吉@

(『敵を知って己を知って』と『行き先迷って未来に願って』の間)

2015『?』と『凶』の間

 ニトロは釈然としない。
 納得できようはずもない。
 今、彼は地上50mの高台にいた。
 背後には切り立った崖の縁がある。そこからせり出す骨組みに敷かれたメッシュ床が、彼の足場だ。およそ2m四方の金網メッシュの下には玄武岩がごつごつとむき出しになっている崖面と、恐ろしく深い蒼を湛える小さな湖が見えた。崖はその湖からぬっと身をもたげる巨人のようでもある。
 ニトロは思う。
 ――確か、今日はチャリティイベントのゲストとして呼ばれたはずだった。
 そのイベント会場はここから良く見える。
 山の麓に広がる野原に大勢の人が併せて良く見える。
 この日のために設営された舞台の天幕が白く輝き、広場の周りに展開する休憩所や屋台の屋根もまた白い。
 野原の向こうには朱色の屋根を並べる街並みが森を右手に広がっている。左手には山から続く丘陵を望み、地平線まで開けた空は青く澄んでいて、吹き千切れたようにぽつぽつと浮かぶ白雲が街並みの朱を引き立てている。
 その街を教区に含むアデムメデス国教会のラッチェ支部が今回のイベントの主催者だ。
 この土地に着いたのは、およそ10分前だったろうか。イベント会場に直接乗り付けるものと思った飛行車は切り立った崖の上に着陸し、そこにはイベントのスタッフジャンパーを着た人々がいて、打ち合わせもせぬまま追い立てられるようにハーネスを付けられ、そしてここに立たされた。衣装は車の中で着てあった。スーツだ。不思議と芍薬は沈黙していた。ということは明らかにイベントに関わることであるのだろう。
 だが、何故、俺はここにこうして風に吹かれてバカ女と金網の上に立っているのだろう? 俺はこの土地に『漫才』をしに来たはずなのだ。
「えーっと、これはどういうこと?」
 彼は説明を求めた。
 すると周囲を飛び回っていた空撮用のマルチコプターが目の前にやってきて、宙映画面エア・モニターを投影する。ニトロは音読した。
「これから『バンジーダイブ』をして頂きます? うん、だろうね。何の意味があるのか解らないけど、別にいいよ? で、俺のゴムロープは?」
 ちらりとニトロは隣で胸を張って腰に手を当てて立つティディアを見る。彼女はハーネスを着けていて、枷をはめられたような足には丈夫そうなゴムロープが繋がれている。一方、自分にはハーネスはあるものの、そこから延びるのは細いワイヤーで、しかも短く、先端のカラビナは足場の手すりに繋がっていた。つまりこれは単なるこの場における命綱でしかない。
 マルチコプターは字幕を切り替える。それを見た瞬間、ニトロは素っ頓狂に叫んだ。
「何ですとぉ!?」
 画面にはこうある。
――<ポルカト氏にロープはありません。ティディア様とご一緒に飛んでいただきます。タンデム用の装備はありませんので、落下中はティディア様と強く抱き締め合ってください>
 ニトロは叫ぶ。
「何考えてんだ! そんな危険なこと――」
 字幕が変わる。
――<よろしくね(^▽^)>
「顔文字このやろう! つうかね、理解できないんだ、その説明をしてくれよ、一体何故そんなことをする意味が!?」
「そりゃもちろん、寄付金を集めるためよ」
 と、これまで黙っていたティディアがふいに言った。
 ニトロは彼女に食ってかかる。こんなバカげたことを考えるのはそりゃもちろんこいつしかいない。
「それで何でンな危険な条件で『アベックダイブ』をしなきゃいけないんだって聞いてるんだ! 俺達は『漫才コンビ』だろ? 舞台に立って、ネタを披露して、そうやってチャリティに貢献するのが筋だろ? なのに、何故!!」
 ティディアは肩をすくめる。
