「おはよう」
エドリア村から街道に出てしばらく歩いた所で、木陰で佇んでいた少女が、待ちわびたとばかりに笑顔を向けてきた。
カザラは、彼女が待っていたことにさして驚きもせず、むしろ怪訝に目を細めて足を止めた。
「学校があるから、見送りにはこないんじゃなかったか?」
昨夜降り止んだ、三日間の長雨が遺した水溜まりを飛び越えて、ルシュは
「そうだよ。わたしは、途中まで一緒に歩くだけ」
いたずらっ子が見せるような得意顔のルシュに、カザラは嘆息を一つ吐いて足を踏み出した。
まるで息を合わせたようにルシュはぴたりとカザラの横に張りつき、真っ直ぐ前を見つめる彼に目をやった。気のせいか、彼は歩みをこちらの速さに合わせてくれているようだった。
「まだ、帰るのは早いんじゃない?」
その問いに、やはり来たかと、カザラは肩をすくめた。
「そうでもないさ。色々と、充分に、話し合ったしな」
「……カザラがそうでも、ノマさんとユリネさんはそうじゃないかもよ」
「逃げ出したわけじゃない」
たまらず苦笑して、カザラは言った。
「あいつらも、笑って見送ってくれたよ」
「笑って?」
少し驚いて、ルシュが聞き返す。カザラはうなずいた。
「もういつでも会えるからな」
少し照れ臭そうな彼の様子に、ルシュは微笑んだ。
(そっか……)
内心、気にかけていた彼らの関係が杞憂に終った。
(そっか)
ルシュは嬉しくなって、胸の中で何度もうなずいていた。
「何をそんなに笑っている?」
ふいにカザラが振り返り、訊ねてくる。
「なんでもない」
しかし、ルシュは答えずに、白歯を見せて笑ってみせた。
「それよりさ、帰ったらすぐにお仕事なの?」
「…………」
話題を変えられたが、なんとなく彼女の胸の内を察して、カザラは目を前方に戻した。そして、喉でうなって空を仰ぐ。
「まずは説教だな」
「お説教?」
「ああ。約束じゃ今日にも帰っているはずだからな」
「あ……そうなんだ。やっぱり親方さんって、怖いの?」
その質問に、カザラは深く長い吐息を漏らした。
「戸を開けたら金槌が飛んでくるだろうなあ」
「金槌!?」
「痛ぇぞ」
「そりゃそうよ」
笑って、ルシュは教科書に重い鞄のひもの位置を直すと、肩の凝りをほぐすように手を組んで伸びをした。それを横目に、カザラが続ける。
「その後でまた修行さ」
「修行なの? お仕事じゃなくて?」
「くそじじいが言うには、一人前になって初めて仕事ができるようになるんだとよ。俺はまだ半人前だから、仕事とは言わずに修行と言えってうるせぇんだ」
カザラの話にルシュは感嘆の吐息をつき、ふと考え込んだ。
「…………どうした?」
「やっぱり……絶対に会いたい」
「は?」
唐突なルシュの希望に、カザラは間抜けな問い返しをかけた。
「わたし、絶対にカザラの所に行く。ノマさんと、ユリネさんと一緒に。親方さんと話してみたいから」
「いいよ。来るな」
「なんでよ。カザラ、親方さんのこと好きなんでしょ? わたし、カザラが大好きな親方さんと、絶対に会ってみたい」
「…………」
カザラはしばらく呆れたようにルシュを見、やおらそっぽを向いた。
「あ、照れた?」
「あのな……」
「そうなんでしょ?」
「……」
こちらを覗き込んでくる少女の瞳に、カザラは眉間に皺寄せ頭を振った。
「もう話すことがないなら、先に行かせてもらうぞ」
「あ、ごめん。ならこの話はもういいや」
彼の声調から、それが本気だと悟ってルシュは慌てて話題を変えた。
そしてそれからしばらくの間、二人は目的もなく話し……やおら前方に道が二股に別れる所が見えてきた。
カザラとの別れが、いよいよ間近に迫っていた。
一歩進むごとに、その時が目に見えて近づいてくる。そこでルシュは一つ深呼吸して、あの日から胸に秘めていた事を、彼に投げかけた。
「あのさ」
「ああ」
「ずっと考えてたんだけどね。最期に……カザラに、グゼが笑ったじゃない」
カザラは、一息の間を取った。
「ああ」
「少し、哀しそうに見えたんだ。わたし」
「…………」
