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 カザラが口にした、あまりに信じられぬ言葉に誰もが耳を疑った。誰もが、グゼを乗り越えんとしていた、ユリネまでもが。
「まだ、グゼに話が残っている」
 彼がもたらした沈黙は、これまでのものとは全く質の異なるものだった。
 惑いが、カザラを中心に渦巻いている。その沈黙には緊張の一つもなく、ただただ疑念と呆気にとられて、皆が口を動かせないでいた。
 ノマもルシュも、最も困惑しているであろうグゼも、きょとんとしたまなこでカザラを見つめている。
「――――話すこと、だと?」
 ようやっと言葉を取り戻し、グゼが今までとは違う、どこか遠くから聞こえる声で言った。
「千載一遇の好機を自ら失い、私に何を話すと言うのだ」
 カザラは、答えずっとグゼを見つめた。
「…………」
「…………」
「…………そんな目で、見るな」
 やおら、グゼが双眸を落ち込ませた。
「わかっている。私はもう、何もわからない」
 矛盾した言葉。しかしその一言は、グゼの心全てを表していた。
 これまでになく自信を失い、暗くおもてを沈み伏すグゼの様子に、カザラの頬が緩む。そして彼のその笑みもまた、これまでにないものであった。グゼを劣位に置いているというに、その顔は優位者のものではなく、穏やかな労りを刻んでいる。
 ルシュは、そのカザラの笑顔を目に、妙にやるせない寂しさを感じていた。
「話とは、何だ?」
 一度かぶりを振り、諦観ていかんに染まるグゼの双眸へ、カザラは結んでいた唇を開いた。
「このままお前を封じちゃ、危うい」
 グゼの眉間に、困惑の影が落ちる。
「お前は今、絶望しているだろう?」
 その問いに、グゼは何も応えない。構わず、彼は続けた。
「絶望だけを持ち独り閉じ込められれば、生まれるのは憎しみだ」
 はっと、ノマは息を飲んだ。
 その言葉は、昔、彼に自分が言った言葉だった。いつだったか、独りにしないでいてくれた彼に、感謝を込めて語った言葉だった。
 激しい自責と後悔がノマを急襲する。
 気づいていなかった。その時も、今の今までも。ずっと絶望だけを持ち独り閉じ込められていたカザラの心に、気づくことができなかった。
「……」
 ノマの謝意と自責の目に気づくこともなく、カザラは口唇を真一文字に結ぶグゼを見つめ続けていた。
「……………………私が、憎しみを持つと言いたいのか? 人間に」
「あるいは、ホロビになっちまうことも、な」
 グゼの顔が紅潮した。
「そのようなことはない!」
 カザラの暴言に怒りを取り戻し、叫ぶ。
「それだけは絶対にあるものか!」
「ならばなぜ、お前はノマを憎んだ」
 自嘲気味な顔、静かな声の問いかけに、グゼはいぶかしんだ。
「当然だろう? ノマは、ホロビなのだから」
「ノマはあくまで人間だ」
 カザラは即座に、用意されていた言葉を告げた。
「ホロビの器というだけで、ホロビじゃない。言わば生贄いけにえだ、ホロビを滅するための」
「……そうだ。しかし、犠牲は何事にもつきまとう。これは運命に定められた不可避のことだ」
「そうだな……そうかもしれない。だが、ならばなぜお前はノマを憐れまない。なぜノマを憎む」
「私がノマを憐れむだと?」
「…………お前は全ての人間を愛し、全ての人間を憎むホロビを殺すために存在しているんだろう?」
「そうだ」
「まだ気づけないのか?」
 カザラの問いに、グゼは何も応えられなかった。カザラが何を言いたいのか、全く判らない。
