「どうせ飛ぶなら一人で飛ぶわ! ていうか一人でならいくらでも飛んでやるわ! な・ん・で! お前とアベックで飛ばにゃならないんだ!」
「『私達』が個別で飛んだところでそれこそ意味がないじゃない」
「ああもう分かってるよ! だから余計に腹立つんだこのヤロウ!」
「私は女よ!」
「古典的な反論をありがとうバカ女!――その上! バンジー中の俺の命綱が“お前にしがみついておくこと”っていう要努力案件はどういうことだ!」
「万一落ちても下は水深50mのラッチェ地方名物ビッテリ湖があるから大丈夫!」
「大丈夫なわけねぇだろ!? こんな高さから落ちたら下が水だろうが深かろうが人は死ぬ!」
「飛び込みのアデムメデス記録は71mよ?」
「言っちゃ悪いがそりゃ訓練を積んだ馬鹿が達成した大記録だろうがあ!」
「ニトロならいける!」
「確かに逝ける! いいか! もう一度付け加えて言うが! 落差1cmだろうと打ち所が悪ければ人は死ぬ! その5000倍なら言わずもがなである!」
「だからそれが嫌なら私を抱き締めていてくれればいいだけじゃないのよぅ」
「だからそれが嫌だっつってんだ! ていうかこっからのダイブならゴムが伸びきった時の衝撃も絶対凄いよな、それでも抱き締め続けるって簡単じゃないよな、無理だろ!」
「愛の力に無理はない!」
「愛に無理強いしても愛は応えないと思うなあ!」
「愛は愛する故に愛だから例え無理にでも愛は応えようとしてくれる!」
「応えようとしてくれるってのは可能を担保しねぇし無理にでもってそりゃもう無理じゃねぇか! もっと愛を愛してやれよ! そしてお前は頭のネジを締め直せ!」
「もー。分かったわよ。そんなに言うなら安心させてあげるわよ。
 ニトロのその命綱」
 ピッとティディアがニトロと手すりを繋ぐワイヤーを指差す。
「それを私のハーネスに引っ掛けるわ。それできっと大丈夫」
「きっと?」
「きっと」
「テストは?」
「今から」
「……」
「……」
 ニトロはカッと目を見開いた。
「この阿呆!」
「阿呆じゃないわよぅ! だってこんなほっそいワイヤーより私達の愛の方が強い!」
「だから愛に無理言うなっつってんだ! わりと脆くもあるみたいだよ? 愛って!」
「それなら私を信じなさい!」
「はあ? ここにきて何を言ってんだ?」
「私はニトロを離さない! 絶対に、落とさない! 私はニトロを愛している! そして何よりオトすのはニトロの役目!」
「何だその根拠! これは漫才じゃありません!」
「その通り! 愛の試練のアベックダイブです!」
 ニトロは地団太を踏んだ。ガッシャンガッシャンと金網が鳴って台が大揺れする。
「ああ、もう、こぉのバカ姫がぁあぁ。何度も愛だの持ち出して、色々理由もつけてやがるがなッ、結局お前は俺と抱き締め合いたいだけだろう!?」
「わー、自信たっぷりー、やだ、ニトロったらぁ」
「ッこおおおおおおのド畜生がああぁぁあああアッッ」
 歯噛み、頭を抱え、呻きながら、しかしニトロは理解していた。悔しくも理解せざるを得なかった。ティディアの言う通り、今の自分の言葉は視聴者にはそのように捉えられてしまうであろうことを。
 己の失言に悶えるニトロに、ティディアが胸を合わせてくる。
「捕まえた」
 そして素早く彼の命綱のカラビナを手すりから外し、自分のハーネスに掛ける。彼女はニトロの背に手を回し、言った。
「さてさて、ここで種明かし」
「――種明かし?」
「これはドッキリの体裁も取っているの。この中継はインターネットでどこででも見られる。このチャレンジはね、二時間前に詳細が明かされて、一部では『クレイジー・プリンセス』の暴挙って言われている。そう、ニトロ・ポルカトの危険度は高い。だから注目を集めている。皆にはこの光景はどう見えているでしょうね? スリリングかしら、面白いかしら、ハラハラしているかしら、笑っているかしら、私に罵詈雑言を浴びせているかしら、ニトロを応援しているかしら……いずれにせよ、何をどう思おうが皆は想像する、予想して楽しむ、ニトロ・ポルカトの選択はどちらだろう? 飛ぶか、否か。あなたは勇敢か、臆病か、はたまた無謀か、あるいは賢明か。
 ここで逃げることを、私達は否定しない。
 ニトロ、ここからは真面目に聞くわ。
 飛ぶ?