口を結んだカザラの横顔に、ルシュは『正しかった』と確信した。
「一体どんなことを想っていたんだろうって、わたしにはいくら考えてみても解らないのよ」
その言葉、遠回しな質問に、カザラは片眉を跳ねた。
「まるで俺には解ってると言いたげだな」
「そう言ってるつもり」
即座の切り返しに、カザラは嘆息する。
「誰であろうと、完全に他人の心を理解することなんてできやしない」
ルシュは胸の中でため息をついた。半ば予想していたことだが、彼は答えを口にしてくれなかった。否定も肯定もせず、濁してきただけ。おそらくその答えを教えたくないのだろう。
あるいは、恋人の秘め事のように。
とはいえ、ルシュは仕方ないとただ諦めるのは何か
「ウソつき」
口を尖らせる少女の顔を目の端にし、カザラは肩を揺らした。
「なによ」
それにルシュがつっかかってくる。カザラは不機嫌な彼女の顔を一瞥して、おかしそうに言った。
「あんたの連れ合いになる奴は大変だな」
「なんで?」
眉間に皺を寄せ、心外なとばかりの表情を見せるルシュに、カザラは片笑みを見せた。
「こう何でも見抜くのが妻じゃ、浮気の一つもできないだろうさ」
「あ、それは大丈夫」
言下に否定されて、カザラはルシュを見つめた。何を根拠に、彼女は自信を口にするのか。
「わたしは、わたしだけを本当に大切にしてくれる運命の人を探すから」
その宣言に、カザラはしばらく反応することができなかった。ほとんど惰性で歩き続けているものの、他は、ルシュの主張に
「…………夢想家だな」
ややあって、カザラは微笑を浮かべた。思えば、実に彼女らしい言葉かもしれない。
「悪い? 友達にも良く言われるんだけど」
「悪いこたないがな……」
「行き遅れるとでも言いたいの?」
「いや、そういうわけじゃねぇけど」
「何言っても無駄よ。しばらくはこのままでいるんだから」
「……しばらく?」
「あと百年くらい」
思わずカザラは吹き出した。そして、笑い声を上げる。
かもしれない、ではない。これは、実にルシュならではのものだ。
「そこまで笑う!?」
カザラの笑い方に耳まで赤らめて、ルシュが怒鳴ってくる。
彼はひきつる横隔膜に切れ切れとなる息を必死に整えながら、涙目となった右眼を擦った。
「バカにしてるわけじゃないんだ」
彼はなんとか落ち着いてきた息を、大きく吐き出した。
「ただ、羨ましくてな」
「え?」
戸惑う彼女に、カザラは一度遠方に目をやった。
「まぁ、ルシュなら見つけられるさ。その、運命の人とやらを」
「本当にそう思う?」
ルシュは目を輝かせた。しかしそこには
「勘だが……そう思うよ」
そして、カザラは歩幅を狭くしていった。それに、ルシュはもう別れの場に辿り着いてしまったことに気づかされ、躊躇いがちに足を止めた。
「それじゃあ」
「それじゃ、ここでさよならね」
先に別れを告げようとしたカザラを遮り、ルシュは後ろ腰に手を組むと左の道へ踏み出しながら振り返った。
彼女の動きにつられて、長く艶やかな黒髪が、ふわりと広がって肩に落ちる。
「きっとさ、親方さんに会いに行くから」
「……一応、町案内ぐらいはしてやるよ」
諦め応えて、カザラはつま先を右の道へ向けた。地を蹴り歩み出し、すれ違い様にルシュに軽く手を振る。
「じゃあな」
カザラはそれだけを言うと、名残惜しげもなく去っていった。
その背姿にルシュは寂しさを覚えた。その去り方、彼らしいと言えば彼らしいが……
(もう少し何か言ってもいいじゃない)
彼女は、しょうがないと嘆息した。それからカザラの背に向けて声をかけようと
「ああ、そうだ」
――と、ふいにカザラが振り返った。両手を口に添えて、今にも大声を上げようとしていたルシュは驚いて息を止め、つっかえた言葉に悶えながら、なんとか問いを口にした。
「な、なに?」
照れ臭そうに手を後ろに隠すルシュの姿に、カザラは微笑んだ。
「ありがとう。ルシュがいてくれて良かった」
心に染み渡る感動の余韻に包まれながら、ルシュは学校への道を歩いていた。
まさか、カザラがあのようなことを言うとは、思ってもみなかった。
