーシャが、二人揃って目を丸くしている。
 その横でハラキリはおもしろそうにこの全景を眺めていた。振り返ればダレイは笑顔だ。我知らぬ間に立ち上がっていたクオリアは、身を縮めておずおずと席に座った。
 ニトロは熱中したクオリアの迫力を既に知っていたためひたすら感心するだけであったが、ミーシャは違った。彼女はひたすら圧倒されていた。陸上競技にはその細い体からは全く想像もつかない力を引き出す超人がいるし、実際競技場で同世代の鋼のような才能に打ち負かされてきた彼女ではあったが、それでもこのひ弱に痩せ細ったクラスメイトの情熱に完全に心を飲まれていた。
 ついさっきまで雄弁に語っていた姿など見る影もなく小さくなってしまった――特に女友達わたしの視線に縮こまってしまった、クオリア・カルテジア。
 馴染みのない芸術の世界に呼吸する同級生。
 ミーシャは、ため息をついた。
 それは感嘆に他ならなかった。
 一方、二つの素直な気性に見つめられ、さらに感嘆をも浴びたクオリアは居心地が悪くてならず、また目のやり場にも困っていた。二人のどちらかでもまともに見返すのは辛い。かといってハラキリには心を見透かされそうで目をやれない。ダレイに向くにはあまりに二人から顔を背けることになる。そこで彼女は逃げ場を求めて食べかけだったライ麦の丸パンをかじった。不思議とひどく味気なく感じた。思い立ってプチイチゴのコンポートと一緒に食べてみた。不思議なほど美味しくなった。誰もまだ何も言わない。ダレイは落ち着いて座っている。ペットボトルの茶を飲むハラキリには口を挟もうという気配が全くない。ニトロとミーシャは、むしろクオリアの発言を期待していた。
 やがてクオリアは、小さく吹き出すようにして笑った。
 居心地が悪いのに、四つの純朴な瞳が、このままでは変に癖になってしまいそうだ。
「私ね、今なら平気で肉も魚も食べられると思うんだ」
 急な、しかもまるで想定していなかった発言にニトロとミーシャが戸惑う。クオリアは半ば挑戦的にハラキリを見た。
「殺生の忌避は、もっともらしい理由よね? ま、別に全くの嘘にはなってなかったと思うんだけど」
 ハラキリはうなずいた。彼に肯定されたことで勇気を得たクオリアは、躊躇いがちに、この一時だけ、透明な装甲を胸から外すことにした。
「笑わないでね?」
 笑われたら、きっとうまくやっていけない。
「私は、その体験を、大事にしたかったの。そして今も大切にしているのよ」
 ニトロとミーシャは笑った。
 しかしそれはクオリアの危惧した笑いではなかった。
 二人は微笑んでいた。彼女と物語を共有するミーシャは受容に共感を含ませて、物語を知らぬニトロは理解と納得を織り交ぜて。
 ――クオリアも、笑った。
 そこにハラキリが口を挟んだ。
「そろそろお開きにしましょうか」
 彼の視線につられて皆がそちらを見ると、時計が昼休みの終わりを告げつつあった。
「やべ」
 ミーシャが弁当の残りを慌ててかきこむ。ニトロも残っていたおかずを平らげにかかった。次は選択授業だ。それぞれ所定の教室に行かねばならない。
「残りはもらってもいい?」
 クオリアがプチイチゴのコンポートの容器を手にして言う。
「いいよ」
 と答えたのはミーシャだった。反射的な返事だったのだろう。しかしその許可を与えられる立場ではないとすぐに気づいて彼女は「ん」とうなった。
 それはおかしな「ん」だった。およそミーシャの喉から鳴り出るとは想像もつかない音であった。
「ッふ」
 最初に空気を吹き出したのは誰だったろう?
 だが、その直後には爆笑が美術室のありとあらゆる空間を占め、初めは怒っていたミーシャもついには一緒になって笑い出し、誰が最初に笑ったかなどまるで問題ではなくなってしまった。
 そして五人はそれぞれ揃って授業に遅刻した。
 しかし遅刻したことはまた後の話題になり、クオリアがその日『サマラの冒険』を思い出しながら描いた絵は明るい色彩に輝いて、約束通り部活帰りに美術室に立ち寄ったミーシャを、心から感動させたのであった。






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