「先ほど、とても上機嫌でいらっしゃいましたが、何か良いことがあったのですか?」
 効果覿面。ミリュウの頬の裏にある罰の悪さが、思い出された恥ずかしさによって焼き消される。とはいえその恥も時を経たことで彼女を上気させるほどの熱量はない。それでも少女の頬は僅かに赤く染まり、恥を蒸し返した相手へ少しばかりの――とても可愛らしい――抗議の色を瞳に浮かべた。が、その蘇った恥も長続きすることはない。ヴィタの言葉に含まれていたキーワードに彼女が気を回した時、そのような恥など簡単に吹き飛ばしてしまったのだ。
 何か良いこと。
 それは素晴らしく良いことである。
「だって、今夜はお姉様とずっとご一緒できるんだもの。歌ぐらい歌っちゃう、ううん、歌わずにはいられない」
 そう言うミリュウはもはや満面の笑みである。瞳はこれまでになく輝き、頬には純粋な情熱が漏れ出している。
 なるほどと、ヴィタは感嘆していた。
 ミリュウの言う通り、妹姫は18時からずっと姉姫様と同じ時を過ごす。その時間はまず語学の勉強から始まる。次にスピーチのレッスン、すぐさま音楽・音楽史の試験及びピアノの訓練、式典での立ち居振る舞いの確認、各大陸の政局の読解、他星たこくの動静についての“雑談”、途中で夕食やティータイムも挟むがその間も姉姫の目は妹姫の作法を厳しくチェックする。日付が変わっても特訓は続き、予定通りに進めば二人がベッドに入るのは夜明けの二時間前だ。普通なら、それを前にしてこんなにも期待に胸を焦がすことなどできはしまい。
「そうだ、あなたはクロノウォレス語を話せる?」
 名案を思いついたとばかりにミリュウが問うてくる。ヴィタは小さく首を振り、
「お恥ずかしながら。勉強中ではありますが、まだ日常会話がやっとというところです」
「『花を一輪いただけますか』って、言える?」
 ヴィタはミリュウの狙いが解った。言われた通り、その一言をクロノウォレス語で口にする。と、ミリュウは実に満足気にうなずき、
「素敵な発音。ね、ヴィタ、休憩中に悪いんだけど、コツを教えてくれない? どうしてもうまく発音できないの」
 ミリュウを困らせている発音は『花を一輪』の箇所で連続して出てくる三重母音で、現在のクロノウォレス星ではこれを『不滅の音』と呼んでいる。
 何故『不滅の音』であるのか――
 それは以前、その星を支配していた最後の絶対君主が、自分が上手く発音できないからと廃止、及び禁止したからであった。その行為は、アデムメデス語で、強いて、かつ無理を承知で例えるなら『愛多い』を『あいうぉーい』と、あるいは『ワイヤー』を『ワイや』と言うよう変更するようなものである。しかも元の発音を使うのは王を冒涜することとして重い罰則も科された。
 確かに難しい発音ではあった。当時からこれを正確に美しく発音できる者がそういたわけではない。専門家から言わせれば、上手く発音できなかったのはその王だけでは決してないのだ。だが、それでも良かった。『花を一輪』は古くから愛の合図として定着していた言い回しで、例え発音が不味かろうが、それが理解できて、その想いが通じさえすれば誰も気にしていなかった。王は表面上の発音だけを気にしていたが、結局、その最後の王が禁じたのは人々の情の交感そのものですらあったのだ。
 さらにそれを契機として母語を君主の親しむ他星たこくの言葉に変更していくことも検討され、部分的には義務付けられもした。後の革命に至る火種の一つであり、それは王朝を打倒したと同時に国民が取り戻した“我らの言葉”である。
 故に『不滅の音』。
 ――皮肉なことに、現在のクロノウォレスは禁止された以前よりも『不滅の音』に厳しくなっている。発音できないことが悪いわけではない。が、これを音声学的に正確に美しく発音できることが一種のステータスとなってしまっているのだ。いわんや外の人間がこの音を正確に美しく発音すれば、それはクロノウォレス星の人間の好感を瞬く間に得る魔法となるだろう。
「しかし、私は講師には向いていません」
 食べ尽くしたサクランボのタッパーに蓋をしながら、ヴィタは言った。
「私の発声方法は『反則』ですから」
「どういうこと?」
「その言語を話すために最適化できるからです」
 と、藍銀色の麗人はほっそりとした首を軽く反らしてみせる。
「場合によっては現地の方より適した喉を私はいつでも得られるのです。もちろんそれを得るための訓練は必要ですが、しかし、『反則』ですよね?」
 悪戯っぽく問いかけられてうなずくミリュウは、うなずきながら心から感嘆しているようだった。『変身』と言えば先ほどのようにおもてを変えることばかりに注目し、そのような応用ができるとは考えていなかったらしい。感嘆のために顔を輝かせながら、ミリュウはヴィタの手に手を添えた。驚くヴィタに彼女は言う。
「素敵、素敵よヴィタ。素晴らしいわ。それならあなたは他の誰よりも発音の仕方が解っているってことじゃない。アデムメデス人にとってその発音がどうして難しいのか、両方の喉で実際に比べられるなんて! 向いていないどころかあなた以上の先生はいないわ」
 言われてみればその通りではあるが、とはいえ発音自体は“アデムメデス人の喉”で全く行っていないのだからやはり講師としてはいかがと思う。しかし、ヴィタは悪い気はしなかった。あの姉姫も人を乗せるのがうまいが、この妹姫はそれとは違う角度で人を乗せるのがうまい。あえて言うなら、『劣り姫』のその性質は、彼に似ている。
「ところでミリュウ様、ルッド・ヒューラン様はもうお茶の用意を終えてらっしゃるのではありませんか?」
「え? そうね、もういつでもお茶ができると思う」
 内ポケットから小さな携帯を取り出し、確認する。ミリュウはうなずいた。
「頼めばすぐに」
「では、ルッドランティーを味わいながら、拙い講義でお耳を汚させていただいてもよろしいでしょうか」
「――ありがとう!」
 その発音をマスターすれば姉に誉めてもらえると固く信じている少女に、ヴィタは頭を垂れる。澄んだ西日に藍銀色の髪がきらめいて、それをミリュウは美しいと思った。姉の執事が立ち上がり、すらりとした手を差し伸べてくる。その手を取って、妹姫は立ち上がる。
 ヴィタは手早くバスケットにタッパーと水筒をしまいこんだ。
 そしてバスケットを手に、ロディアーナ宮殿の中庭に移動するため振り返る。と、山吹色に輝く雲のたなびく青空と、御伽噺の世界のごとき花園を背にした姫君の、慈愛と親愛とを融かし合わせた愛らしい笑顔がヴィタの目に真っ直ぐ飛び込んでくる。
 夜風の先触れが微かに流れた。
 少女の背に流れる黒紫の髪が天の雲よりも優雅に揺れる。そうしていればただ可愛らしい高校生としか思えぬ少女は、花も知るまい、その純朴な唇をたおやかにほころばせる。
「改めて、これからよろしくね。一緒にお姉様のお力になっていきましょう」
 ヴィタは微笑み、優美に、深く辞儀をした。

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