もし言ってもらえたらどんなに嬉しいだろうと思っていた言葉を。想像の中では、ノマやユリネが口にしていた感謝を。
まだ動悸が続く胸に触れ、強まってきた実感に顔がほころぶ。
だが、少しの後悔もあった。その時は驚きが勝り、何も反応できなかった。すぐさま踵を返したカザラに、返しの
ただ言えたのは、さよならの一言。
(……今度、手紙を書こう)
ルシュは自然と足を速めながらつぶやいた。
「わたしも、ありがとうって」
進み行く先に、人影が一つ視界に入ってきた。それが誰かを悟り、ルシュは速まる歩みを走りに変える。
「エリー!」
呼び止められ、脇道から街道に合流してきた赤毛の少女は
「あ、ルーちゃん」
少し沈んだ表情で、駆け寄ってくる快活な友に笑顔を
「おはよう」
エリーの様子に、おはようと返しながらもルシュは
「どうしたの?」
「うん……」
彼女はうつむいて、ちらりと誰もいない左を一瞥した。それが示すところを察し、ルシュは、ああと納得する。
「リサは、ソナと?」
「そ。一緒に行くって、
「そっか……」
リサがソナとうまくいったことを、学校の内で知らぬ者はない。四日前、遅刻して登校したルシュを待っていたのは、教師の怒鳴り声ではなくその話題であったほどなのだから。
……とはいえ、
「リサがエリーを置いてっちゃうなんて、思ってもみなかったな」
エリーとリサの仲の良さは、学校でなくとも有名なものだ。例え互いに嫁いでも、夫はこの二人の仲に割り入ることはできないとまで言われていた。
「うん。私も」
エリーが深く長いため息をつく。ルシュは、要らぬことを口にした失態に気づいて顔をしかめた。
「最近すごく不安になるの」
エリーは三つ編みの先をいじりながら、言った。
「よく言うじゃない、女の友情なんてって。私達もそうなのかなって。リサが、このままどんどん離れていくんじゃないかって」
「大丈夫よ」
暗く落ち込んでいくエリーに、ルシュは至極当然とばかりに、驚くほど明るい声で言った。
「世の中にはさ、愛より強い絆があるんだから」
「…………」
ぽかんと口を開けるエリーに、ルシュは自信満々に笑んだ。
「大丈夫。エリーとリサは、そういう絆でつながってるから。どんなにリサがソナを愛したとしても、リサはエリーのこともしっかりと想ってるよ」
エリーは呆れるほど自信満面に言うルシュを、しばし茫然と眺めた。
彼女に何か根拠があるようには思えない。しかし、彼女は本気だ。
「ルーちゃん」
彼女の、気概とでもいうような輝きに
「何かあった?」
「なんで?」
さも意外そうなルシュを、エリーが不思議そうに眺める。
「だって、なんだかすごく大きく見えるから」
「そんなことないよ」
ルシュはエリーの顔の前で、一つ二つ人差し指を振った。
「夢見る少女がもっと夢を見るようになっただけさ」
笑って、ルシュはとんとエリーより前に踏み出した。
「さ、早く行こうよ。学校。で、リサを冷やかそ」
肩越しに白歯を見せてくるルシュに、エリーは心の曇りを吹き飛ばされた。
「そうね……。うん。腕によりをかけて冷やかそう」
元気を取り戻し、脇をすり抜けていく彼女の足取りは軽い。
ルシュは親友の姿に、よし、と目を細め――
そして、
「ちょ、おーい。わたしを置いていかないでよ」
どんどん先に行く、左右に揺れる赤い三つ編みを慌てて追いかけた。
翌年、ユリネさんは元気な女の子を出産し、そしてあの出来事から十年後、ライベル夫妻は死の床についた。
その早過ぎる死は、人には余る力を宿してしまったためだろうと、カザラは言った。
わたしも、そのように思う。
二人の死は原因が判らず、言うなれば老衰と、そう言うしかないものだったから。
「母さん、どうしたの」
「え?」
「ぼーっとして」
「……ううん、なんでもないわ。
アイ、とても綺麗よ」
「……ありがとう」
そして、アイがわたしの娘になってから、また十年の歳月が流れた。
アイは母親に似て美しい娘に育った。父親に似て、優しい娘に育った。
