悲鳴に続いて聞こえてきた鈍い音に、ハラキリは椅子を引いて体ごと背後の――ティディアにタックル食らって床に倒されそのまま組み敷かれているニトロに目をやった。
 それ以上ティディアの思い通りにさせないよう両足で彼女の胴を抱え込み、辛うじてガードポジションを取ったニトロとばっちり目が合う。
「……」
「……」
 彼は倒れた拍子に取りこぼした携帯電話へ必死に腕を伸ばしながら、救いを請う子犬の瞳をこちらへ向けている。
「…………」
「…………」
「…………駄目じゃないですか。そんな簡単に倒されちゃあ」
「今まさに性犯罪が行われようと! それについてどうか一言!」
 性犯罪と言うより、ハラキリにはただでっかい犬がニトロにじゃれついているようにしか見えないのだが……いや、これは主観の問題か。ニトロからすれば痴漢行為以外の何でもない。
 ハラキリは吐息をつき、じっとこちらを見つめている友人に応えた。
「はいはい」
「はいはいっ!? それが友達の言葉か薄情者っ!」
 薄情者という言葉に、小さく笑い声が聞こえた。撫子だ。芍薬がついさっき言った言葉を直後にマスターが発したことが嬉しいのだろう。ニトロと芍薬、息の合いっぷりがいい感じで上昇している。
「それより練習メニュー、ちょっと厳しく修正しましょうね」
それよりて! 分かった、俺頑張るからとりあえず助けて師匠!」
「はいはい。
 さて、おひいさん。拙者の見るところ、現在ニトロ君に慕う女性はいませんよ。それで納得していただけませんか」
「…………」
 胴に巻きつくニトロの両足を何とか外そうと試みていたティディアが、動きを止めてハラキリを睥睨へいげいする。
 彼女の瞳は餌を盗られまいと威嚇する猛犬のそれだった。
「そんな眼をしても駄目ですよ」
 ハラキリは二人に近づき、ぽんとティディアの肩を叩いた。
「そろそろ痴話騒ぎはやめてください。芍薬の我慢もそろそろ限界でしょうし」
「『モウトックニ限界超エテルヨ』トノコトデス」
「だそうですので、おひいさんもここらで引きましょう」
「……さっき、ニトロに私以外に好きな女いないって言ったけど、本当なのね?」
「ええ、おひいさん含めていないでしょうね」
 ハラキリのざっくりとした物言いに、さしものティディアも眉を垂れる。
 とはいえ、ニトロの顔に隠し事の色が差さず、むしろ積極的にハラキリの言葉を肯定する眼差しであること思えば、まあそれは『正解』だろう。ティディアは恋敵がいないことが確認できただけでいいかと――いたらいたでとっても面白おかしくしてやるつもりだったが――納得し、されどやっぱりニトロに好意を向けられていないことに少しだけ唇を尖らせた。
 こうなったら、もうちょっとだけ『ニトロ情報』を引き出したい。
「譲歩案は?」
「ニトロ君」
「何だよ。俺は何も譲歩する気はないぞ」
「初恋はいつです?」
「はあ!?」
 ハラキリの想定の大外を回って突っ込んできた質問に、ニトロは思わず素っ頓狂な声を上げた。
 この友人、一体何を考えてそんなことを問うてくるのか。
「何だよいきなり」
「いやほら。おひいさん、それを聞けたら満足なさるでしょうし」
「こいつがそんな話で――って、うわ! ものすっご食いついてる!」
 胴を両足にがっちり固定されながらも身を乗り出すようにして顔を近づけてくるティディアの瞳がえらくキラめいていることにニトロは慄然とした。
「ぉ面白くないってそんな話!」
「いやん、そんなこと言わないでお話ししてよぅ。お姉ちゃん、興味深々なんだから」
「断る! それにお前のことだ『どうせ調べてあるし』とか言うんじゃねえのか、ああそうだ『盗聴』なんかしてやがったこともあっただろうがほらそうなんだろう!?」
「んー、盗聴って言っても別にずっと四六時中聴いてたわけじゃないし。それにニトロが恋愛話してるの聴いたことないし。元々その手の話は聴かないようにしてたし」
