すでにニトロは、ビーチパラソルの下にあった金棒を手に取っていた。硬く堅くずしりと重いそれを握りこむ手の甲には血管が浮き、前腕は膨れ上がっている。
ヴィタは、これは危険だとその場から離れた。
シートの上に取り残された巨大なスイカは、心なし震えているようだった。
何を言わずともニトロには解る。
このスイカ、『あれ? 予想以上に怒ってる。予想以上に危険じゃない?』と、今になってようやく間違いに思い至ったのだ。
だが――遅い。気づくのが遅すぎる。
「本当は」
ハラキリがニトロから離れながら言った。腕を組み、他人事のように哀れみをその声に滲ませて。
「目隠しをして、連帯を深めるために周囲の助言を受けながら割るそうなんですが……まあ、別にいいですかね。とりあえず割る時は『ちぇすと』と叫ぶのが習わしです」
「おっけぇぇえい」
ニトロが目の細かい白砂を踏みしめスイカに歩み寄る。
殺気を感じてスイカが心なしでもなんでもなく激しく震え出す。
ヴィタとハラキリは並んで……それも『スイカ割り』の習わしなのか両手を合わせて拝んでいる。
ニトロは、金棒を大上段に構えた。
その時だった。
スイカが、立ち上がった!
その『底蓋』をぶち抜き出た足――内に納まるための姿勢が無理を呼んだらしくどうにもこうにも膝上までしか表に出せずにいる脚で懸命に立ち上がり、そうしてスイカは全速力で逃げ出した!
「待てやお馬鹿スイカ!」
それを金棒ぶん回してニトロが追う。
足を取られる砂の上。
いかに中身がくり抜かれているとはいえ大きなスイカは皮だけでも重い。そのうえ中腰で膝の曲げ伸ばしだけでちょこちょこ走る有様。いかに天性の筋力・天性のバネを総動員して『彼女』が駆けても――それにしては驚くべきスピードで逃げているが――もちろん逃げ切れるわけがなかった。
波打ち際、逃げるお化けスイカにニトロが追いつく。
彼は両手に握った金棒を振りかぶり、そして、跳んだ!
「ちぃぇすとおおお!!」
雲の白も鮮やかに。
輝く太陽。
透き通る青空。
砂粒細やかな白浜には穏やかな波がくつろいで、透明度の高い海にはエメラルドとサファイアが溶け込み、すっと続く白浜は沖に向かうに従いやがて消え、その先から外礁に向けては鮮やかなる珊瑚の彩り。
嗚呼、常夏の島。
ニトロはビーチパラソルの下でビーチチェアに腰かけ、携帯電話のモニターに映るユカタにポニーテール姿のA.I.と言葉を交わしていた。
連絡をした時、芍薬はニトロを迎えに走らせていた車をちょうど空港の駐車場に停めているところで、だからこそ現在の状況を聞かされた時には慌てふためいていた。
――無理もない。
怒りが先立ちニトロは時間を気にしていなかったが、予定では帰りの便がそろそろ王都に着く頃だ。本来ならそれに乗っているはずのマスターから連絡がなくても特別おかしいことではないし、『何かあったのでは?』と不安を抱くには時が短すぎる。
それなのに芍薬はティディアの企みを察知できなかった不明をニトロが困るくらいに恥じ入り詫びた。バカ姫と共謀してニトロを騙した元マスターへの怒りも相当なものだったが、しかしお馬鹿スイカの末路を見た後はすっかり落ち着き、今ではニトロに満面の笑顔を見せている。
「――うん。そうだね。せっかくだから楽しんで帰るよ。
ああ、車はそこに停めておいて。そっちに着く時間はまた後で連絡するから。うん、よろしく」
芍薬との会話を終えて通話を切り、ニトロは傍らに控える女性に言った。
「そういうわけだからさ、ヴィタさん、どこかで水着とか売ってないかな」
「水着・遊具、全てこちらで取り揃えてあります」
ヴィタは先ほど使用人が運んできた大きなアイスボックスを開けて「どちら」と眼でニトロに促し、指し示された『お化けスイカ』の本当の中身がふんだんに使われたフルーツポンチを器によそって彼に手渡した。
「……それにもこれにも、他にも何か仕込んでるってことは?」
「ありません」
「嘘だったら金棒持って暴れるよ?」
「どうぞ、その時はご遠慮なく」
「…………分かった。信用する」
「ありがとうございます」
ヴィタは応えながらも、落ち着かない様子でちらちらと波打ち際に目をやっている。
そこにはスイカ柄のヘルメットを被りその果肉に似た赤色のビキニを着た女が一人、転がっていた。仰向けに大の字に、それは何度も波に洗われては揺れている。
「駄目だよ。あれはあのまま頭を冷やさせないと」
「ですが……」
ヴィタは困ったように眉を垂れている。一応主の生存を確認しているとはいえ、それにしたってあまりに動かないから不安になってきたのだ。
「大丈夫だって。あれは死んだフリだから」
ニトロは困り顔のヴィタに軽く首を傾げてみせ、一つ声量を上げた。言葉はヴィタに向けたまま、その実意図は外へ向けて、
「あいつが体に
ぴくりと波打ち際の女が反応した。ぐっと拳を握っている。何を言わずとも解る。錘があれば動きは鈍るし、大きな浮き輪があればそれが邪魔になってニトロにじゃれつくこともできまいが、それでも少しでも海で楽しめるのなら『それはそれで良し』と思っているのだ。
「ほらね」
そう証拠を見せられニトロに微笑まれては、ヴィタは降参するしかなかった。
「ハラキリ」
ニトロは大人しくフルーツポンチをよそって食べ出した女執事からハラキリに目を移した。
スイカシロップのカキ氷を手にした友人は、うつむき震えていた。
「ハラキリ?」
「っあー、キーンときたきた」
「聞こえてる?」
「ああ、はい、なんでしょう」
「それで結局、あれは吉凶で言うと何だったんだ?」
ハラキリはニトロの指が示す方向に目をやり、相変わらず波に洗われているティディアの姿をしばし観察し、ふむとうなずいた。
「結局のところ嬉しそうなので、吉じゃないですか? アデムメデスはきっと平穏豊作ですよ」