最近、主様は虚脱したように元気を失うことがある。
ふとした拍子に、一時の間のことだが、“魂”が抜けたようになるのだ。
理由は分かりきっている。
あのバカと『漫才』をするはめになったからだ。
あのバカの二十歳の誕生日、記者会見場であのバカの一方的な結婚宣言を止めることには成功したものの、その代償として支払うこととなった“相方”の座。
会見が行われた夜から翌昼にかけて、主様の茫然自失っぷりは目も当てられなかった。
しかし、茫然自失からの自然回復を待つ時間はなかった。
あのバカは『クレイジー』なくせして変なところで生真面目で、お客さんに恥ずかしい芸を見せられないでしょう? と翌晩から主様を特訓に引っ張り出してくれた。それ以降毎日、直接にしろ
今日に至るまで、まったく練習をしなかったのは主様の誕生日、その一日だけだ。とはいえあのバカはご両親が開いてくれた誕生日会にもやってきて、猫を被ったような大人しさと上品さで場を温めて、反対に主様の心は冷やしてくれた。
主様も主様で真面目だから、やるとなったからには恥ずかしい舞台を見せるわけにはいかないと真面目に練習を受け入れている。事情を何も知らない人から見れば熱心といっても良いほどだ。だけど『熱心』に続けるからこそ心は冷える。やるとなったからといってまだ安定しない気持ちのために搾り出されたエネルギーが燃えた後にはただただ冷たい灰が
――芍薬は、己の感情を担うプログラムの中に“苦み”を見出す。
主様の悩みを傍で見ながらも、アタシは主様を止めていない。いや、アタシには止められない。主様があのバカと『漫才』を行うことは公の場で宣言してしまったことだ。その約束を反故にすることは、すなわち世間を敵に回すことになる。現時点でそのような状況を生むのは主様にとって不利益が大き過ぎるし、また、そのような状況になれば、あのバカが嬉々として有利に立ち振る舞うのも目に見えている。それはどうあっても避けたい。そして……それに……これは忠実なオリジナルA.I.としては失格かもしれないが、主様が活躍する姿を見たいと思う気持ちがどうしてもアタシの邪魔をする。形はどうあれ主様が活躍することは、やはりどうしてもココロから嬉しいことなのだ。
主様は最近、ふと現実世界ではない場所をじっと見つめることがある。
表面上は元気を保っているが、ひどく疲れてきている。
芍薬は苦みを噛み締め、噛み締めたことで強くなる苦みを磨り潰しながら、それでも消せないマスターの活躍への期待という相反する思いを複雑に抱えて、芍薬は、だからこそ何か主のためにできることはないかと模索を続けていた。
もし、何かできることはないかとニトロに直接訊ねれば、彼は十分してくれているよと答えるだろう。
芍薬はそれを理解している。
だから考える。己の慕うマスターのために。
……だが、芍薬は思いつかなかった。
マスターの心を一気に温める秘策などあるはずがない――理性的にも合理的にも、それが結論だ。夢想にすら思い描けない。腹を据えたら主様は強いから、おそらく、初舞台を踏んだ後になれば今の心理状態は改善するだろう。きっと主様の悩みはそれからも続くだろうが、折り合いは今よりずっとよく付けられるようになるだろう。……おかしな話だが、今はただそれを、その忌まわしくも晴れがましい日を待つしかないのだろう。
しかし、同じ待つにしても待ち方というものがある。
人間の先人も人事を尽くせと言っている。それはA.I.にとっても同じことだ。
そしてこの場合の人事とは、主様にとって異常な日常であるバカ姫との関わりに対抗する普通の日常を出来る限り良く保つことのはず。色々考えた末に至る結論はいつでも至って平凡なもので、平凡だからこそ、芍薬は今夜の食事は平凡で最高なものを用意しようとココロに決めた。
さて、では何を作ろうか。
