吉A

(第三部の前、『黄金に輝く』のちょっと前)

2105『大凶』と『?』の間

 ニトロは息を吐く。
 王都は冷え込んでいた。
 そう遠くない春を前にして、今冬何度目かの強い寒気がやってきて、今日も身に沁みる寒さが大地をかじかませている。昨夜雪をちらつかせた雲はどこかへ行ってしまったが、ピンと張り詰めた青空から注ぐ太陽の光には、温もりがあるはずなのにどこか冷たさが忍んでいる。
 寒すぎるのは困りものだが、冬は寒い方がやはり冬らしくていい。
 ニトロは息を吐いた。ビル陰で息は凍って白くなる。彼は街路樹の並ぶ道を歩いていた。木々には青みを残した黄色い葉がまばらに年を越してなお梢に留まっていて、それらは時折微風に撫でられてはかさかさと身を揺らしている。
 日曜、朝と昼を分かつ頃。
 厚いコートに身を包んだ老人が、カフェの窓際の席で板晶画面ボードスクリーンに目を落としている。白い口髭がもごもごと動いて、暖房の効いた店内で眠くなっているのだろうか、時折こっくりと頭を揺らしていた。その近くを通り過ぎたニトロの目に、画面に映る文字が目に入る。その見出しは、アデムメデス国教会の式典のため王夫妻と南大陸を訪れた第一王位継承者の動向を報じていた。
 ――彼女は明後日の朝、王城に帰ってくるはずだ。ひょっとしたら予定が早まって明日の夜更けには帰ってくるかもしれない。だが、間違いなく、今日は都を留守にしている。
 ニトロは息を吐く。白い塊がすぐに日に溶けて消える。
 年が明けてから二ヶ月近く、彼はこうして外に足を伸ばすことをすっかり忘れていた。最近は、暇さえあれば高校二学年時の総まとめ、大事な年度末テストに向けた勉強ばかりをしていた。その他は『漫才』の練習やら実演やらあのバカのちょっかいやらで時間を奪われ続けている。芍薬の勧めを受けてこうして見知らぬ土地を歩いてみると、たった一人でのんびりと季節の流れを感じることの意味が改めて身に沁みる。
 その芍薬は、マスターがまだ来たことのないアデムメデス港近くの街に車を走らせてくると、そこでマスターを下ろし、自分はそのまま地下駐車場に潜り込んで行ってしまった。緊急時以外の連絡は受けないと言われている。
 ニトロは息を吐く。ピンと張り詰めた空の下で、白い息がほどけていく。風が一息通り抜け、手のような形をした枯葉が石畳の上をかさかさと転がっていく。風には潮の匂いがかすかに混じっていた。
 彼のいる場所は湾岸で人気を集める区域の辺縁に当たるところで、閑静な繁華街、とでもいうのだろうか。海浜公園に程近く、近辺に住む人々が愛用する街であり、また落ち着いた大人のデートの穴場としても知られる場所だった。
 ニット帽にダッフルコート、鳶色の薄いマフラー、茶色のスエード靴に温かみのあるコットンパンツ。明るい鳶色のカラーコンタクトを着け、黒ぶちの伊達メガネをかけて、ニトロは歩く。落ち着いた色彩のコーディネートはこの落ち着いた街に溶け込むようだ。芍薬の施した魔法は彼の正体を隠匿し、芸能人の話題で盛り上がる男女の若者達はすぐ目の前をすれ違いながらも彼に注意すら払えない。
 彼は歩く。
 街の目抜き通りは海浜公園に繋がっている。
 ゆったりとした車道を行き交う車の中で目立つのは、ファミリーカーだ。時折、輸送業者の車が重い音を立てて走っていく。自作キットで作ったらしい二人乗りの超小型車ミニカーが通り過ぎ、すぐ横の服飾店から買い物袋を提げた女性が店員に別れを告げながら通りへ出てきた。開いた扉から流行の歌が聞こえて、扉が閉じると、その存在が幻だったかのように歌が立ち消える。
 黒ぶちの伊達メガネ越しに見る街並みに、ふとアイコンが表れた。メガネに内蔵されているコンピューターに走る自動情報取得アプリケーションからの示唆だ。そちらにはパン屋がある。アイコンに瞳を合わせて瞬きをすると、そのパン屋が道を行く人へ発信し続けている詳細情報が開示された。自慢の手作りサンドイッチ! 自家製ハム! 新鮮なフライドフィッシュサンドイッチ!……
 自家製ハムが気になった。
 ニトロはパン屋に入り、小さな紙袋を手にして、また道を行く。
