フォーロブは自分が『ニトロ・ポルカト』に想いを寄せられていたことを誰かから聞いたのだろう。思い当たる節がないわけではない。その時仲の良かった連中が恋愛話をしていた際、突然お前はと問われてぽろりとこぼしたことがある。それがどういうルートだか彼女に伝わり……。
 そのムービーメールで彼女は、ニトロの気を引こうとした。
 それを知ったニトロは、過去の想い人が寄越してきたメール内容にショックを受けるよりも、いい度胸をしているなと感心したものだった。
 それは――『ニトロ・ポルカト』を誘惑しようという類の行為は、つまり、ニトロが恋人だと言い張るあのバカを、あの『クレイジー・プリンセス』を敵に回すことと同意でもあるから。
 いつかハラキリは言っていた。
『一応ニトロ君は次期女王の夫と思われているんですから、君をモノにできれば次期王の愛人です。そうなれば素晴らしい恩恵を期待できます。リスクを鑑みず突っ走ってくる方もいるでしょう。まあ男女問わず、古来より異性のために身を持ち崩す者は山といますので、お気をつけを』
 すでに異性ティディアのために身が持ち崩れているような気がしないでもなかったが、彼の言う通り、宝箱を目指してクレイジー・プリンセスという恐怖の断崖絶壁をも登ってこようとする者はいた。
 そのほとんどは男女問わず『わが社の』なり『うちの団体の』というものばかりだったが、中にはたま〜に、堂々と言い寄ってくる女性も確かにいた。
[ニトロ君がティディア姫の恋人になったって知った時は驚いたよ]
 懐かしい友人にメールを送るだけにしては不相応なほどメイクをバッチリ決めた彼女の姿が目に蘇る。
[すっごくカッコよくなったね。どきどきしちゃった]
 『ティディアの恋人』になってから周囲に現れ出した『媚び』が、彼女の眼底に輝いていた。
 はっきりと誰かからニトロが自分に想いを寄せていたと聞いたとは言わなかったが、話題は当時の想いを一生懸命呼び起こさせようとしている意図がありありと分かるもので、久しぶりに友人に送る話の流れとしては無理があったものだ。
 少なくとも『覚えてる?』と中学二年でまた同じクラスになったことを口にして、次に突然『運命的だよね』と振るのは、いくら仲が良かったとはいえただのクラスメートだった男子に対するものではないだろう。
[わたしさ、彼とは別れちゃったんだ。今はフリーで退屈してる]
 将来に向けて種をまいておこうとしているのか。
 それとも、あわよくばすぐにでも二番目を狙っているのか。
 前者ならばなかなか策略を心得ていそうだ。後者なら、怖いもの知らずか、それとも考え足らずか。
 そんなことを思いながらムービーを見ていてニトロは、ふいに気づいたものだった。
 思えば、彼女の声も、顔も、姿も、その仕草も、ただ懐かしいと思うばかりで愛しさは感じない。恋心は思い出の中で静かに笑っている――と。
 そして濃密で様々な経験をしてきた現在のニトロ・ポルカトは、彼女に幻滅していないと言えば嘘になるが、ただそれに受けるショックよりも『寂しさ』を強く覚え、また『そうなってしまったこと』を自然に受け止めている――と。
 そんな自分がおかしくて。
 奇妙な感慨まで感じて。
 ……そして同時に、思い出に甘噛みされる心地の中で、知った
「気にしなくていいよ」
 古傷を抉る話題を蒸し返してしまったと、いつまでも顔を上げない芍薬にニトロは穏やかに言った。
 ハーブティーを口にすると、清涼感が吹き抜けていく。
 ミントの香りに包まれながら、続ける。
「あのお陰で分かったんだ」
 芍薬は言葉を待つ。ニトロはカップを置き、軽く腕を組んだ。
「恋愛感情……っていう意味ではちゃんと決着はついてたんだ。彼氏と一緒に歩く彼女が心底嬉しそうだったから、そこでちゃんと。