段々秋も深まってきて、平均気温は緩やかに下降し続けている。
温かい食事がいい。そして温まれる料理がいい。
――クリームシチューを作ろう。
芍薬はまだクリームシチューを作ったことがなかった。マスターも自分と暮らしている間にクリームシチューを作っていた
そうだ。ポルカト家の味をアタシ一人で再現しよう。もしかしたら特別な日に出すスペシャルなレシピもあるかもしれない。それがあるのなら、それを用意しよう。主様はきっとびっくりして、そうしたら心に居座る空虚も食事の間くらいはどこかに行ってしまうかもしれない。早速父様に聞いてみよう。
芍薬が連絡を取った時、ニルグ・ポルカトは区役所から帰宅するためバスに乗ったところで、二人は“通話・筆談”でやり取りをした。
「特別なクリームシチューもあるけれど、今日は何かの記念日?」
芍薬が疲れているマスターを労いたい旨を伝えると、ニルグは笑顔の絵文字を送ってきて、
「それなら、そんなにびっくりさせなくてもいいと思うよ。特別なことをしなくても、それより丁寧に作ることが大事だよ。丁寧に作れば気持ちが伝わるから。芍薬ちゃんのあったかいクリームシチュー、それだけでニトロは喜ぶとお父さんは思うなあ」
提供されたレシピは、びっくりするほどオーソドックスなものだった。本当に特別なことはしない。ベシャメルソースを用いて作る工程もおよそ基本通り。
「もしニトロが作ったものが冷凍されているならそれでもいいよ。もちろん自分で作っても良いけどね」
という但し書きには可愛いイラストが付いていた。そのイラストはニルグの直筆で、デフォルメされた牛だった。それに思わず微笑みながらも、正直、芍薬は拍子抜けしたものだ。失望とはいかなくとも、肩透かしを食らった気分には違いなかった。
しかし、芍薬はすぐに思い直した。
平凡で最高――そうだ、父様の言う通りだ、びっくりさせるような特別なものではなくていい、きっと平凡が最高になるのだ。
ことことと鍋が鳴っている。「ニトロはごろりとしたのが好きだよ」……そう、主様自身もそう言っていたから、鶏肉もジャガイモもニンジンもタマネギもごろりと大きく切ってある。主様のオリジナルA.I.としてやってきた頃にはぎこちなかった
弱火でじっくり煮込みながら、丁寧にアクを取っていく。ジャガイモはほくほくほろり、ニンジンはほくっとしてしっとり、鶏はモモ肉を使って柔らかく、タマネギはとろとろに、火が通ったらベシャメルソースを加えて味を調える。主様の好む味は『味覚計』に記録されているが、クリームシチューのデータはない。そこでベースはポトフを参考にし、未知の範囲はレシピとこれまで主様と作った料理全てのデータから予測した傾向に頼る。不安は残るが、きっと大丈夫。そして一度冷ます。こうすることで味の染みが良くなるという。ブロッコリーをまた別に下茹でしておいて、食べる直前にそれを加えて鍋を温め直せば完成だ。
今日の『漫才』の練習は王城で行われている。
ハラキリ殿が“観客”として付き添っていた。
芍薬の意識の一部は、もう一人の観客であるヴィタの隣に立つ警備アンドロイドに繋がっている。バカがまた馬鹿なことをしでかし始めることを警戒してモニターを続けているが、やはり変なところで生真面目なバカは真剣にマスターへ演技指導をし続けている。バカの主張によるとどうしても漫才に必要らしい。滑舌や発声等の基礎をみっちりやっていて、もしかしたらいずれはコントもと企んでいるのかもしれない。それを見ていると、主様は役者としてもやっていけるようになるんじゃないかと思えてくる。――とかく今夜も、当初の予定通りにジジ家に送迎を任せ切っても大丈夫だろう。
マスターも、真剣に練習していた。
その姿が、悲しくも、誇らしくてならない。
片目で練習の場を見つめ、片目でキッチンの鍋を見つめ、芍薬は汗をかいたニトロにタオルを渡し、芍薬は鍋の火を止める。