――……
「――」
 早朝、まだ日も昇らず、A.I.に告げた時刻よりも早くに目を覚ましたリオは、夢の中で涙を流していたことを知った。
 もう、王城に戻りたいとは思っていない。
 側仕えに戻りたいとも思っていない。
 今は自分の夢……美味しいお菓子を作ってたくさんのお客様に喜んでもらうことしか考えていない。
 なのに、どうして。
「……ティディア様」
 分かっている。
 涙の理由は。
 なぜ、ティディアに突然切られてしまったのか、それが納得できないからだ。
 ティディアは同僚が努力のあまりに病み、退職した時、自ら同僚に労いの言葉をかけにきて、治りその時また働きたかったら戻ってきなさいと言って、微笑んだ。
 その笑顔は本当に美しくて。
 年下であり、同性であるのに王女の微笑は――そう、心を奪った。
 リオはティディアを、それは思慕とも思えるほど強く、敬愛していた。
 恐ろしく、厳しくも、『頑張っていれば』ちゃんと認めてくれる……もちろん頑張っていれば無条件に全てを認めてくれるわけではないが、精一杯その人なりの成果を見せれば、それはしっかり認めてくれる――
 所詮『称号貴族ペーパーノーブル』の娘で、たまに『貴族』のパーティーに呼ばれても疎外感しか味わうことのなかったこの身にも、王城に出入りする貴族達と変わりなく接してくれたあの王女を。
 ……せめて、クビを言い渡された理由くらいは知りたかった。

 朝の作業も一通り終え、開店時刻が迫った頃、店前を掃除していたアルバイトの少女が泡を食って店内に飛び込んできた。
「どうしたの?」
 ショーケースに商品を並べていたリオは目を丸くして何かを言おうとしている少女を見た後、彼女が指し示す入口に目をやり、そして少女と同じように目を丸くした。
「ティディア様――」
 驚愕に漏れた吐息が、晩夏の光を背負い店へ入ってくる女性の名を模る。
 名を呼ばれた王女はラフな服装に美しい肢体を包み、傍らにマリンブルーの瞳を持つ女執事を従え、微笑みを浮かべていた。
(ああ……)
 あの時、側仕えを辞めざるをえなかった同僚に向けたものと同じ――いや、年下の『恋人』との幸せを得た今、その時よりもずっと美しい微笑がそこにあった。
「頑張ってるみたいね」
 ティディアは目尻をすぼめて、それはまるで成長する我が子を見るような眼で、かつて己に仕えていた女性に言った。
「評判良いみたいじゃない。どんどん口コミが広がってる」
 毎日耳にすることはできる……しかし直に聞けば身を貫き心に触れてくる華やかな声が、懐かしくリオを撫でる。しかし彼女にはそれを懐かしいと思う余裕も、姫君のセリフが意味することを考える余裕もなく、とにかくどうすればいいのかと混乱していた。
 背筋を伸ばし起立をするのはおかしい、かといって側仕えをしていた時のように振舞うのも奇妙だ。では膝をつき頭を垂れるか――
「楽になさい。かしこまられるとつまらないわ」
 ティディアは笑って言った。
「まだ開店してないみたいだけど……パウンドケーキ、いただける?」
 その注文に、リオは否も応もなくうなずいた。

