「ところで」
「なんだい?」
「足が痺れてきたから正座をやめていいかな」
「駄目だよ」
「駄目なの?」
「駄目だよ」
「そっか……」
 俺は茶菓子のモナカを齧って、しなだれた。
 足は爪先から膝の辺りまでぴりぴり痺れている。てーか、痛くなってきた。何でこういうのはリアル俺にも伝わってんの? 理不尽だ!
「……駄目?」
 もう一度俺は言った。
「駄目」
 芍薬は大きく腕で×の字を作ってまで駄目と言う。
 じゃあ、駄目なんだろう。
 俺がうなずくと芍薬はにっこり笑って、茶碗の中に緑色の粉を放り込んだ。そして煮えたぎったヤカンの湯を注ぎ、泡だて器で混ぜ始める。
 チャッチャッチャッと、リズミカルな音が四畳半に反響する。
「さ、粗茶ですが」
 芍薬が差し出してきた茶碗には、きめ細やかな泡が立つ抹茶がっていた。
「いただきます」
「どうぞ」
 俺は茶碗を三回回し、熱い抹茶をゆっくりすすった。
 自ら点てた茶を飲む俺を見ている芍薬の背後には、朗らかな花模様が浮かんでいた。
 一口、二口のみ、一度茶碗から唇を離す。香り高さが鼻を抜け、渋みに包まれた甘さが咽喉を潤していく。
 …………美味。
「美味しいよ」
 芍薬は頭を下げた。
 顔は陰に隠れて見えないが、芍薬の横でデフォルメ肖像シェイプの芍薬が踊っていた。
 俺は茶碗を手の中で回しながら、ふと頭をよぎった疑問を話題になるかと芍薬に振った。
「そういえば、抹茶って何からできてるんだっけ」
「こちらです」
 答えたのは芍薬ではなく、ヴィタさんだった。
 姿勢良く正座している芍薬の背後に立ち、涼しい顔でその植物を示した。
「…………」
 顔面が硬直した。
 熱い抹茶が通り過ぎたばかりの食道まで、凍りつく。
「……本当に?」
「はい」
 甲高く引きつった問いかけに、こともなげに肯定するヴィタさんは、手の中のものを強調するように差し出した。
 それは……
 彼女が差し出すそれは、
 魔女の媚薬の材料になるという――人塊根マンドレイク
「ベッドで〜〜がお待ちです。ささ、残りも全部飲んで」
「ひぉぉぉぉぉ!?」
 俺の咽喉が奇妙な風切り音を立てる。
「そうはいくかーーーーーい!!」
 思わず俺は茶碗を振りかぶり、庭園の外へと投げ捨てた。
「ああ!」
 悲痛な叫びを芍薬が上げる。
 芍薬は目を見張って茶碗が飛んで行った方角に手を伸ばし……遠くからガチャンと茶碗が割れる音がして。
 芍薬は声を失い、肩を震わせていた。
 ――あれ?
「あれ? 芍薬」
 あれ? 俺が喋れた?
「……御免よ、主様」
 芍薬が袖で顔を隠して言った。
 声は涙声を堪えて、さらに震えていた。
「美味しいって言ってくれたけど……本当は、口に合わなかったんだね」
「いや、あれ? 芍薬、ヴィタさんが言ってたの聞こえなかった?」
「いいんだよ。主様、そんな慰めをしなくても……。
 あたしが不味いの作っちゃっただけなんだから」
「違っ――ちょ、あれ? ヴィタさんも説明し、って、どこに隠れたクソ執事!」
「ヴィタなんて、ずっといなかったよ」
「いやあれ? ええい、さっきまでの俺! お前までどこ行った!!」
「主様はずっとそこにいたよ」
 芍薬はすっと立ち上がった。
 ペオニア・ラクティフローラが現れる。真っ直ぐに立つその美しい草花は、涙は見せぬと細やかに揺れていた。
「いいんだよ、主様」
 芍薬は繰り返した。
「そんな錯乱してまで、誤魔化してくれなくていいんだよ」
「違う違う芍薬! 芍薬は何も悪く――」
「……っ、出直してくるね!」
 芍薬は踵を返すと、えらい勢いで走り去った。顔を隠す袖の下から、涙の粒がキラキラと舞い落ちて――
「あ、ちょっと芍薬! ま――っ!?」
 芍薬を追おうと立ち上がろうとした瞬間、足から脳へと凄まじい痛みが走り、俺は畳に倒れこんだ。
 その痛みは足の感覚を奪い、動かしても動かさなくても……っていうか歩こうもんならむき出しの神経が直で床に触れているような激痛ががが!!
「ひぉぉぉぉぉーー!?」
 思わず肺から空気が漏れる。
 生まれてこの方味わったことのない足の痺れに、声も出ない!
「泣かせましたね?」
「ぐえ!?」
 突然、背中に物凄い重みが圧し掛かってきた。
「私の娘を、泣かせましたね?」
「……そのお声は……」
 撫子だった。
 撫子の声が、頭上から聞こえた。
 ヴィタさんがやってきて、うつ伏せに潰れている俺にも『上』が見えるよう試着室の鏡を立てる。
「――――ぃっっ!」
 あーーーーーーー!! 見たくなかったーーーーーーーーー!!!
「泣かせましたね?」
 そこには、俺の背中の上には、腿まで届く黒髪を真っ直ぐ垂れた喪服の少女が、あれなんか怒髪天を衝く勢いですか? って感じで真っ白なハチマキ締めて長刀なぎなた持って正座してっ、至極とっても可憐に微笑んでらっしゃる!
「ニトロ様なら自慢の長女を大事にしてくださると、そう思ってましたのに」
 言う度に、撫子の重量は増してくる。
「まさかこんな仕打ちをなさるとは……」
「ぐぅえおおおおおおお……」
 増してくる、増していく、この重さ……まるで山が乗っているようだ!
 ああ折れる! 背骨が、折れてしまう!!
「お仕置きです!」
「うぎゃああああああああああああああ!!」

