花よりナントカ

(第一部 7のちょっと後 『ハラキリ・ジジの8分の1日』・『おみくじ 大凶』の前)

 嵐のような『映画』撮影が終わってから、三週間。
 その間にニトロ・ポルカトは高等学校第二学年へと進級し――都合良く『映画たたかい』を共にした『戦友』と同じクラスになったことを非常に胡散臭く感じながら――かつ数日おきにやってくる王女からの極秘デートの誘い(不可避)を非常に迷惑に思いながらも、彼は意外にも平穏な生活が続いていることへの歓喜を胸に日々の暮らしを営んでいた。
 ……いや、歓喜を胸に、平穏な日々を噛み締めていると言ったほうがより正確であろう。
 彼は理解していた。
 その平穏が、新たな嵐の前の静けさに過ぎないことを。
 そしてその新たな嵐の勢力が文字通り死ぬ思いを味わわされたあの『映画』が足下にも及ばぬほどに強力で、その上とてつもなく面倒な性質で、さらに厄介で鬱陶しくて、加えて長く長くなっがーく頭上に停滞してしまうことを。
 だから、ああ、だからせめて今だけは――と、ニトロは思う。
 あの王女様が我が身を放っておいてくれたら、どんなに幸せなことだろう!
 あの王女様が、いちいち『映画』の試写が行われる度に製作スタッフを寄越して参加したくもない上映会に事実上無理矢理参加させてこなかったら!
 あの王女様が、時に自ら、時に直属の人員に我が身を攫わせ、その上でぬけぬけと『デートしましょ♪』なんて笑顔でぬかしてこなかったら!
 しかもあのバカ姫! そのデートときたら『まだ恋人の存在を報せないため』とかぬかしやがって人目のつかぬところで二人きり――ッ
「毎度毎度腹を空かせた肉食獣・ザ・自由暴走フリーダムを目の前に食うメシがどれだけ不味いか知らないだろ!! と、ニトロ君は嘆いていましたねぇ」
 過去、この星を制した覇王が最後に築いた王城。
 その地下にある『天啓の間』と呼ばれる一室にて、現在この星で最も大きな“力”を有する王女と二人きり――という、政財界の大物のみならず、裏社会の首魁であっても掌に汗を滲ませる状況下にあって、小さなテーブルを隔てて第一王位継承者と対座する少年は不遜と取られても文句の言えないほど気楽な態度で続けた。
「天下に名高い“デゴドルドナ”のローストビーフも、“ア・ロンシェリ”のクロブラットボルチェも“ソースルー”の十七層サンドイッチも『眉間に銃口突きつけられた毒見係の気分ってこんなんかなーとしか思えなくて、味の記憶と品の記憶が一致してない』そうです」
「例えば?」
 飄々とした調子の声を後押すように、華やかな声が星明りを透き抜けた。彼女がかすかに首を傾げると、美しい黒紫の髪の先が星屑に触れる。胸元が大きく開いた黒のチュニックワンピースから覗く肩と鎖骨のラインが星影に濡れ、肌は白磁の陶器人形にも通じる妖しさで、その肉感は、折に触れて人の情を悪戯に刺激しようと手を伸ばしてくる。
「ア・ロンシェリで飲んだコンソメスープがブロッコリー味、デゴドルドナの白桃のシャーベットは肉汁たっぷり、十七層サンドイッチは味がしなくて粘土を食っていた感じ――」
「それはちょっと……面白いわね」
「ええ、これは何とも興味深いもので」
 少年――ニトロ・ポルカトの『戦友』ことハラキリ・ジジの報告に返された王女の微笑みは、無数の星が生み出す薄明かりと薄暗がりを浴びて元より備わる魔的な魅力をより増しに増し、そこに誘惑や恋慕の情が込められてはいないと解っている者に対してさえも、まさに欲望の根幹を握り止められた実感を味わわせるものだ。
 そして自心に起きているその欲望の根幹を握りとめられたかの錯覚を、客観的に自身が語ったばかりの友達に起きた心理現象と併せ並べて観察しながら、
「人間の心理は面白いものだと、改めて思わされましたよ」
 ハラキリはそう感想を述べて、話を締めくくった。
 それから一つ息をつき、彼は眼前に置かれたティーカップを持ち上げて馥郁とした香りを鼻腔に送った。ひとしきり香りを楽しむと幽かに渋く仄かに甘い銘茶を口に含み、穏やかな熱を喉の底へと滑り落としてもう一つ息をつく。
 彼は目を対面に座す蠱惑の美女から、彼女の背後の壁へと移した。
 この『天啓の間』には、角というものがない。四方の壁、天井、床、それら全ての境界が丸みを帯び、さらに床以外の全ての面は平面を成さず、部屋全体としてはおよそ半球を模っている。また、全ての面に用いられている石材は純粋な黒色で、艶もなく、灯りで照らし出してもなお黒い。それだけでこの地下室は形も資材も城一番に特異なものであるが、しかしここにはそれよりももっと特異で最も特殊な特徴があった。
 壁、天井、床、その至る所に『星』が埋め込まれているのだ。
 光を当てても暗い岩肌に、一定以上の熱を帯びると弱光を放つ雷蛍石ライトライトという希少な石の大小が細かく緻密に散りばめられ、色も輝度も様々に加工され――まさに天空の星のごとく地下に輝いている。