 カザラは惑いばかりを浮かべるグゼに、目尻をそばめた。
「グゼ。ノマは、本来ならお前が最も憐れむべき人間なんだよ。お前が救いたくても絶対に救えない存在にんげんなのだから」
 あ、と、ルシュは口を開いた。確かに、カザラの言う通りだ。本当ならグゼがノマを憎むはずがない。
 グゼは激しくおののき、体を強張らせ、瞠目していた。
「お前は危ういんだ、グゼ。自己の矛盾に気づくことなく、『使命』と存在意義がずれていることにすら気づくことができない。
 そしてお前は、人間を救うと言いながら、もはやホロビを殺すことだけに執着している」
 カザラは、嘲りの笑みを浮かべた。
「お前は、すでに憎しみに侵されている。ホロビを憎むあまりに、その憎しみに蝕まれて本来の目的すら薄くなってきている。
 危険なんだよ、そんなお前がホロビにならないなど、それこそ信用できない」
 ルシュは、精神こころを消沈させるグゼに叩き込むように言いつのるカザラを、戸惑いの目で眺めていた。
 彼は何がしたいのだろうか。絶望を持って封じられようとしたグゼを留めて、それが危ないと言いながら、なおも絶望を深めようとしている。
 彼は、一体、何をしようというのか。
 正直、彼を止めたい思いを抱えて、ルシュは沈黙を守った。
 カザラの目は、何か一つの目的を携えている。
「信用……できぬか」
 グゼは絶望を超えてつき抜けてきた空虚を胸にし、魂から力が抜けていく中で、それでも口元に自嘲が表れるのを感じていた。
「そうだろうな」
 これまでの、自らの想いが、言葉が脳裏を駆け巡る。そして、気がつかなかった自分の矛盾……いや、自らの使命いのちを否定する『人間の守護者』の姿に、涙がまた静かに溢れてくる。
「お前の言う通りだ」
「…………」
「お前が危惧するのも、もっともだ……」
「…………」
「すでに私は、人間を、本気で殺そうと思った……」
 その告白に、反応したのはノマだった。グゼの言葉が示すのは自分ではないことを悟り、自ずともう一人の対象を理解する。
「…………ありがとう」
 グゼはノマを見つめた。彼が口にした一言に、驚く。彼の温かい心に、驚く。
「礼は、言わないでくれ。お前の子を守ったのは、お前の妻だ」
「……それでも殺そうと思えば、あなたにはできたはずでしょう」
 グゼは歯を噛み締めた。
 思えば、前にノマが感謝を示した時、彼が持っていた他の心を感じ取ることができなかった。
 彼は、自分を憐れんでいてくれたのに。愛する人間が自分の境遇を悲しんでいてくれたのに。
 グゼは悟りきったように、それとも呆けたように上向いた。梢を彩る木漏れ日に目を痛ませ、そして、ゆっくりと瞼を閉じる。
 ……思い出せない。
 改めて記憶を探っても、これまで繰り返してきたはずの戦いが、思い出せない。繰り返したということだけは、このに刻まれているというのに……。
 なぜ、気がつかなかったのだろうか。
 自分の命を、肉体を持たないたましいに形もたらす存在の意味を、根本から朽ち枯らす事実に、なぜ気がつけなかったのだろうか。
 ――いや、
「……」
 グゼは閉じられた視界に、カザラの姿を映した。
 カザラ、自分に、気づかせた男。激しい憎悪をもって眼前に立ちはだかり、『死』をもたらした死神。
 そう、死だ。
 気づけるはずもない。使命、存在意義、それを疑うことは自死を意味する。気づくことなどありえない。違和すら感じることもない。
「――――」
 ふと、グゼに疑念が生じた。
(なぜ私は生きているのだ?)
