ウェジィは本当に店の出入りの激しい街だ。競争が激しいことなど開店する前から解り切っていた。しかし、本当の意味では理解していなかった。というよりも、夢と希望に目の眩んでいたレドランド家には理解しようもなかったのである。
開店、そして客のいない店内――という現実に、ルイーズは目を醒まされた。初めは期待に勝る心が不安に押され始めた頃、しかし、それでもルイーズは懸命に目を瞑り、目を瞑れば見ることのできる夢と希望にしがみつこうとしていた。だって、でなければ、応援してくれている夫にどんな顔で話せばいいのだろう? 失敗してもいいと言ってくれたけど、でも、とても言えない――!
その想いが、ルイーズの心をさらに鈍らせる。
初めは期待に勝る心が不安に押され始めた……ルイーズはそんな心はどこかにやってしまおうとした。まだこれからだ。まだこれからだ。まだ――
コンサルタントが言った。写真を突きつけ、
「目玉となるアイテムが必要です! この店の存在を知らしめる派手な売りが! レドランドさん! 私は夢を失った人間です、だから貴女の夢を叶えるお手伝いがしたい、心から応援しているのです、だからこそ私は貴女のために見つけてきました! どうです、このダイヤモンドは!? こんなに素晴らしいアイテムはリサ・ルジ・ガードランドでだって手に入れられない! ルイーズさん、貴女だからこそ手に入れられるのです!」
そのダイヤモンドは確かに素晴らしいと思えた。
ルイーズは悩んだ。
雨の洗った空を、赤と青の双子月が飾る美しい夜だった。
とうとうカサンドラが口を開いた。彼女は若く鋭敏な心でしっかりと不安を捉え、息せき切って言った。
「ママ、ねえ、ママ、だめだよ、あいつの言うことをもう聞いちゃだめだよ。ううん、全部聞いちゃだめだったんだよ。ほら、見て、このお店。これは誰のお店なの? ほら、よく見てよママ。こんなガラクタの中にママのアクセサリーが沈んじゃってる。ママのアクセサリーは他のどれよりも素敵なのに、照明の当て方を間違えてくすんじゃってる。このままじゃだめだよ、ママ。このままじゃママのお店は、ママのお店じゃないまま消えてなくなっちゃう。やり直そう。もう時間がないから、ママは本気の本気で『目玉』を作って。その間に、わたしがこのお店をわたし達のお店にするから。ねえ、ママ、お願い」
翌日もコンサルタントは実にうまい口車にルイーズを乗せようとした。
母が信じたのは、娘だった。
しつこく金を出させようとするコンサルタントを追い出し、彼女は一時店を閉めた。
それからルイーズは昼夜を問わず制作に没頭し、カサンドラは店を一人で作り変えた。といっても、娘は大したことをしたわけではない。コンサルタントが集めた“アイテム”を倉庫に仕舞い込んで、開店前の改装中に良く話していた内装業者に相談してレイアウトを少し変更し、ライティングを調整し、ごたごたに飾り立てるのではなくて初めに考えていたシックな調子を取り戻し、母の素敵なアクセサリーが最も映えるように飾り付ける。ただそれにだけ腐心した。
やがてルイーズは、渾身の一作を作り上げた。
娘の、そして娘への愛のため。夫と娘への感謝を込めて、そしてふがいない自身の、それでも夢を見た自分に対する意地も込めて。
ルイーズが作り上げたのはペアペンダントであった。