 以前はメルトンが設定に悪戯を仕掛けてくるため、この手のアプリを使うことはなかった。メルトンを抜きに使うにしても、アプリが使用者好みの情報を的確に取得できるようにするには学習プログラムに経験を蓄積させる必要があり、その間にメルトンがこっそり悪さを仕掛けてくるため、やはり使わなくなってしまった。その習慣は今も続いていて、現在もこのアプリを使う頻度は少ない。しかし今日は機能を働かせていて良かった。海を見ながらサンドイッチを食べよう。使用頻度の少ないアプリも手抜かりなく、芍薬がこまごまと設定し直してくれているお陰で快適に利用できる。町中で吹き出す心配もない。突然苛立ちに頬が引き攣る心配もない。メルトンは遊び心だと言っていたが、ちょっとでも性隠語に引っ掛けられそうなものなら何でも表示させようとするのには本当に参った。モバイルの画面を級友に見られて顔が真っ赤になったこともある。一方で、唯一つ、興味深い発見をしたこともあった。現在は高尚な悲劇として語られる『フィールランドの薔薇屋敷』の上演案内にアプリが激しく反応したことがあるのだ。何故かと思って調べてみれば、原作には当時の社会における下ネタがこれでもかとばかりに詰め込まれていた。現代においては泣き所として知られるセリフに女性器の隠語が仕込まれ、ロマンチックな語らいの場面には糞尿に関わる隠語が猛烈に使用されていた。それがキッカケで『実はこんな話だった』という古典はどれほどあるのかと調べたことがある。そういうのが大好きな文学者のWebサイトには随分楽しませてもらった。しかしメルトンはそういうのには興味がねぇと、その手の情報が拾われないよう設定を修正してしまった。単純に下世話な猥談が好きなのだ、両親の前では純朴を気取っているくせに。
 道の先、海浜公園の方角から大型犬を連れる若い夫婦が歩いてきていた。その黒い犬は温もりを感じさせる白い息をリズム良く吐き出して、リードを引く女性の左側を楽しそうに歩いている。『動くぬいぐるみアニマロイド』ではないようだ。時折談笑する夫婦を見上げる犬の目は優しく、そこに満足そうな飼い主がいるのを見て、自身も満足したようにまた顔を前に向けてひたすらリズム良く歩き続ける。段々と近づいてきて、足が石畳につく度にちゃっちゃっと音が鳴っているのが聞こえてくる。
 犬と夫婦とすれ違い、ニトロは足を止めて振り返った。夫婦は腕を組んで歩いていた。黒い犬はふさふさの尻尾を振っていた。小馬ポニーの尻尾ではないが、それを見ていると芍薬を思い出す。
 誘いかけるように風が吹く。
 風は海の方角から吹いている。
 ニトロは風に向かって再び歩き出す。
 目抜き通りは海浜公園沿いに延びる湾曲した道にぶつかって終わっていた。
 公園の周囲には木々が植えられていて、防風林というわけではなさそうだが、それなりに幅のある緑の帯が道と並んでぐるりと続いている。多くは常緑樹だが、それらを取り巻くように落葉樹が植えられていて、これらは春を前にみすぼらしい骨身を晒していた。街の並木と同じようにいまいち紅葉し切れていない葉をまばらに枝に残すものもあれば、まるきり葉を落とした裸の枝をさむしげに強張らせているものもある。しかし、どの木々にも、春を待つ芽の膨らみがあった。
 横断歩道の信号が赤に染まる。
 ニトロは緑を待って、佇む。
 右手に同い年くらいの少女が立った。誰かと待ち合わせているのだろうか、気の焦りが滲んでいる。マフラーの中に埋もれる口元は引き締まり、目の前を右から左へとバスが通過していって、もしかしたら彼女が乗ってきたバスだろうか、停留所がすぐそこにある。
 信号が替わった。
 少女は道を横切っていく。もこりとしたニット帽から覗く亜麻色の髪を弾ませ、毛皮のようなファーの付いた黒いムートンブーツを小刻みに動かし、軽い足音を残して急いで去っていく。それを追うようにニトロも足を踏み出した。公園側から着古してくたびれたファーの付いたコートを着る男がやってきてすれ違う。寒さに強張る頬がニトロの視界を掠めて消える。
 小奇麗なゲートを通って公園に入り、木立の下に入ると周囲の音が力を失った。を抜いて青い広がりが見える。小路こみちを通って木立を抜けるとまた音が勢力を取り戻し、腹に響くざわめきのような音が鼓膜の奥を直接震わせてきて、そうしてニトロの視界が開けた時、王座洋スロウンが、一瞬にして彼の網膜を青く奪った。

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