それは文豪アデマ・リーケインの作。翌月には顔も知らぬ男に嫁ぐ、弟のように思っていた少年を男性として意識しだしてしまった少女と、三つ年上の少女を姉のように慕いながら、思春期に入り女性とも意識しだした少年との、触れ合いながらもすれ違う恋慕を描いた秀作――『麦の穂』。
 作中の二人と同じ年齢差の『恋人』が語らうには、たまらないものがある短くも濃密な一編。
「最近の研究で、アイントからマナランへの道すがら、馬鹿みたいに300年も続けている『赤字馬車』の中で一気に口述筆記したことが判ったそうよ」
 広場が、どよめいた。
「文学の論文にまでアンテナ張れとは言わないけどね」
 言外に自分達の町の名くらいにはアンテナを張れと含めるティディアの視線を引き戻すように、ニトロはため息をついた。
「それで最後の方は『まき』で進めさせたのか」
「どうせなら書いた時間に合わせたいじゃない?」
「解らないでもないけどな」
 ティディアは微笑む。そして、
「それにしても」
 ふいに不機嫌な様子で口を尖らせた。
「何で昨夜、黙って一人で出歩いたのよ」
「何だよ、悪いか?」
「悪いわ。私だって一緒にグリルチキン食べたかった! 何あの屋台、倉庫街の隅っこに出してる程度のくせに、何あのスパイス効いたトマトベースのソースに漬けこんで焼き上げるジューシーチキン!」
「……え? 何でお前、俺が食べたもの知ってんの?」
「つけてたからにきまってるじゃない!」
「ストーカーか!」
「あんまり寂しいからついニトロが食べたチキンの骨持って帰ってきちゃったもの!」
「てか性質の悪いストーカーそのものでした!?」
「骨だけ舐めてもあんなに美味しいものを一人で見つけるなんてズルいわ!」
「いや待て言葉も変だしそれより舐めたの? お前、まさか本当に舐めたの?」
「しかも何だか同席したおじさん達と仲良くなっちゃってさ! 私がどれだけ寂しい思いをしたと思ってるのよニトロのバカ!」
「バカぁ!?」
 バカ姫にバカと言われたニトロは至極心外とばかりに怒声を上げた。
「言うに事欠いてバカぁ!? お前にだけは言われたくないわ!」
「言われたくないんなら再来年私も連れてってよね! えーっと」
 と、突然ティディアが広場を見渡し、
「そこの屋台の爺さん! だから医療費ケチらず腰を治して絶対にそれまで店を続けてなさい! 保険も利くから! ついでにその借金、違法性があるから諸共そこの市役所まで要相談!」
 ビシッと伸びた彼女の指の先、広場に集まる人の隅っこで一人の老人が硬直した。
「それからそこのオヤジ! 速度違反の自慢なんかしてないでニトロに言われたとおりに安全運転! 彼と黒ビール飲みながらあのチキンを食べる約束、事故なんかで破ったら墓の中まで罰しにいくから!」
 改めて王女が指差した群集の中心部から、反射的に上擦った声が返る。
 驚くべきティディアの視力、そして識別能力であった。
 やや遅れて老人が声を――涙声を張り上げ返答し、クレイジー・プリンセスは満足げにうなずき、
「約束の頃には、あの寂れた倉庫街でフェスティバルなんか開けるようになっていたらいいかもしれないわね」
 ふっ――と、広場のどこかで鋭い吐息が漏れた。するとそれに刺激されたかのように、そこかしこでクスクスと笑いがこぼれ出した。
 やがて小さな笑いの起こりが大きな笑顔を引き寄せ、恐ろしくも親しみある王女様の偏屈な激励に、マナラン市役所前広場は愉快げな声と歓声に包まれていた。
 いつの間にか哀れみではなく笑いを起こせる道化クラウンに変じていた、ショッキングピンクの髪のゴールデンボーイ。最初から最後まで強烈なクレイジー・プリンセス。二人にくすぐられた町の長所が腹を抱えているようでもあった。
「さて」
 と、頃合を見て、ティディアが言った。
「それじゃあこれで気兼ねなく大便女の像を建てられるわね!」
「まだ造るつもりだったのか!」
 一仕事終えたつもりで気を緩めていたニトロが、半ば反射的にティディアをすっぱたく。
「当たり前よ!」
 叩かれたティディアが怒ったように言う。
「さっきも言ったけどこの町には売りがないんだから!」
 ニトロは首を傾げた。
「何言ってるんだ? さっき色々……」
「『売り』は、人を呼んで、かつて呼んだ人をまた呼び寄せられてこそ本物。さっきのは売りになりそうなだけでまだ『売り』にはなれていない」
「それは……そうかもしれないけど」
「それに今の話だけでどれだけ集客できるかしら。集客力の差もどう? 私の案は話題性は抜群で、しかもそれなりに長い月日をここに居座れる」
「いずれ飽きられるにしても、定番になるにしてもか」
 確かにそう言われてしまうとティディアの言い分に勝てるだけの材料がない。
 再び広場の活気が減りつつあることを肌で感じ、焦燥を覚えたニトロはふいに思いついたことをそのままティディアに投げつけた。
