ニトロのA.I.

 地上に出ると涼しい夜風が頬を撫でた。
 換気がなされているとはいえどうしても湿っぽい地下の空気に浸かっていたから、それが余計に気持ちよくて頬が緩む。
 地下鉄出口に併設された無人タクシー乗り場では、客を待つ車列が専用帯を埋め尽くしていた。あと三十分もすれば終電がなくなり、同時にバスの最終便も出てしまう。そうなればここには車列に並行して人の列が伸びるだろう。早目に友人達と別れてよかったと、先頭車の後部座席に乗り込んで行き先を告げる。
 運転席のスピーカーから流れた機械的な応答に合わせてメーターがセットされる。現地点から目的地までの距離と、交通状況から予測された所要時間が表示され、推定料金が算出される。
 ニトロは少し考えてから、目的地を変えた。
 メーターの数値が再計算され、先より安い推定料金が表示された。本当の目的地まで少し歩くことになるが、まぁ適度な運動になる。それでオーケーを返すと、車は方向指示器を点滅させて本線に入った。
 ニトロはスライドしていく歓楽街の光を横目に運転席のシート裏のパネルを開くと、そこに並ぶキーの中で『×』が印されたボタンを押した。
「プライバシー:ON」
 無人タクシーの汎用A.I.が冷たい声で宣言する。
 これでこの車内で何を言っても汎用A.I.に聞かれることはなく、各種サービスが提供されることもない。タイヤが回るばかりの、ただ目的地へと向かう鉄の箱だ。
 ニトロはジャケットのポケットから携帯電話とメモリーカードを取り出した。
「さて……」
 つぶやきながら、カードの接続端末を引き伸ばして携帯のジャックに差し込む。
 携帯のOSがメモリー内に構築されているシステムを読み込み、そしてモニターの上空に見覚えのある『オリジナルA.I.』の肖像シェイプが立体投影された。『キモノ』というカラフルな民族衣装に身を包んだ少女、『撫子なでしこ』。友人ハラキリの家のメインA.I.だ。
 サイケデリックな柄のキモノを着た撫子は、三つ指ついて頭を下げると、言った。
「所有者ノ氏名ヲ登録シテクダサイ」
 耳をついたその声に意表を突かれて、ニトロは撫子に挨拶しようと開きかけていた口を閉じた。
 オリジナルA.I.には固有の個性キャラクターがある。それは育てられた設定や育った環境から『影響』を受けた人工知能の思考ルーチンが分解と構成を繰り返すことで形成され、ほぼ二つと同じものはなく、人間のように無限の多彩を見せる。
 撫子は柔らかな口調をしているものだったが、しかし立体映像ホログラムのそれは実に機械的で、タクシーの汎用A.I.のものと同じように冷たかった。肖像は撫子のものを利用しているだけの、ただのナビゲーションだと悟って、ニトロは淡々と告げた。
「ニトロ・ポルカト」
 撫子姿のナビが舞い始めた。認識中の文字が画面に躍る。
「氏名、声紋、登録シマシタ。パスワードヲ入力シテクダサイ」
 アナウンスに従いニトロは携帯のボタンを、一つ一つ読み上げながら押していく。入力が終わると、またしばらく撫子が舞い踊り、やがて立体映像ホログラムが切り替わった。撫子が消え、入れ替わりに別の少女が登場する。
「初メマシテ、ニトロ殿。あたしノ新シイ主様ヌシサマ
「…………」
 ニトロは、A.I.の姿に固まった。
「? ドウシタンダイ?」
 男前ともいえるクールな顔立ち。八頭身で、バストの大きいモデルといった風体。それはいい。
 だがその格好はどうしたことだ。
 えらく丈の短いレザージャケットの下に、やけに露出度の高いショッキングピンクの競泳用水着。両足には目の細かい黒の網タイツ。顔の下半分を覆い隠す赤い立体マスクに加えて首に巻いたマフラーをたなびかせ、長い黒髪はポニーテールに、そして背中に鉄パイプだか何だか棒状の鈍器を帯びている。
 どういう趣味だかフェチだか解らないA.I.の服装に面食らって、ニトロはうまく応じることができなかった。
 A.I.は切れ長の目を怪訝に染めて、覗き込むように新しい主人を窺った。
主様ヌシサマ?」
「あ、ああ……えーっと。
 初めまして、『芍薬しゃくやく』。これからよろしくね」
 ニトロがようやくそう言うと、芍薬しゃくやくと呼ばれたA.I.は笑顔を見せた。大きな乳房を誇るように胸を張る。
 ニトロは困惑した。つい先日までこのA.I.のマスターだった友人は、一体どんなテーマを持っていたのだろう。彼はその疑問をそのまま口にした。
「ところで、その格好は何?」
「『クノゥイチ』」
「クノゥイチ?」
「ソウイウ『スパイ』ノ制服ユニフォームダソウダヨ」
「……スパイねぇ」
 こんなに全力で自己主張する格好をしていたら目立って仕方ないと思うのだが、奇抜な制服を支給する諜報機関もあったものだ。どうせまた、地球ちたま日本にちほんとかいう地域のものなのだろうが……。
 とにかく、ニトロは人目に触れることもあるA.I.がこの姿でいるのは、正直御免だった。

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