「ゴ利用アリガトウゴザイマシタ」
 突然、ニトロの耳を機械音声が叩き、彼は現実に引き戻された。
 意心没入式マインドスライドの遠隔操作――特にゲームの操作方法として身近な技術を応用した、巨大な水槽の中にある小型ロボットに意識を移し、限りなく現実な仮想の海をまさに魚となって縦横無尽に泳ぎまわれるアトラクション。
 休日ともなれば予約で一杯のそれも平日では空いていて、さらに運良く自分の後に予約が入らなかったため、ニトロはたっぷり一時間クラゲとなって海に漂っていた。
「部屋ハ暗クナッテイマス。足元ニオ気ヲツケ下サイマセ」
 時間が来るとアナウンスと共に接続が即座に遮断されるのが無粋といえば無粋だが、利用客の回転を守るには仕方のないことなのだろう。
「……ふぅ」
 十分楽しめたし、十分リラックスもできた。
 フルフェイスヘルメット型の体験装置、『格闘トレーニング』でも使用している馴染みあるインターフェイスを頭から外し、ニトロは傍に待機していたスタッフ・アンドロイドにそれを返した。
「マタノゴ利用、オ待チシテオリマス」
 体験装置と引き換えるように、貴重品を預けていたカードキーを返してくる。キーを受け取ったニトロはアンドロイドの誘導に従い、大勢の人が専用のシートに寝ている薄暗いアトラクションルームを出るとすぐ脇にある窓口に立った。
 キーを所定のスロットに流し込む。すぐに預けていた財布、携帯電話、それにスポーツキャップが戻ってきた。
 キャップを被り、財布をポケットにしまう。携帯電話の時計を見ると、ちょうどいい時間だった。
(予定通り)
 機嫌よく軽い足取りで、目的のプールへと向かう。
 後は海猫シーキャットの最終公演を見ながら、ティディアに自慢して、それから芍薬と一緒に彼女を残念がらせて、で、帰る。
 そして帰りに来る途中で見たベジタブルストアにでも寄り――やはり芍薬にはオ人好シダと言われたが――リンゴを買って見舞いに行ってあいつを驚かせよう。
 ああ、そうだ。
 城の警備アンドロイドでも芍薬に乗っ取らせてもらって、ティディアのビックリ顔を写真に撮ろうか。いつもなんか知らんうちに映像記録を撮られているからそれくらいやり返してもいいだろうし、きっとヴィタも喜んで乗ってくれるだろう。
 薄暗い照明の中、水槽から発せられる青い光が神秘的で、涼しい館内は深海のような静寂に満ちている。時折話し声や子どもの歓声が聞こえてくるが、それもどこかへ吸い込まれて溶け消えていく。
 キャップのつばで影ができ、薄暗い照明もあって誰もこちらを『見た顔だ』と眺める者はない。悠々と水槽を眺めながらショーの会場へ向かっていると、ポケットの中で携帯が揺れた。
 誰かと思い取り出せば、芍薬からの連絡だった。
「……」
 ニトロは周囲を見渡した。近くにトイレがあるのに気づき、携帯の保留のボタンを押してそちらへ向かう。
 トイレに入り中に誰もいないのを見て、ニトロは電話をつないだ。
「どうした?」
 のん気な問いかけに、素早く芍薬が答えてきた。
[主様、戻ッテキテ]
「?」
 ニトロは眉根を寄せた。芍薬はこの後の計画をちゃんと知っている。なのにそれを果たさずに戻ってこいと言うのは……
「どうした?」
 今度は気を入れて聞き返す。返ってきた芍薬の声には、確固としたものではないが、緊迫のトーンが含まれていた。
[気ニナル情報ヲ掴ンダンダ]
「気になる情報?」
『バカノ馬鹿』マニアノコミュニティニ妙ナ動キヲ消シタ痕跡ガアルンダヨ]
「妙な動き、ねぇ」
 ニトロは怪訝につぶやいた。
 これまでも、例えば『ティディア・マニア獣人ビースター』のような過激な連中に絡まれることはあったが、『トレーニング』を積んでからは特に危ない目にはあっていない。
 因縁をつけられてもするっと逃げるための技術は特に力を入れて習得した事、複数人に絡まれても芍薬の助けを待つまでの時間を作るのにも慣れた事で、今ではあしらい方も巧くなり余裕が出ている。
 そういう情報はコミュニティでもやり取りされているらしく、さらに最近では――認めたくないことではあるが――『バカの馬鹿』マニアの中でティディアとニトロの交際を好意的に受け止める者が主流となり始めていることもあって、以前ほど攻撃的な態度を取られることは少なくなった。
 特に後者の影響は大きい。
 ニトロに絡んでいる時のティディアが本っっっ当に幸せそうだ、という、自分にとっては迷惑極まりないことがバカの馬鹿マニアに『ニトロ・ポルカト』が受け入れられ出した理由だそうだが……同時にそれは、いつの頃からか『狂騎士』と呼ばれるようになった過激派の嫉妬心と憤激へ素晴らしい爆薬を提供するようにもなっていた。
「……まさかさ」
 ニトロは、ため息混じりに聞いてみた。
「『誕生日の公約』を前に『狂騎士』がみんなして俺を襲おうとしてるとか、そういうことじゃないよね?」
流石サスガ主様]
「…………」
 なんとはなしに、冗談とばかりに、軽く、本当に気軽に思いつきをちょいと口にしたニトロに、芍薬が感嘆を返してきた。
「……そりゃ、確かに、気になるなぁ」
 ニトロはうめいた。
 心に、緊張の糸が絡みついてくる。
「分かった。すぐに戻る」
 そして彼は、通話を切るなり脇目も振らず駐車場へ向かった。
















「隊長!」
「どうした参謀」
「ニトロ・ポルカトがこちらの動きを掴んだようだと、我が配下より連絡が!」
「なんだと!? それは本当か!?」
「しかし、一体どうやって……!」
「どうやらニトロにはなかなか優秀なA.I.がついている模様です。きっとネットに残った我らの僅かな痕跡を探し当てたのでしょう」
「うぬ……ではどうする。中止とするか?」
「いえ、このまま押し通しましょう」
「可能か? それで我らの目的は果たせるのか?」
「はっ。あの悪魔めが我らの動きに感づいたのは、むしろ幸いです」
「なぜだ、参謀」
彼奴きゃつは今ごろ不安に襲われているでしょう。それをもっと、もっと膨れ上がらせてやるのです。さすればニトロ・ポルカトに与える我らへの恐怖はより大きなものとなり、かの者の小さき魂は萎縮する。我等に泣いて謝るのが目に見えるようではありませんか!」
「おお! なるほど!」
「計画をパターンBに移行し、存分に恐れさせてやりましょう!」
「許可する! 皆も参謀の指示に従い、けして抜かることなく行動せよ!」

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