「筋とかそういうのはどうでもいいの。漫才は方々でやっているけど、これは初めてでしょ? 注目を集めるじゃない」
 ちょっと強い風が吹き上げてきて、不意を突かれたニトロはよろけて手すりを握る。ティディアは不動のままでニトロに笑いかけていた。彼は問う。
「それで?」
「そうして集めるのよ、金を」
「金か」
「そう、金よ」
 にっと笑って、彼女は続ける。
「金が集まればなんでもいいの。オチようが飛ぼうがお涙頂戴だろうが――」
 ティディアは、そしてすっとニトロに手を伸ばす。その意図を察した彼は、この狭く危険な場所で彼女の手から逃れる。枷にかけられているような足を巧みによちよちと動かして彼女は彼ににじり寄りながら、さらに言う。
「売名行為だろうが腹蔵持った企画だろうがね」
「清々しく言い切りやがったなコンチクショウ!」
 ニトロはティディアの意図をそこで完全に確認して怒声を上げた。そして非難の目で彼女の動きを予測しながら足場を移動し――命綱が邪魔なので一度外して(崖の上から何やら多くの声が聞こえてきた)逆の手すりに繋げ直す。
「それはあれだ、いわゆるところは偽善ってやつじゃねぇのか!?」
 ニトロの言葉に、足枷から延びるゴムロープを絡ませないよう気をつけながらティディアは振り返り、拳を握って彼に突きつける。
「偽善も善も、ついでに悪であろうが結果良ければ全て善し!」
「まああた清々しく言い切りおったなコンチクショウ!……いや、肯定はせんぞ、絶対に全面的には肯定はせんぞお!」
 突きつけた拳をパッと開いてティディアがニトロに掴みかかる。しかしニトロは巧みにたいを入れ替える。足場の床は崖まで続いていない。途中で敷板が外されていて、逃げ道はない。
「てことは一面的には肯定するのね?」
 体を入れ替えたはずのニトロの正面に素早く回りこみ、ティディアは笑う。
「つか俺はそれを完全否定できるような善人じゃあない」
 ニトロは命綱を手すりから外しては繋げ、繋げては外し、ティディアのロープに足を引っ掛けないよう細心の注意を払いながら逃げ回る。
「そんなニトロが私は大好きです」
 ハーネスをつけた(ミニ)スカートスーツ姿の王女様はよちよちと追いかける。
「俺はそんなティディアが大嫌いだ!」
「一面的にはねー」
「都合よく取り扱うなボケェ!」
 外から見ると二人の動作ははさながらスローモーション風味のコントのようでもあった。
 崖から突き出た50mの高台で、動き回りながらもニトロの顔に怯えはない。しかし恐怖はある。しかしそれは高所に立つプレッシャーでも危険なバンジーダイブに対するものでもない。純粋にその危険なダイブの“条件”への恐怖を顔に浮かべて彼は逃げる。それを嬉々として追いかけ回すティディアの顔は嗜虐心にも富み、内実はどうあれ、やはりそれは外から見ると単純にバンジーダイブを怖がる羊を歯牙にかけようとするサディスティックな魔女の様相であった。
 その光景に満足そうなのが、崖の上に立つチャリティイベントのスタッフ達だ。そこにはカメラがあり、指向性と集音性に秀でたマイクがある。このやり取りが、まず間違いなくイベント会場にも中継されているであろうことをニトロは悟った。きっと、スリリングな映像となっていることだろう。モニターと実際を交互に見比べながら満面の笑みを浮かべるヴィタを見ても、その出来が良く分かる。そして、その隣で芍薬が――王城からそのまま持ってきた警備アンドロイドが、臍を噛むような顔で堪えている様子からも。……しかし、一体何が芍薬を“拘束”しているのだろう?
「つうかな! 一番腹が立つのはだ!」
 次第に、かつ確実にこちらを追いつめてくるティディアを懸命に避けながら、ニトロは叫ぶ。

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