「分かった。大便女、了解だ」
 つい直前まで笑いに包まれていた広場が、悲鳴と抗議に包まれた。
「ただし!」
 騒ぎに負けずニトロは声を張り上げた。それはマイクを通して音の爆弾となり、爆発し、広場を一瞬にして沈黙させた。
 壇上にあってはマナラン市長ら名士を脇に置き、ティディアと並ぶ存在感で彼は言う。
「でっかいのは止めよう。逆にアデムメデス一小さい像にしよう。精巧なのも止めだ。意味がない。むしろそんなに小さいのに芸術的な彫刻である方がいい。便座は最古の形でもちろん有色。そして、そこに埋め込む」
 ニトロが指差したのは、市民達の足元。
「そんなの、それこそ意味ないじゃない」
 広場を一瞥するティディアにニトロは肩をすくめ、
「見つけられたら幸運が訪れるってことにすればいいんじゃないか? 定期的に位置も変えてさ」
「『ことにすれば』って、それもそう言っちゃあ意味がなくない?」
「意味がないことも意味があるようにするのは得意だろ?」
 問い返され、ティディアはうつむいた。2秒後、顔を上げた彼女は満面に笑み、
「確かにそうね」
「だろう?」
 と、ニトロがうなずいた、その瞬間。
 スッとティディアが顔を差し上げ、ニトロの唇に唇で触れた。
「ッ!?」
 ニトロが目を見張り後退りすると同時、これまでで最大の歓声が広場に沸き上がった。
 歓声の中、ティディアが自分の紅が薄く移ったニトロの唇を見つめる。それに気づいたニトロが唇を拭おうとするが、しかし、ティディアの鋭い眼差しが彼にそうすることはならないと強く警告する。
 ニトロはティディアを睨んだ。照れるなと声が飛ぶ。
 ティディアは唇を動かした。それが何か恋人への甘いセリフと見えたか、もう一度と声が飛ぶ。
 ニトロは、やがて観念した。ティディアが示したのは甘い言葉などではない。『謂われよ』――そう、彼女は彼の希望に応えたのだ。
「決定のキス、ね」
 歓声が薄まり、ティディアの声が皆に届く。
「それも公の場で、私達がした初めてのキス。ふふ、像を見つけてから『決定』のキスをした恋人達は、私達と同じね」
「……」
「私がモデルの大便女にはインパクトで負けるけど、まあ、良いところかしら」
 ニトロはおよそ無表情にティディアを見つめ続けていた。周囲にはそれが真剣な表情に取れ、真正面から彼を見つめ返す彼女にはもちろん彼が文句を噛み殺しているのだと知れた。知った上で、彼女は軽くウィンクをし、
「サービスしすぎちゃったわね、マナランに」
 ティディアのあくまで『悪びれぬ態度』にニトロは、ついに肩を落とした。
「まったくだ」
 その承知が発せられた瞬間、先にも増して広場に歓声が轟き、拍手が鳴り響いた。
 ニトロの承知は、皆の承知。
 とんでもない提案を皮切りにして、しっちゃかめっちゃかに振り回してくれたクレイジー・プリンセスの『演説』も最後は平和に収まった。
 鳴り止まぬ拍手と歓声の中でティディアは微笑を称えて手を振り皆に応え、促されてニトロもぎこちなく手を振る。
 数分も続いた喝采の最中、ニトロとティディアは幾度も目と目を合わせた。目と目で語り合った。わずかな表情の変化と取り合わせ、
『――よくも都合良く利用してくれたな』
『期待以上だったわ』
『いけしゃあしゃあとコンチクショウ。しかも全部アドリブってどういうことだ』
『必死だったわねー』
『必死にもなるわ』
『恋人のお尻を晒させないため?』
『断じて、お前のためじゃねえ』
『そうね。皆のため』
 二人を包むのは、改めて自分たちの町への情を温める人々の高揚感、そして、歓喜。
例え希代の王女の助けがなくとも、自ずから黄金となるであろう輝き。
『……いけしゃあしゃあと、コンチクショウ』
『これだからニトロ、大好き』
『これだからお前が大嫌いだ』
 彼と目を合わせるごとに微笑みを増す王女。
 彼女と目を合わせるごとに頬を動かし応える少年。
 端から見る限りは真に目と目で語り合う恋人に他ならず、いつしか場には二人への祝福までもが溢れていた。
 やがて、未だ歓声と拍手が残る中、ティディアは締めの言葉を結ぶために演壇に立った。
 彼女の言葉を聞くために、皆、静まり返る。
 希代の王女は歓びの余韻を残す広場をゆっくりと見渡し――と、突然、
「あッ!」
 ティディアは大声を上げたかと思うと勢い良くニトロへ振り返り、そしてまじまじと彼を凝視した。
 その様子はあまりにただ事ではなく、そのため緊張が走った。
 まさか、またクレイジー・プリンセスは妙なことを言い出す気じゃあるまいな?
 疑念と困惑の沈黙が広場を支配し、ニトロも戸惑いの目を投げる中、ティディアは叫んだ。
「ニトロ! あなたの出番はまだ後よ!?」
 刹那、ニトロの手がティディアの頭をスパンと叩く。
「今更かい!」

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