 茫然と、考える。
 命を成す存在意義が失われた時、それが使命の達成であれ崩壊であれ、『グゼ』たる自分の存在は消えるはずだ。
「…………」
 グゼは瞼を上げた。
 そよ風に揺れる梢と、きらめく木漏れ日。美しい、どんなにしても人の手には作られることない美しさが、瞳を貫き心まで射し込んでくる。
 だが、グゼにはその散りばめられた光が、群れなす不気味な目玉に思えた。非難と嘲弄ちょうろう、侮蔑と罵倒の眼が、光に満ちた世界からこちらを覗きこんでいるかのように。
(そうか…………)
 グゼはノマにを転じた。
(『死』にも、嫌われたか)
 深い自嘲、悲しみと嘆きに、胸の奥が軋む。
(…………当然、だな)
 未だ生きているのは、カザラの言葉通り、狂っているからだ。
 ……ホロビを殺すことのみが、目的となっているからだ。
 いつの間にか、人間を救うというまごかたない意志を、ただ付随するだけの産物に成り下げてしまっていたからだ。
 人間を救うための、『グゼ』たる絶対必要が失われても、ホロビはまだ目の前にいる。今この魂にこびりつく使命は、今すぐにでもノマを殺せば果たされるのだ。奴の魂に潜むホロビを、殺せば!
 死ぬはずがない。存在意義は、まだ生きている。
「――――」
 しかし、グゼはノマの双眸に、打ちひしがれていた。
 純粋で、本当に綺麗な瞳が、そこに輝いている。まぶし過ぎるくらいに、美しく。
 それは、報いを求めることない、ただ彼が真に望む透明な意志
――「せめて身近な人だけでも守りたい」
 その言葉、その想いそのものだ。
(私も)
 グゼはたまらず、ノマから視を逸らした。
(私も…………ただ守りたいだけだった)
 明瞭と思い出せる、原始の記憶。それが今、その主を苛む。目を逸らしても瞼に残る瞳に、己を産んだココロが形を成して重なり、悲しく問いただしてくる。
 ホロビを、殺すことが目的となっていたことが、君の狂いの全てか?
(違う……。私は、いつしか救ってやらねばならないと――)
 何時いつからか、傲慢になっていた。『ホロビを唯一殺せる存在』を楯に、神になったかのごとき尊大さを振るっていた。誰かを守りたいと言う者達の意志をおもんぱかることもなく、あげくには一笑し、愛しい人間達の美しい心を見下していた。
 カザラの言葉が思い出される……
――「お前は要らないんだよ」
 グゼの顔から、表情が完全に抜け落ちた。絶望も哀しみも苦悩も何も無い。この場に確かにいるというのに、カザラ達にその存在が幻のものであるように感じさせるほどに。
 完全に停止しそうな思考の中、グゼはその胸に嘆きを漏らした。
(私は要らない)
 例え今ホロビが現れ、それを滅したとしても、それはホロビへの殺意のため。もはや人間を守るためではない。
 どう足掻いても、本来の思いを遂げることはできないのだ。
 そしてそれは、人間達が私に望んだから……『グゼ』の存在すらをも否定されたから。
 『グゼ』の存在を型作る全てを……
(違う!)
 反射的にグゼは自らに否を唱えた。
(全てでは、ないはずだ)
 この存在を型作る全て。その中に、他の何を置いても、否定されたくないものがある。いや、否定などして欲しくないものがあった。
(守りたいという気持ちだけは)
 その想いは、誰がどのような思いで持とうとも尊きものだと思っている。『グゼ』が必要とされなくてもいい。報いは求めない。しかし、愛する人間達に、守りたいという純粋な心を否定しおとしめることなどあって欲しくない。
 だが――だが!
 判らない。ただ守りたかった。そのオモイすら人間達には不要だったのか、ただ守るチカラがただ在れば良かったのか。
(私には判らない!)
 グゼはカザラに目を向けた。
 彼なら判るはずだ。カザラなら、私よりも私を知るこの男なら、私を助けてくれる。
「カザラ」
 悲鳴じみた弱々しい声で呼びかけられ、カザラは内心の焦りを強めていた。
 重苦しい沈黙の中で見せられたグゼの表情。静寂の中に震えたひ弱な声と、すがりついてくる瞳。
(追い詰め過ぎたか?)