純白のドレスに身を包んだ彼女は、そう、まるで天使となってわたしの前に現れたユリネさんのようだ。
今日、彼女は結婚する。
ノマさん。相手の男性は、あなたに劣らない素晴らしい人です。
「母さん、またぼーっとしてる」
くすくすと笑う仕草に、ユリネさんの面影が揺れている。
「…………お父さんと、お母さんのこと、考えてるの?」
「…………だめね。今日は、すぐ思い出しちゃう」
「今日だからだよ」
「どうして?」
「私も、今、お父さんとお母さんがいるような気がするもの」
「…………そう、ね」
アイの笑顔に、微笑む二人が重なって見える。
彼女の中に確かに息づいている、ノマさんと、ユリネさんが。
「きっと……そうだわ」
「どこにもいないと思ったら……空を見てたんだ」
「……ああ」
空はまっさらに、どこまでも広がっていた。青く、雄大に。天高く、天よりも高いところまで透き通っているように。
二人が亡くなったのも、こんなに明るくて、美しい空が広がる日だった。
「……何を、考えていたの?」
「……………………」
どんどん弱っていく二人を助けるために、カザラはエドリア村にやってきた。
そして、死に近づいていく二人の悲しみや苦しみを全て受け止めながら、ただ黙々と世話を続けた。
彼も解っていた。回復は無い、と。
それでも、彼は笑顔を絶やさず励まし続けた。
――最期の日は、二人に同時に訪れた。
その日は調子が良いからと、二人でベッドに腰掛けて、アイと尽きることなく話をしていた。
心配するわたしに大丈夫と言って、でももう冷たくなり始めていた手は、わたしに二人の死がすぐそこまで近づいていることを教えた。
アイが話し疲れて眠った後、ノマさんとユリネさんは、畑から帰ってきたカザラを二人の間に座らせた。
ノマさんは、カザラと手をつなぐことを望んだ。
ユリネさんは、カザラと手を結ぶことを望んだ。
二人は幸せだったとカザラに告げた。いつまでも彼に甘えてしまったと笑って、彼に感謝を伝えた。
わたしは涙を止められなかったけれど、カザラはずっと、ずっと微笑んでいた。最期まで二人を笑顔で見守り、ありがとうと手を握り返し、そして看取った。
息をひきとった二人の手を重ね合わせた時、彼はようやく泣いた。
だけどそれきり彼の泣く姿を見たことはない。
二人を埋葬する時も、彼は涙を見せず、泣き叫ぶアイを慰めていた。
それきりカザラが、涙の一粒も落とした姿を見たものはなかった。
泣けばいいのにと言っても、ただ微笑んで、涙が本当に枯れてしまったかのように。
「……ねぇ、カザラ」
失うということは、何よりも怖い。
今も、夫や子供達、友達や家族の誰か一人でも欠けてしまうことを想像するだけで、わたしは足がすくんでしまう。
……カザラは、その人生の中で、愛よりも強い絆で結ばれていた二人を、同時に失ったのだ。
「あなたは、幸せ?」
「何をいきなり……」
「幸せ?」
「聞くまでもないだろう? そんなことは」
カザラは笑う。
彼が抱き締めている幸せに、偽りはない。
「……そうだね」
だけど、カザラの中には深い
彼はそれにずっと堪えてきた。そして、ずっと抱えて引きずっていくのだ。
どんなに幸せでも、どんなに楽しく喜んでも……今も、笑っていても。
わたしにはそれが、とても、哀しく思える。
そしてわたしには、それを癒せないことが悔しかった。
どんなことをしても二人は帰ってこない。わたしも自分の中にある悲しみを消し去れないのに、それなのにカザラを癒せるなんて、できはしない。
ただ、同じ苦しみを、悲しみを分かち合うことしかできない。
……でも、それでいいのだろう。
きっと、それでいいのだ。
「さぁ戻りましょう。アイが待ってるわ」
「ああ」
昨夜、彼は独り蝋燭の光の中で、グラスに酒を注いでいた。にこやかに、杯を掲げて。
その時、彼が囁いた言葉。
「アイは綺麗か?」
「ええ。きっとびっくりするわ」
「そうか」
わたしは、彼のその言葉を一生忘れることはない。
……絶対に。
――ノマ
――ユリネ
お前達の愛は受け継がれている
大きく、温かく……育っているよ
完