……人は覚悟をする。だがその覚悟が及ばぬ時、人は二つの選択を強いられる。
 祈るか、諦めるか、である。
<コポコ出版・『哲学者コロンモレリの言葉』より>

「お待ちしていました」
 受付フロントに着いたニトロに声をかけてきたのは、受付で満面の笑みを浮かべる美男美女達ではなく(人間の従業員が受け付けるのは一流の証だ)、何処からか現れた初老の男であった。
「……」
 ニトロは予想外に横手からきた歓迎に面食らって、目を一・二度しばたたいた。
 男は、ロマンスグレーの毛髪をオールバックに固め、清潔感溢れる糊の効いたシャツと燕尾服をまとっていた。丈は高めで、細身。背筋は定規でも背に貼り付けているかのように真っ直ぐである。今はこちらに頭を垂れているが、その礼の仕方、腰を折る角度ときたら分度器で正確に計ったかのようだ。
 見事なまでに、『執事』イメージを体現している。
「……なるほど、『じい』といったところですか」
「いえ、『犬』と呼ばれています」
「ブッ!」
 平然と、いや、平然と言われたからこそニトロは吹き出した。
「どうなされましたか? お体の具合でも?」
「いや、失敬。何でもないです」
 ニトロは深呼吸をし、気を取り直した。
「落ち着かれましたか?」
「ええ、まぁ」
「ではニトロ様、こちらへ」
 白布に包まれた手が優雅な軌跡を描いて、ニトロの目線をエレベーターホールへと促した。
「……〜〜」
 エレベーター。建築物等の上下移動の際に使用する、便利な装置。だが今は、虎穴。入ったところで虎子を得ることすらできない、虎穴。
 魂の奥底から嫌そうな顔をしているニトロを見て、執事は気を回した。
「実力行使を許可されていますが」
「……いや、自分の足で行きますよ。え〜と?」
 ニトロは困惑顔を執事に向けた。彼は軽く頭を垂れて、応えた。
わたくしめのことは、犬とお呼び下さい」
「なんだかそう呼ぶと人として大事なものを失ってしまいそーな気がするから困ってるわけなのです」
「あなたはわたくし殺す気なのですか?」
「うあ……」
 ニトロはめまいを覚えた。ここに来るために決めていた覚悟だけでは、覚悟の範囲が足りないらしい。それでも彼は、ふっきることのできない何かを無理矢理飲み込んだ。眉間の皺を指で叩き、ふらりと足を踏み出す。
「何でもいいや。案内して……」
「かしこまりました」
 一歩一歩正確な歩幅で先導する執事に続くニトロは、千鳥足であった。

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