 アデムメデス城の設計の折、覇王は選び抜かれた科学者と石工らに命じた。陽光届かぬここに宇宙を作れ、できなくば処刑する――と。
 それは当時の科学技術レベルからして、明らかに無理難題だった。完成品への王の要求も高く、日夜もない過酷な環境のために心身を壊した者や脱走を試みた者が次々と殺されていく中、彼らの艱難辛苦はいかほどのものであっただろうか。
 しかし、彼らは王に、覇王の要求に負けることはなかった。
 まだろくに電気への理解がない時代に発電方法を発見し電熱線の発明までこぎつけ、後にアデムメデス科学史において『悲劇にして奇跡の十年』と呼ばれる期間に、当時において画期的な技術をいくつも発明し、あるいは発見し続け、彼らは史上最も凶暴な王に課せられた使命を見事に果たしてみせた。
 ――そう、ここは宇宙だ。空を超えて切り出し運ばれてきた宇宙空間
 ハラキリの瞳には、銀河を背負う王女の姿がある。
 配線の妙で星たる雷蛍石の微細粒子は常に茫々と揺らめくように輝き、計算され尽くした星の配置が何万光年の遠近感を生じさせる中、無尽の光点は銀河が極めて緩慢に蠢いているかのごとく視野を騒がせる。
 『王』が背にする他に銀河はない。
 しかし撒かれた星々は銀河を浮いた存在にすることはなく、むしろ銀河がそこにあることこそが自然だと主張する――宇宙に散らばる大小様々な星々は、銀河をこそ支えるためにあるのだと。
 そして星々の支持を受ける銀河は、それを背負う『王』を讃えて煌めき、己を背負うこの者こそが『王』であると神に代わって認めている。また『王』を讃えて煌めくことによって、神の代理である銀河わたしすらもこの者に従うために存在するのだと宣言している。
 長くこの部屋にいる者は、しだいに自身が本当に宇宙に浮かんでいると錯覚するだろう。
 広大な宇宙には小さなテーブルと共に、『王』がいる。銀河ぎんがに祝福を受ける『王』とそれを見る者――つまり自分だけが、それだけがいるのだ……と。
 やがて広大すぎる宇宙は足場のない孤独を人に感じさせるだろう。
 頼れるもののない浮遊感、絶望にも似た虚空。
 美しい星々の輝きは冷たくて、心は凍えて縮こまる。銀河の中心核から音もなく轟いてくる圧倒的なエネルギーに、魂は怯えて跪く。
 そこにいるのだ、が!
 銀河を双肩にまとう王の瞳には星が散らばる。
 王の瞳孔は星の光を返さず奥知れない威を帯びる。
 頼れるもののない宇宙の中で、確固とした磁場を持つ存在がそれを見る者を震わせる。
 ああ、王よ! 王を見る者は、王に見られる者は、終には思う――王よ! どうか、どうかお守り下さい! あなた様の庇護がなければ、矮小なる私はこのままどこの果てへと飲み込まれてしまいます!
(……なるほど)
 ハラキリはお茶を飲み干し、思った。
 歴史の語るところによれば、初代覇王は当時大きな勢力を誇った四大宗教の主らとこの部屋で順次会談し、そして一人残らず『我らの宗派』――今では『アデムメデス国教』と呼ばれる――に改宗させたという。
 このことは、歴史……とはいえ今となっては時が脚色を加えた伝説……あるいは覇王神話とでも言うべきエピソードだろうとハラキリは思っていたが、実際にこの部屋の空気を吸ってみると、確かに史実もさもありなん――と考えを改める。
 世界制覇を成し遂げた王者と二人きりでこんな所に長時間閉じ込められれば、そりゃあ何か聞こえちゃいけないものも聞こえてしまうだろう。それが強い信仰心を持つ者であればあるほどに、真に『神の声』を聞いたと断じることもあり得るだろう。
 一昨年、東大陸最大の違法薬物組織が壊滅した際、内部情報をリークしたのは組織のボスその人であり、かつ彼から情報を引き出したのはかの『クレイジー・プリンセス』だという噂が裏社会に流れたが……それも本当かもしれない。聴取の舞台はまさにこの天啓の間であったというし、さらに獄中にいる組織のボスは今や狂信的な『ティディア・マニア』になっているとの事だから。
「ねえ、ハラキリ君?」
 たった一室が持つ力への感慨に耽っていたハラキリは、ふいに怪訝な声をかけられて目を王女へ戻した。
「何だか、一仕事終えた後のお茶は美味い――みたいな顔をしているけど」
 とうとう我慢が出来なくなった、とでも言いたげに彼女は言う。
「ええ。あ、もう一杯いただけますか?」
「ええ、じゃなくて。何か大事な話を忘れてない?」
 怪訝な声を少し険のある声に変えて言いながらも、ティディアは茶葉と茶器をてきぱきと扱って茶を淹れた。ティーポットの口からわずかに黄金を帯びた甘露を客のカップへ落とし、こちらの問いかけに訝しげな顔を返してきた少年にさらに言う。
「君はそんなに察しが悪かったかしら」

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