 だけど『恋』って意味じゃ煮え切らなかったから、ふと思い出す度に情けなくてたまらなかった。そしてその度に、もしそのことをまだ心のどこかで引きずってなんかいたりしたら、また情けないなあって思っていた」
 芍薬が相槌にうなずく。
「でも、大丈夫だった。
 彼女がメールを送ってきたって聞いた時、まさかこっちの気を引こうとする内容だったらショックだなって緊張してたんだけどさ、まあショックって言ったらショックなんだけど、それは好きな人に裏切られたっていう感じじゃなくて、他のそうなっちゃった友達と同じで、それ以上でも以下でもなかった。
 こういうことは相変わらず慣れなくて寂しいけどね。それでも他のそういう時と一緒で、もう仕方がないなぁって思った。昔好きだった人だから寂しさはそれだけ強かったけど、でもそれだけで、『特別』じゃなかった。
 それで、ああ『恋』もちゃんと決着ついてたんだって、確かめられたんだよ。だからあのメールは、送ってもらえてむしろ良かったくらいなんだ」
 そう言っちゃうと相手にしてみりゃ身勝手で失礼な話かもしれないけどね、と付け加えて、ニトロは笑った。
 その笑顔に、芍薬はメモリに溢れる切なさを止められなかった。
(主様……)
 我が主は何という顔をするのだ。
 それはおよそ十七の少年の微笑ではない。
 これが哀愁というやつなのだろうか。
 幾多の苦難を味わってきながら、しかしそれに折れることなく、それらに耐えられるだけ己を鍛え上げ突き進んできた人間の風合い。
 嗚呼、あのバカにかけられた心労が、あのバカに関わってからの気苦労が、その笑顔の裏に透き見えてならない。
「それで、さっきも言ったけどさ」
 ニトロは随分明るい笑顔で言った。
 それはまるで芍薬が切ない思いを寄せていると気づいていて、それを拭い去ろうとするかのような笑みだった。
 彼はどこか悪戯心を混ぜた声音で言う。
「この話はメルトンが絶対に触れないことなんだ」
 芍薬は、ニトロが自分の聞き返しを待っていると察した。
「ドウシテダイ?」
「メルトンが事あるごとにこの話を持ち出したからだよ。うじうじした挙げ句に一人で失恋って情けねぇのって、メルトンの奴、しばらく『からかいネタ』のエースナンバーにしやがったんだ。
 それがあんまりひどくてしつこいから、怒った。もしかしたら『映画』の他じゃ、あれが一番だったかもなあ」
「アア、ソレデカイ」
 芍薬はからからと笑った。鬼の形相のニトロに怒られ怯えるメルトンの姿がメモリに浮かんで飛沫と消える。よほど怖かったんだろうなと、それだけは同情する。
 ようやく明るさを取り戻した芍薬の姿に、ニトロはさらに言った。
「だから、この話を俺が聞かせてくれたと知ったら。あいつは驚く」
 笑っていた芍薬の肖像シェイプが、ぴたりと動きを止めた。
 一度表情を消した顔が、再び笑顔を刻む。にんまりと、マスターの悪戯心を汲み取った満面の笑みを。
「次会ウ時ガ楽シミニナッタ」
「まあ、あんまりいじめないようにね」
「御意」
 何もかも心得たと大きくうなずく芍薬の姿に目を細め、それからニトロは人差し指を立て唇に添えた。
「あと、」
 メルトンへの『反撃』を思い描いていたのだろう楽しげにユカタの袖を振っていた芍薬が、ニトロの様子に小さな?マークを浮かべた。
「このことは俺と芍薬だけの秘密だ。
 彼女からメールが来たことも、それに俺がどう思ったのかも、思い出に決着がついたことも」
 その言葉に芍薬は物凄い勢いで何度もうなずいた。
 バックに輝きをまとって言う。
「秘密ダネ」
 それが本当に心底嬉しそうで、思わず自分も嬉しくなる。ニトロは穏やかにうなずいた。
「ああ、秘密だ」

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