 それとも退く?」
 空撮用のマルチコプターが近くを飛んでいる。
 また風が吹き上げる。
 ニトロは、ティディアの指が不思議な動きをするのを背中に感じた。
 マルチコプターが“引き”の画を撮るため遠ざかっていく。
 するとティディアがニトロの耳に唇を寄せ、口早に囁いた。
「芍薬ちゃんには、拒否だろうが何だろうがニトロの最終決断を認めると言ってある。その約束を破ったら私は明日にでも『破局宣言』を出す――誓約書も書いて、芍薬ちゃんに渡してある」
 だから芍薬はあんな顔をしながら沈黙を守っているのかと、ニトロは納得する。
「けれど、ニトロ」
 きゅっとニトロを抱く腕に力を込めながら、ティディアはさらに小さな声で囁く。
「あなたが飛べばもっと注目される。イベント名が繰り返し広報されて、きっと寄付金は例年よりずっと集まる。それでどれだけの慈善活動が実行されるかしら? どれだけの困窮者が助かるかしら」
 ニトロは、頬を引き攣らせた。
 ティディアの肩を掴み、引き剥がすように遠ざける。
 彼女の顔には、蠱惑の笑みがあった。挑みかかるような、誘いかけるような、そうして心の底から浮かべられる笑みが。それはこの状況で、傍から見れば恋人を勇気付ける笑顔に見えるのかもしれない。しかしこれは悪魔の笑みである!
「痛いわ、ニトロ。ね、そんなに緊張しないで?」
 本気で肩に食い込む爪に、しかし顔をしかめずティディアは優しく言う。鬼のようなニトロの目をまっすぐ飲み込んでしまう深い瞳で、微笑みかける。
「……」
 ややあって、ニトロはため息をついた。
「ホント、お前はいつか絶対痛い目にあうからな」
「それはきっとニトロにヤられるからでしょうね」
「……できれば神罰に期待したいんだがな」
 苦々しく言い、ニトロはとうとうティディアを抱き締めた。崖の上に歓声が上がる。ヴィタがマリンブルーの瞳を太陽にきらめかせ、芍薬が仕方ないとばかりに肩を落とす。マルチコプターが戻ってきた。はるか下方からも、風に乗ってどよもす歓声が聞こえた気がした。
「素敵よ、ニトロ。そんなあなたが、やっぱり大好き」
 ニトロを見つめながら、マイクに間違いなく拾われるであろうはっきりとした声でティディアが嬉しげに言う。それに彼は鼻で笑い、
「なぁ、ティディア」
「何?」
「しっかり俺を抱き締めていろよ?」
「ええ、当たり前じゃない」
 どれだけの大きさの声ならマイクに拾われて、拾われないのかは解らないが、この際それはどうでもいい。
 ニトロはダイブ台のきわまでにじり寄り、今度は彼がティディアの耳に唇を寄せる。その唇の熱が耳朶に触れ、ティディアは思わず身をよじらせた。そして、
「気を失われちゃあ、俺の命に関わるからな」
「え?」
 ニトロの声は極低音だった。ティディアの鼓膜から下腹部まで轟かせる、怒気だった。
 ティディアはニトロを怒らせることは解っていたし、覚悟もしていた。
「いいな? 信じてるぞ
 しかしその覚悟は、
「ちょっと、甘かったかしら?」
「せぇのー!」
 ニトロが膝を曲げる。その両腕がティディアを万力のように締めつける。ティディアはぐえっと小さく呻いてから、慌ててニトロを抱き締めながらも叫んだ。
「待って! ちょっと待って!」
 それは傍目から見たら、急にティディアが怖気づいたように見えたことだろう。彼女は己の失言に気づき、慌てて印象を操作するためにまた叫ぶ。
「もう一度安全確認を――!」
 それは外には急に決断した『恋人』のためを思うバカ姫の言葉として、ニトロに対してはこの締め付けを牽制するための言葉として放たれた。が、無論、有効に働いたのは前者にのみである。
 ティディアの体がふわりと浮いた。それはニトロに持ち上げられたからではない。439年前からこのアトラクションに挑む際の合言葉、半ば八つ当たり気味な叫びが崖に反響する。
「バンジーーーッ!!」
 心に滾る憤りを燃料にして跳躍するニトロと共に、さあ、空へ。
 飛び出した二人は一瞬宙で止まり、一気に落下する!
 ティディアの目は自然と裏返りそうになった。ニトロのベア・ハッグは何度も食らっているが、そこに重力加速度が加わると……おお、これは!?
(……いつものことね)
 オチていきながら、ティディアは思う。
 耳を占めるのは風切り音。
 ほんの数秒にも満たないバンジーダイブ。考案したのは南大陸のとある山村で生まれたバンジー氏だ。こんな遊びを考えつくのだから、彼はよっぽど暇だったのだろう。
(そう、いつものこと)
 短い落下時間が過ぎていき、薄れる意識の中でティディアは微笑む。
 ニトロにこういうことを仕掛ければ、いつだってこうなることは目に見えているのだ。
(でも、癖になっちゃう)
 いや、既に癖になっている。だからやめられない。だから、ニトロは素敵なのだ。意識を懸命に保って彼を抱き締める。彼の安全は元より、彼と抱き締め合えるこの奇跡のような時間を気絶などして失ってなるものか。
「ぬを!?」
 落下し切った衝撃が二人を襲う。次いで瞬時にゴムの反動で二人は上空へと再度跳び、強烈な衝撃に漏らされたニトロの呻きが後に残されて消える。二人は分解しない。かっちりと噛み合った留め金のように離れない。ティディアは彼を抱き締め、また彼にしがみつかれてよだれをたらし、高速で転倒する視界の中に――刹那――ティディアは薄っすら開いた眼で青い空を見た。白雲の向こうに太陽が、そこには天国が、ああ、光が。
「しあわせ……」
「黙れ変態!」
 怒りとも呆れともつかぬニトロの声が耳を叩き、そしてティディアはうへへと笑った。

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