「!!」
 ニトロは飛び起きた。
「……っ」
 部屋は暗い。まだ夜中のようだ。
 カーテンの隙間から漏れる街の夜光に薄く浮かぶ手を見る。はっとして背中を曲げ、伸ばす。
 無事だ。
 何事もない。
 夢……
 夢のはずだ。あんなこと、夢でなければ起こるはずもない。
 だが胸の中には罪悪感が、足には痺れの感触が、耳には――背骨の折れる音が、嫌に生々しく残っている。
 まさかまだ、夢の中……
「…………」
 茫然として、ベッドの上に座り込むニトロに声がかかった。
「――主様、ドウシタンダイ?」
「!」
 ニトロは呆けたまま、声の主の在り処を窺うように周囲を見回した。
 それはどこか怯え、そして同時に救いを求めているようだった。芍薬は彼の様子がおかしいことに気づいた。
「主様?」
 芍薬の、不安と心配が入り混じった声。
「悪イ夢デモ見タノカイ?」
 芍薬の、優しい声。
「――!」
 ニトロは、勢い良く正座した。
「芍薬! ごめん!」
「エエ!?」
 手を合わせ突如謝ってきたマスターに、芍薬は戸惑いの声を上げた。
「ドウシチャッタンダイ、主様」
「どうしたもこうしたも、なんちゅーかごめん!」
「ダカラドウシチャッタンダヨ、主様!」
 芍薬が問い返すがニトロは生々しい罪悪感にせっつかれ、謝ることしかできない。
「ほんっとうに、ごめん!」
「主様、オ願イダカラ、ソンナニ謝ラナイデオクレヨォ!」

 そしてしばらくの問答の末
 芍薬は完全に目を醒ましたニトロから夢の話を聞き――
 その内容にショックを受ければいいのか、マスターの夢の中に出られたことを喜んだものか吟味して――
 結果
 ヴィタさえ出てこなけりゃルンルンだったと喜んだのは、それから一時間も後のことだった。

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