「あれ? そうだったの?」
「ええ」
「何で? 調べたりとかは?」
「やー、だってそういうのは直接ニトロの口から聞かなきゃおいしくないじゃない。それで聴かないようにしてたんだから、当然調べてもないわよぅ。そしてこんな風に嫌がるニトロから聞き出す日を心待ちにしてたのよぅうふふふふ」
「こ ぉぉのサディストめがっ」
「だ・か・ら、ね? ほら、安心してお話しなさい。ついでに照れて赤くなって私をゾクゾクさせちゃいなさい」
「ふっざけんな拒否だ拒否! てか大体何で俺が痴女を満足させにゃならないんだ!」
「満足させるのはおひいさんだけじゃありませんよ」
「はあ?」
 またも訳の分からないことを言う友人に、今度は悪態混じりの疑念がニトロの口をつく。
「芍薬」
「芍薬来てるの!?」
 ニトロが歓声を上げる。ハラキリは小さくうなずいてそれに答え、芍薬の返答がないことにああと気がついた。
「撫子、音声は開放していい」
 そう言った瞬間、
「ナンダイ」
 ニトロに取っては安堵の、ティディアに取っては厄介の象徴の声が流れた。それはひどく刺々しく不機嫌で、今にも怒鳴り出しそうに震えていた。
 だがハラキリはそれをまったく意に介さず、飄々と問いかけた。
「ニトロ君はシャイだから、これまで芍薬にもこの手の話はしてないでしょう?」
「…………」
 芍薬は答えない。だが、その沈黙は明らかに肯定だった。
 ハラキリは口の端を愉快そうに歪めた。
「聞きたくありませんか? 芍薬が知らないニトロ君の、初恋のこと」
「……ゥゥ」
 苦悶が、部屋のどこぞにあるスピーカーを揺らした。
「……あ、あれ? 芍薬さん?」
 そこでようやく、ニトロはハラキリの術中にはまっていることに気がついた。
「――芍薬っ! 後で話す! 後で話すから!」
「肝心なところは濁すでしょうねぇ。まあ、もし濁されても付き合いの長いメルトン君は知っているでしょうから、知りたければ後で聞きに行って教えを請えばいいと思いますよ」
「ゥゥゥ...」
「芍や……!? ハァァラキリお前『友達甲斐』って言葉を知ってるか!」
「友達だからこそ、A.I.との仲を深めて差し上げようと」
「嘘をつくな嘘を! じゃあお前はどうなんだよ!」
「色恋沙汰は権謀術数けんぼうじゅっすうに非常に有効ですが、あいにく拙者にはそれが必要な状況はありませんでした」
「ああそうだった! お前はそういう奴だった! ごめんよ殺伐とした寂しい過去を抉っちゃって!」
 ニトロの痛烈な皮肉を込めた罵声にハラキリは笑顔で肩をすくめた。
「それで、芍薬?」
「芍薬駄目だぞ。ていうか助けて!」
「拙者が助けている真っ最中じゃないですか」
「むしろ辱めの方向に全力疾走中だ!」
「そうは言っても。芍薬も聞きたがってますよ」
「聞きたいって言ってないだろ!」
「御免ヨ、主様。あたしモ聞キタイ……」
「ひょえぇぇぇぇぇ」
 芍薬の返答を聞いた瞬間、これまで怒鳴り続けて頑張っていたニトロは奇妙な声を上げて力を失い、はたりと大の字となった。よく見ると、彼はちょっと泣いていた。
 そして同時に、胴に巻きついていた封印から解放されたティディアがこれ幸いと動き出――
「おっと」
 そこへハラキリの手が伸びた。
 ティディアの後ろ襟を掴み、引き止める。
「譲歩案にご不満でも?」
「……ハラキリ君……やるわねー」
 肩越しに振り返り、ティディアが目を流してくる。
「お陰で芍薬ちゃんに半殺されずに済んだわ
 ティディアの、こちらの思惑を見透かした物言いにハラキリは片眉を跳ねた。頬も少しだけ持ち上げ、鼻で笑うように嘆息をつく。
「さ、お茶にしましょう。欲張りさんには一番美味しいデザートを差し上げませんが、どうしますか?」
 ティディアの答えは、もちろん決まっていた。

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