「さて、食事はどうします?」
 と、ハラキリがニトロに訊ねた。特に外食の約束はしていなかったが、練習に熱が入って時計の針はもう23時を指している。途中、カロリーブロックを齧ったくらいで他には何も食べず、厳しい“相方”の指導に声を嗄らして頑張っていた彼の腹はさぞ減っているだろうとの気遣いで、
「腹も空いたでしょう。またどこかに寄っていきますか?」
 ニトロは疲れた顔で親友に目をやり、それから板晶画面ボードスクリーンに指を這わせて台本に手を加えているティディアに目をやる。すると彼女は目敏く振り返り、
王城うちで食べていく? すぐに用意させられるわ」
 警備アンドロイドは黙ってニトロのバッグにタオルやボードスクリーンを詰めている。
「それともどこかホテルのバーにでも行きましょうか、美味しい食事を出すところを知っているから。もちろん私の奢りよ?」
「ホテルってまた下心が見え見えだな。てか、そのバーでなくても外食するって言ったらお前は絶対ついてくるだろ?」
「ご名答」
 ティディアの顔はつやつやしている。手加減抜きで演技を基礎から叩き込まれ、その代わりに体の中から生命力が叩き出された気のするニトロはげっそりとして首を振り、
「そういうわけだから、今日は家で食べるよ。悪いけどまた今度な」
「悪いことはありませんよ。拙者はあまり腹は減っていませんから」
 観客役のハラキリは市販のポップコーンを食べながら色々ダメ出しをしてくれた。同じくやはり情け容赦のないダメ出しをしてくれたヴィタは王城のシェフ特製のハンバーガーを三つばかり食べていた。ニトロはハラキリに言われてやっと空腹を自覚したくらいで、練習中もその匂いを気にせずにいたものだ。
(我ながら――)
 その集中っぷりに苦笑いが出そうになる。そして今も、腹は空いているはずなのに、いまいち空腹感はぼんやりしている。
「家に『レトルト』は残ってたよね?」
 苦笑いが頬の裏側に留まっているうちに誤魔化そうと、ニトロは荷物をまとめ終えた警備アンドロイドに振り返った。アンドロイド――芍薬は、
「御意」
 うなずきを受け、ニトロもうなずき、
「ああ、でも、空腹に耐えられそうになかったら『トクテクト・バーガー』にでも寄ってもらえるかな。テイクアウト、していくから」
 テイクアウトに力を込めてニトロが言うと、ハラキリは笑いながらうなずいた。ティディアは唇を尖らせているが、それは単なるポーズらしい。ヴィタが何かを彼女に囁いて、王女も執事に囁きを返す。変な文章がプリントされたTシャツ姿の執事は頭を垂れ、部屋から出て行った。公務の件で何かあったのかもしれない。
 この分だと予定を変えて外食にしてもこいつは強襲してこれないかもしれないな、と思いつつ、ニトロは芍薬の傍らへ歩いていく。芍薬がニトロとハラキリの荷物を両手に提げて、それから三人は部屋を出て行こうとドアへ向かう。
「おやすみ、ニトロ。芍薬ちゃんとハラキリ君も、お疲れ様」
 ティディアが言った。
 ハラキリが挨拶を返し、ニトロは片手をひらりと振って、
「じゃあ、また明日」
 と、別れを告げた。

 結局ニトロはどこにも寄ることなく、家に帰ってきた。
 韋駄天が空に上がっていく間にうとうとしかけて、それからすぐに寝入ってしまったらしい。ハラキリに揺り起こされて、ニトロはそこがマンションの屋上発着場であることを知って驚いた。記憶は馴染み深い飛行車の助手席に乗り込んだ時点で朧となっている。ドアを閉めたのは……芍薬だったろうか? 韋駄天だったか、それとも自分で閉めたんだったっけ。
「ベッドには直行しない方がいいですよ。歯を磨くのを忘れないように」
 ハラキリはそう言って、去っていった。韋駄天は空へ飛び上がると、ジジ家とは別方向に進んでいく。どこかで食事をするつもりなのか、何か所用でもあるのだろう。
(ハラキリもタフだなあ)
 やけに重く感じるバッグを肩に食い込ませ、ニトロはエレベーターで階下に降りた。家のドアの前に差しかかるとロックの外れる音がする。彼はドアを開けて玄関に入るとバッグを置き、靴を脱いで内履きに履き替えて――そこで気づいた。
 良い香りがする。
「オカエリ、主様」
 芍薬の声がして、多目的掃除機マルチクリーナーがバッグを運んでいく。
 ニトロはマルチクリーナーに先導されるように部屋の中に進んで、キッチンに温もりがあることにも気がついて、ああ、と声を漏らした。
「作っててくれたんだ」
 芍薬は何も言っていなかった。今も何も言わない。食卓兼勉強机のテーブルにはパンの盛られた皿がある。ニトロは席に着いた。マルチクリーナーが滑らかに車輪を動かして、かちゃかちゃと調理器具が鳴り、そうして大ぶりなスープ皿が運ばれてくる。
 クリームシチューだった。
 ごろっとしたジャガイモとニンジンがとろみをまとって艶めいて、良い焼き色の付いた鶏肉がぷりっとした肉感で目を刺激する。タマネギは溶けかけて、白地に鮮やかなブロッコリーの緑が映え、野菜と肉のエキスが溶け込むほの甘いベシャメルソースの香りがニトロの鼻をくすぐる。彼は急に激しい空腹感を覚えた。
「ドウゾ主様、火傷シナイヨウニ気ヲツケテ」
 口当たりの軽いドレッシングで和えられたサラダが最後にことりとテーブルに置かれる。ニトロは我に返ったようにスプーンを手にし、
「いただきます」
 彼はクリームシチューを口に運んだ。一口食べて、胸に沁み入る、ため息をつく。スプーンをまた動かし、ゆっくりと、しかし夢中で食べていく。
 パンもサラダも置きっぱなしで、ニトロはシチューをすぐさま一杯食べ切ってしまった。
「オカワリハイルカイ?」
「うん。たくさんよろしく」
「御意」
 マルチクリーナーが空いた皿をキッチンに持っていき、また満たして戻ってくる。
 ニトロはサラダを食べ、パンで口を直し、再びシチューにスプーンを入れる。
 静かな部屋に、静かに食器の触れ合う音が響く。
 衣擦れの音。
 吐息。
 一気にシチューを半ばまで食べたところで、ニトロはしみじみとつぶやいた。
「ありがとう。芍薬」

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