細やかな鎖につながれるオープンハート型のペンダントトップ。心はただ開かれているだけでなく、その内に三日月を抱いている。そしてその三日月もまた、片割れはルビーを、片割れはサファイアをそれぞれ抱いている。白金製のハートとクレセントが描く曲線は素晴らしく上品であり、母に抱かれた子のようにはにかみ煌めく宝石は可愛らしい……カサンドラは涙を浮かべて見入った。彼女は思う。母のアクセサリーの誰にも真似できないのは、この曲線だ。この曲線の生み出す品の良さ、魅惑的な美しさ。
満を持して『レドリ』は再び扉を開いた。
しかし、内装を変えただけの――と受け取られても仕方がない――店は既に敗北者として認識されていて、そこに新しい客を呼び込む力など残っていなかった。
再オープンに当たって抱いていた期待に勝る心は、早くも不安に押され始めた。
――ちょうど、その折である。
外にアピールするにはいくらか小さい窓の向こうに、こちらに興味を引かれたらしい少年が現れたのは。
だが、彼はすぐに立ち去ってしまった。
それから間もなく、大振りの
だが、彼女達もまた去ってしまった。
霊感というものだろうか? その鳥打帽の女性に去られたことは、ルイーズとカサンドラに不思議なほどの痛撃を与えた。失望が希望を押し流していき、諦めが夢の火に蓋をする。母と娘は何を言うこともなく互いに手を取り合い、微笑み、今日の夕食を何にするかと相談を始めた。そうだ、パパと一緒に、どこかで美味しいものでも食べましょう――
「ね、私の指のサイズ、覚えてくれた?」
「何度も何度もうるさいなあ」
その時、ルイーズとカサンドラは、レジスターの裏で直立不動となっていた。
「あ、これなんて手ごろなお値段よ? このカーブが、ほら、素敵じゃない?」
「だからうるさいっての」
「素敵だとは思わない?」
「それは否定してないだろ?」
「ふふ、私達、趣味が合うわねー」
「そういう話もしてないよな?」
ルイーズとカサンドラは、レジスターの台の下で互いの手を固く握り合っていた。どちらの手も汗でびっしょり濡れている。小さな店内には三人の客がいた。一人は少年で、一人は獣人、もう一人は大振りの
しばらく前に店を覗き、そして去っていった三人が一緒になって戻ってきた。そして三人が扉を開けて店内に足を踏み入れてきた時、母と娘は押し流されたはずの希望が戻ってきたことを喜び、直後、心臓が止まるかと思った。それから未だに二人の顔には血の気が戻らず、胸元まで真っ青である。
彼女は、もはやその正体を隠していない。
彼女は、その大振りの鳥打帽を被った美女は……ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。この
少年は少年で『ニトロ・ポルカト』だった。獣人の女は誰だか判らないが、王女のボディガードに違いあるまい。彼女は扉の傍らで後ろ手を組み、店内で物色する主人とその『恋人』を見つめている。
「大体なぁ」
少年は腕を組んできた“恋人”を鬱陶しそうに見やり(狭い店内で暴れると商品にダメージが行きそうでニトロはティディアを振りほどけない)、ため息混じりに言った。
「お前はもう、決めてるんだろう?」
王女はもたれかかるように『恋人』の腕に胸を押し付けて、ただ微笑する。その微笑みを向けられた当人でもないのに、ルイーズとカサンドラは魂を奪われたような気がして息を飲む。
それに……
それに――今、ニトロ・ポルカトは何と言った? 決めている?