 カザラは心中で毒づいた。
 『自分』を理解させるための絶望を与え過ぎたとすれば、本当に伝えたいことがもう届かないかもしれない。
 何も言わず、こちらを見つめているだけのカザラに、グゼは泣き出しそうに眉目を垂れた。
「教えてくれ、私の、守りたいという想いも、要らなかったのか?」
「そんなことはないです!」
 グゼの問いに応えたのは、ルシュだった。
 答えようとしていたカザラよりも、何かを言わんとしていたノマよりも速く、叫ぶように応えていた。
「…………」
 五つの眼が自分に集中したことで我に返り、彼女は昂ぶった感情を納めるべく一つ息を吐いた。
「そんなことは、絶対にないです」
 グゼが頼りない瞳でこちらを見つめている。強さが見る影もない。まるで、昨夜のカザラが見せた姿のように。
 いや……グゼとカザラは、互いの写し身だ。
 ルシュはこれまでの二人のやり取りをあらゆる思い出し、喉を震わせて言葉を紡いだ。
「誰かを守ろうとする心、想い。大切だと思います」
「…………」
「例え誰かに求められなくても、例え歪んでいても、どんなに傲慢なものだとしても、守りたいって気持ち、とても大切です」
 ルシュの言葉を黙り聞いていたグゼの顔は、茫然としたものになっていた。これまでのものとは違う、何か憑き物が落ちたかのような、力の抜けた顔
 それを見て、カザラは内心苦笑していた。肝心なところで、また彼女に救われた。
「……人間は、愛しいもんだな」
 カザラに言われて、グゼのおもてにふっと力が戻った。
 今一度少女を見つめ直す。
 心を見透かしたような彼女の言葉に、心が、満たされている。
 グゼは静かに、凝り固まっていた唇を緩めた。
「そうだな」
 グゼの声が落ち着きを取り戻したことに、ノマは驚嘆の目をルシュに向けた。
 なんという娘だろうか。僕達だけでなく、グゼの心までをも助けるとは。
 少しおどおどと、自分の言葉が引き起こした、見えざる大きな変化に戸惑っているルシュ。ノマはその様子に目尻を緩ませた。
「なぁ、グゼ」
 呼びかけられ、グゼはカザラに深い光を湛える瞳を向けた。
「俺は、お前がいてくれて良かったと思っている」
 先程まで、自分を追い詰めていた死神が、突然労りの言葉を投げかけてきた。グゼは一転した彼の態度に疑念を打った。
「お前がいなかったら、俺達はこの世にはいない」
 グゼからは怪訝な様子が抜けず、応答もない。だが、カザラは構わずに続けた。何も持たない右掌を開き見せて、
「必要ない、なんてことはなかったさ。確かにお前は『グゼ』だ。
 もう十分に人間を守った」
 その言葉が呼び水となり、グゼの脳裏にが甦る。グゼはカザラから、そのの主へと目を動かした。
「…………」
 そしてまた瞳をカザラに移す。彼は、どこかその親友に似た顔をこちらに向けていた。
 グゼはもう一度二人を交互に見、
「心から、感謝しているよ。人間が今営めるのも、お前のおかげだ」
 体の奥底から湧き上がってくる、言葉にし得ない感情に魂を震わせた。
「そうか…………私は守れたのか」
「ああ。お前を狂わせた人間共がいなければ、もうお前は死ねていたはずだ」
 カザラは、目を伏せた。
(……まだ私は私であれたか)
 グゼは一筋射し込んできた希望に、安堵の吐息を漏らした。
 そして、目を伏せるカザラから悔やみにも似た情を感じ、それが気になった。
「カザラ、何を思っているのだ」
 グゼがかけてきた労りの声に、カザラが目を上げる。
「お前の、死に時を取り返すことだけは、できないからな……」
「死に時、か。……そのようなこと、さしたることではないよ」
 そこに、カザラが不思議な微笑を割り込ませてきた。
「満足のいかない死ほど、悲しく無念なものはないだろう?」
 グゼはカザラに何かを言いかけて、やめた。