 店内のテーブルで女執事と一緒にパウンドケーキを、それから他のオリジナルのケーキもいくつか食べた王女は、
「うん」
 と、満足げにうなずいた。
「どう? ヴィタ」
「将来が楽しみです」
「んふふー。本当にねー」
 笑顔絶やさず言うティディアのセリフに、リオは戸惑いを深めていた。
「あの、ティディア様……」
「ん?」
「本日は……」
 躊躇いがちに質問しようとするリオは、そこで言葉につまった。
 何用でしょうか? などと姫に問うのは失礼ではないだろうか。
 口をもごつかせるリオの様子に彼女が何を問いたいのか察したティディアは、軽く手を振り気楽な口調で答えた。
「ああ、唾を付けに来たのよ」
「……つば、ですか?」
「そ」
 ティディアは目でヴィタに促した。
「こちらを」
 ヴィタがポーチの中から取り出したメモリーカードのケースをリオに渡す。リオは、戸惑いながらもそれを受け取った。
「これは?」
「その中のデータをA.I.に持たせて王家に連絡をすれば、『上』のものに直接通るわ。これから先、何か困った事があったら頼りなさい」
「――そ!」
 リオは息を飲んだ。
「そんなとんでもない!」
「何言ってるのよう。私の側仕えしてたくせに、水臭いわー」
 今度はアルバイトの少女が息を飲んだ。リオは王城で働いていたことを彼女に話していない。さっきから店の隅っこでこちらを窺っていた彼女の目には明らかな驚愕と、少しの羨望があった。
「でさ。まあクビにしておいてなんだけど……」
 ティディアは言葉とは裏腹に悪びれもせず言った。
「また私の下に戻ってきてくれない? そうね、何年後か、十何年後か。あなたに立派な『後継者』ができてから」
「……どういう、ことでしょうか」
 いまいちティディアの言うことが分からず、リオはおずおずと訊いた。
「だからね、あなたの店はこの後とても大きくなるわ。きっと、そうね。王都に支店ができるくらい」
 ニコニコとしてティディアは続ける。
「今あなたのお菓子を私が独占したら、皆に悪いじゃない? だから、しばらくはたくさんの人にあなたのお菓子を食べてもうわ。あなたにもとりでの中じゃできない経験をたくさんしてもらって、腕を磨いて欲しいしね。
 その後は、凄い職人になったあなたを私が独り占め。そして私は『いいだろー』って皆に自慢するのよ」
「……まさか」
 リオは、昔に比べて艶を増した王女が描く青写真を聞き、脳裡に浮かんだ気づきを打ち消すようにつぶやいた。
「まさか、じゃないわ」
 しかし、そのつぶやきをティディアが否定する。リオの心など見透かしていると告ぐ眼差しで彼女を射抜く。
「だからクビにしたの。お菓子屋やりださなかったらどうしようかと思ったわ」
 あっけらかんとしたティディアの物言いに、リオは言葉もなかった。
「あなたのパウンドケーキを食べた時、こっちの才能あるだろうなーとは思ったけど……やー、やっぱり私の目に狂いはなかったわー」
 上機嫌に言ってティディアが立ち上がり、リオに歩み寄る。敬愛する王女に目前に迫られて、リオの背が張り緊張に頬が強張る。
 ティディアは直立不動にいるリオの様子をしばし眺めた後、やがて妖艶に微笑んだ。
 底知れぬ力の漂う瞳で見つめられ、魂まで吸い込まれそうな微笑を向けられ、リオは、心臓を鷲掴みにされているような心地で息をするのも辛かった。
 このままティディアに何かを命じられたら、それがどんなことであろうと躊躇いなく実行してしまうだろう――本気でそう思う。
「突然理由も言わずにクビ切っちゃって、ごめんね?」
 ずるいなと、リオは締め付けられる胸に思った。
 この状況でそんな風に姫様に謝られては、文句の一つも言えるわけがない。
 リオは半歩下がり、王城で散々叩き込まれた作法で辞儀をした。
「とんでもございません」
「ふふ……」
 リオの優雅な辞儀を見てティディアが笑う。リオも、思わず笑みを漏らした。
「あ、全種類――」
 ティディアは店の隅で小さくなっている少女を一瞥し、言った。
「五つずつ、持ち帰りでお願い」
 王女の注文を受けた少女は上擦った声でハイと叫んだ。慌ててカウンターの中に入り、色とりどりに輝くケーキを取り出していく。
にも食べてもらわないとね。あなたの『先生』にも」
「まだまだだと、お叱りを受けます」
 リオの言葉にティディアは軽くうなずいた。自分の実力を客観視できているならいいと、そう認めるように。
「そうそう、困った事があったらって言ったけど」
「はい」
「だからって甘えちゃ駄目よ? 私は、頑張る人が好きだから」
 暗に怠けたら切るぞと、相変わらずなことを言う王女にたまらずリオは破顔した。堪えきれない笑い声が、どうしてか溢れ出す笑い声が口を割る。アルバイトの少女が不思議そうな顔をしているのが視界にかすめて、またおかしくなって笑ってしまう。
 『評判良いみたいじゃない。どんどん口コミが広がってる』
 リオはティディアの言葉を思い出していた。
 そのセリフの意味がようやく分かった。
 ティディアは自分のことを気にかけてくれていたのだ。A.I.にでも命じて、ネット上の情報を拾ってくれていたのだ。
 そして、会いに来てくれた。
 笑っている内、リオの目の端から一筋の涙がこぼれた。一筋の涙を追って、彼女の双眸から涙がとめどなく溢れ出した。
 リオはやおら笑いを鎮めると、姿勢を正し――涙を流したままティディアに頭を垂れた。
「はい、ティディア様」
 姫様は、この涙を何だと思っているだろうか。
「お約束いたします。いつかまた、必ずティディア様にお仕えすることを」

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