「あ、これなんてリセお母様に似合いそうじゃない?」
王女はイヤリングを指差す。精緻な薔薇の花の形をしたものだ。少年は目を移し、
「……」
「ね? 私達、やっぱり趣味が合う」
少年は、何故か、苦々しい顔をしている。いや、きっとこんな人前で――と思っているのだろう。彼が照れ屋だということを母娘は知っていた。
「そういえば、ニトロは『グッドラックマン』は読んだ?」
唐突な話題に、少年が怪訝に眉根を寄せた。
「何、急に?」
「読んだ?」
「……読んだけど……」
それは数年前に大ヒットしたマンガである。社会現象と言っても良かった。
「面白かった?」
「……面白かった、って言ったらお前は『私も』って言うつもりだろ?」
「んふふ」
「…………面白かったよ。夢中で読んだ」
「じゃあ『デスペラード・マイノリティ』は?」
王女がまたマンガのタイトルを言う。ニトロ・ポルカトは困惑顔だ。予想外の展開らしい。
「――それも、読んだ。面白かったよ。いや、面白かったっていうより、心にきた、って言った方がいいのかな」
「私も。でも、その作者の次の作品にはがっかりしたわ」
「……『グッドラックマン』の作者の次のは、今も面白く連載を追ってるよ」
「ということは、ニトロもがっかりしたのね?」
「……」
「んふふ」
王女は嬉しそうに笑う。少年は仏頂面だ。二人は店内を歩き、王女は少年に絡めた腕とは逆の手でビーズのネックレスを持ち上げる。ルイーズが子どもでも手の届くようにとどうしても置きたがった、安価なシリーズだ。もちろん、だからといってビーズの質もデザインも子ども向けにとは思っていない。もしそう思ったら、その時点でそれは“子ども向け”にもならなくなってしまうだろう。――それを、元の位置に戻しながら、
「あの作者ね、女遊びに狂ったのよ」
「は?」
「大ヒットして、調子に乗って、大勢の女の子をはべらせて、金銀宝石で滅茶苦茶に踊らせて、この世の王者を気取って折角の自分の
「……」
ニトロ・ポルカトは王女を見つめる。その実例を出した『箴言』に、じっと彼女を見つめる。
「ニトロは、心配ないかしら?」
ニトロ・ポルカトは、王女にじっと見つめられ、やおら苦笑する。あんなに魅力的な瞳に凝視されても平静を失わず、むしろ王女の本心を見透かしたように言う。
「俺の心配をしても、そりゃ的外れだろう?」
王女は、笑った。
ルイーズとカサンドラには理解できない心の通じ方で、王女は『恋人』に笑いかけている。二人が互いに握り合う手の平が、その温もりを感じ取ってまた汗を滲ませる。
やがて痺れを切らしたかのようにニトロ・ポルカトは王女を引っ張って歩き、ある地点で止まった。母娘の胸が激しく鳴った。
「俺も、これがいいと思うよ。ミリュウ様に良く似合うと思う」
ニトロ・ポルカトが示したのは、あのペアペンダントだった。
母娘は息を詰めてその光景を凝視した。目の奥が痺れる。喉が痛い。鼓膜が破れそうだ。心臓が頭の中で繰り返し爆発している。
王女は、ああ、あのティディア様がうなずいた!
「これをいただけるかしら?」
ティディアにそう声をかけられたルイーズとカサンドラは、青褪めていた顔を歓喜のために真っ赤に染めた。その双眸に涙が溢れる。
「はい!」
応えたのは娘である。母は、声にならない。
「はい、ティディア様、ありがとうございます!」
娘は大粒の涙をこぼして泣いていた。つられて母も涙を流す。ニトロ・ポルカトは事態についていけずに戸惑っていた。一方で王女は実に楽しそうに微笑んで、扉の傍らに立つ獣人へ指示を出している。獣人が母娘の下にやってくる。
「サファイアをミリュウ様のお誕生日のプレゼントにいたします。ルビーはティディア様に。どちらも包んでいただけますか?」
「――はい、はい、光栄です、本当に光栄です、信じられません、ありがとうございます」
止まぬ歓喜と感激とに震え、嗚咽にも似た声を懸命に絞り出し、カサンドラは何度もうなずきながら母を促す。
ルイーズも何度もうなずき、一度バックヤードに入った。すぐに戻ってきたが、その時には涙を止めていた。洗ってきた手に白い手袋をはめ、震えながらペンダントをそれぞれ特別なケースに入れる。手袋を外し、震える手で必死にラッピングする。娘はまだ泣いている。薬指の結婚指輪もまた滲んでいく。
レドランド親子にとって、『レドリ』にとって、この日は忘れられようもない記念日として、いついつまでも燦然と輝き続けた。
終