威容を誇る大洋が、寒空の下、水平線まで広がっていた。
 圧倒的な質量が、静かに呼吸をするように波打っていた。
 水面に反射する光が目に刺し込んできて眩しい。高低差の小さい波が時折足をもつれさせたように崩れる度に鋭い光があちこちで閃き、絶え間なく変化する光の網目模様が絶え間なく海を飾り立てている。水平線に近づくにつれて海面の光は薄らぎ、しだいに青黒く移ろい、また色を薄めて空と境を共にする。境界の海と空の色はとてもよく似ていた。
 沖には漁船が何隻か見える。数隻の巨大なタンカーが外海へ向かっていて、逆に入ってきているものもある。遠くに白い帆が見えた。趣味人のヨットだろうか、沖合は風がここより強いらしい。船上に立つ人の形が辛うじて見分けのつく距離に、遊覧船が白い軌跡を描いて足早に進んでいた。
 護岸された岸辺には柵が立てられ、柵から陸側にはシックな色彩のタイルが敷き詰められている。岸は海側から陸側に向けて盛り上がり、なだらかな斜面を間にして、木立を脇した広い歩道と柵を脇にした海沿いの歩道がどこまでも併走していた。斜面には冬でも青々とした芝が根付いている。石造りの階段が所々で上下の道を結んでいた。等間隔にベンチも置かれている。その幾つかには人が座っている。
 道なりに目を奥へ移していくと、ずっと先にはクリーム色の砂浜がある。こんな冬の日にも波打ち際で遊ぶ人影が見えた。砂浜の向こうには人気のテーマパークと商業施設、さらに向こうは工業地帯になっている。遥か先には岬が霞んでいる。
 上下どちらの道にも犬を連れた人々がちらほらと見えた。良い散歩コースなのだろう。いくらか先の方で、ベビーカーを押している老夫婦の傍をさっきの少女が駆け足に近い速度で進んでいた。彼女は砂浜を目指しているらしい。それならさっきのバスでもう少し進んでから降りた方が良かったように思う。もしかしたら降りる停留所を間違えたのだろうか。だから焦っていたのかもしれない。
 少し後方の岸辺に竿が一本、立っていた。何の反応も示さぬ糸を垂らしたまま、ダウンジャケットを着た中年男性が柵に背を預けている。彼はパイプを口に咥えていた。無煙二管式のパイプで、吸えば煙が口に向かい、吹けば煙はフィルターで処理される。カートリッジを収める丸っこい火皿から昇る白煙は気分を出すための演出だ。時折男性の口の端から別の白煙がこぼれだしている。それが本物の紫煙である。その男は釣果などどうでもいいらしい。ただそうやって糸を垂らしてのんびりパイプをくゆらす時間こそが、何より贅沢な浪費なのだろう。
 そういえばしばらく釣りをしていないなと、ニトロは砂浜に向かって歩きながら考えた。
 最後に釣りをしたのは、去年の夏だ。ハラキリと船釣りをして、人魚姿のバカ女を釣り上げた。その日以降、針に餌をつけていない。
 久しぶりに釣りをしようかな。ニトロは歩く。父から道具を借りて、またここに来るのもいい。また船釣りに友を誘ってみるのもいい。ニトロは木立脇の道を歩いていく。釣堀でもいい。近所にあったっけ。場所が遠いなら、やっぱり海に来ようか。ケルゲ川でウグイを釣るのもいい。そろそろマスが狙えるようにもなるはずだ。
 ニトロの目の先にはケータリングカーが一台止まっている。
 風が海から吹いてくる。
 ここは思いのほか暖かい。
 海からの風は不思議と冷たくない。
 息を吐けば、息はただ風に溶けて波音に混じる。
 公園のぐるりを取り巻く林のあちらとこちらでコンマ数度の差があるように思えた。太陽と大洋の照り返しがこの場所を上下から温めているのだろうか。もし本当にコンマ数度の差があるとしても、その差異は随分大きいように感じられる。
 ケータリングカーの周りには数羽の鳩がいた。丸く太ってあちこちに嘴を突き立てているものもあれば、丸く膨れさせた羽に首を埋めて暖を取っているものもいる。ニトロはコーヒーを買った。
 原料の竹草グランブの風合いをそのままにした蓋付きの紙コップを受け取って、階段を降りる。ほんの少し下っただけで波の音が大きくなった気がした。
 近場のベンチに腰を下ろして、ニトロは一つ息をつく。
 釣り人が竿を上げていた。煙の届かぬほど離れたここからでも裸の針が見て取れる。餌が流れたか、奪われたか。竿が振られて仕掛けがまた海中に沈んでいく。
 甲高い犬の鳴き声がかすかに聞こえてきた。
 その時、ニトロの目に空を飛ぶ影が見えた。
 カモメだろうか? カモメだろう。カモメが二羽、悠然と翼を広げて空に舞っている。
 ニトロはサンドイッチの紙袋を脇に置き、コーヒーの蓋の封を解いて一口飲み、火傷しそうな熱さと思いのほか上等なフレーバーに目を細めた。紙袋からサンドイッチを取り出す。白くきめの細かいパン、新鮮なレタスとハムの桃色が食欲をそそった。ハムは極薄く切ってあり、それが何枚か重ねられていた。ニトロは納得する。サンドイッチのハムは薄めがいい。ハムカツにするなら厚めがいいけれど、こうしてレタスとシンプルに合わせるなら薄い方が不思議と存在感を増すのだ。
 サンドイッチは注文が入ってから作られたもので、バターはオーソドックスに、マスタードはちょっと強めに、エプロンを着けたおばさんは希望通りにさっと仕上げてくれた。一口齧るとレタスがしゃきっと音を立て、一緒に噛み切られたハムが程よい塩気と共に、なるほどアピールするだけある濃厚な旨味を口の中に広げる。バターの香りがレタスの爽やかさを引き立て、つんと鼻を突くマスタードの刺激の後にハムの後味が鼻腔に余韻となって残る。それを小麦の風味の芳しいパンが一つにまとめ上げている。
 ニトロがため息をついた時、柵の向こうから波が砕ける小さな音が聞こえた。周囲にはずっとざわめきのような音がある。ざわめくものがどこにもいないのに聞こえ続けるこの重低音は、表面上は穏やかなのにも関わらず常に海の底では激しく星とぶつかり合う怒涛の響きだ。存在の音。畏怖を掻き立てる存在感。その、存在の音。
 圧倒的なのに。
 穏やかに。
 ニトロはコーヒーを飲む。息を吐くとコーヒーの熱が潮を含んだ冬に冷やされて目の前に顕れた。水面の反射光を受けて微細な粒子が瞬いていた。
 ニトロがまたサンドイッチを齧った時、ケータリングカーから客を相手にする声が聞こえてきた。客の注文に少年のような顔をした店主が愛想を返す声が聞こえた時、激しい羽ばたきも聞こえてきた。暖を取っていた鳩が驚いて飛び立ったのだろう。その時、遠くにまた犬の鳴き声が聞こえた。
 ニトロはそこにいた。
 波がぱしゃりと鳴った時、釣り人の竿が不意にしなった。その時、鳴き声を上げていた犬が大人しくなった。その時、ケータリングカーの店主が客に品を渡した、その時、芽を膨らませる枝に鳩が留まった、その時――カモメが空を切って海と陸の境界をかすめていったその時、思わぬ獲物に驚いた釣り人のパイプが海に落ちていった時、ファー付きのコートを着た男が地下鉄に乗り込んだ時、老夫婦がベビーカーで眠る孫の顔に心を温められているその時、パンが焼けた時、遊覧船の中で子どもがソフトクリームを買ってもらった時、少女が砂浜から迎えに来た想いを寄せる友達と合流した時、黒い犬がオープンカフェで軽食を取る夫婦の足元でうつらうつらとしている時、波がぱしゃりと鳴った、その時。
 ニトロは、息を大きく吸い込んだ。

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