 彼の身から憎悪がこぼれていることに気づいたのだ。しかし、それは全てに斬りつける無差別な兇情きょうじょうなどではなく、ただ一つのくうに注がれている。
「……」
 そしてもう一つ、グゼは理解していた。彼は、私のためにも憎んでいる。
 それは、正直嬉しかった。そして哀しかった。
 カザラの憎悪は、もはや決して果てることはないのだから……
「だから、頼みがある」
「頼み?」
 意外な言葉にグゼが聞き返す。
 カザラはうなずき、言った。
「お前の手で、せめて俺達を救ってくれないか」
 それは、慈しみと憎しみが織り成した、カザラだけが言える言葉だった。
 他の誰もが言ってもそれはただの願いとなり、ただの提案となる。それは彼だけがえる心そのものだった。
 そして、それを叶えられる唯一の者は、しばしカザラを見つめた後、池の水面みなもへ目を移した。
 風は無く、波立つこともなく静かにある水々。何処かへと流れ出る小川のせせらぎは遠く、逃げ出してしまっているのか虫の一影もない。ただこんこんと溢れる湧水にかすかな波線がある他は、鏡のような水面すいめんに陽光を遊ばせているだけ。
 グゼは口を結び、黙って其処そこを見続けていた。
 何かを思慮しているのか、それとも何も考えていないのか。心に池の様を写したかのように安らかな顔からは、何も読み取ることはできない。
 と、グゼがゆるりと振り向いた。
「お前のことを、運命が与えた試練だと言ったな」
「……ああ」
「違った。お前は、私の愛しい死神だ」
 グゼは微笑んでいた。
 その笑顔はノマとルシュに別人が笑ったのかと錯覚させるほどに、今までのグゼのものとは違っていた。
 これが本来のグゼのかおなのだろう。友愛に美しく、誰にも暖かい。
「死神か……。そんな大層なもんじゃない」
 口端を持ち上げて言うカザラに、グゼは言葉を返さなかった。笑顔を浮かべたまま、刹那にカザラの左眼だけが見ることの許される微かな表情を見せて、小さく頭を振る。
 そしてそのまま、グゼはノマに振り向いた。
「約束しろ。死の間際にもホロビを封じ、共に死ぬと」
 その言葉は、承諾だった。
 不思議と晴れやかな顔で、グゼは自分が投げかけた要求に面食らっている仇敵に笑いかけた。
「お前を信じよう」
 ノマは、身を引き締めた。
「だが、もしホロビが現れることがあらば、その時は私に体を渡すことを宿主に誓わせておいてくれ」
 ノマはゆっくりと、しかし力強くうなずいて見せた。その瞳には凛とした覚悟が宿り、胸を張る姿には意志が漲っている。
 その様に少し、ほんの少しだけ羨望の眼差しを送り、グゼは深い息と共にカザラへと向き直った。
 グゼはカザラを見つめ、カザラはグゼを見つめ、何も言わない。
 まるで無言で語り合うかのように二人は沈黙を続け、やおらグゼが頬を緩めた。
 最後に何か話そうかと思ったのだが、もう話すことがないことに気づく。言葉が出て来ない。彼にかける一言すらも。
 それは、あちらも同じなのだろう。彼はを閉じて右目の眼帯を外し、化物のまなこを再び覆い隠している。
 グゼはカザラが右目を開く姿をじっと見、そして、ふいにルシュへと視線を変えた。
 突然振り向いたグゼと、鉢合わせたようにちょうど正面からの合ったルシュは、心が高鳴るのを耳にした。
 万感の想い。
 想像もつかないほどに積み重ねられた時と、それに連なり、折り重なる想いが詰め込まれた眼差しに、ルシュの胸は締めつけられた。
「……」
 グゼは双眸を閉じ、深く……息を吸った。
「礼を言う」
 暖かい声。
 ノマとルシュは息を呑んだ。
 グゼが口にしているのは遺言だと、思う間もなく理解する。
 目を開いたグゼの瞳には穏やかさがあり、微笑みには諦観ていかんが満ちていた。カザラとノマを順に見、そして、三人をゆっくりと見渡す。
「お前達のおかげで、満ち足りた気持ちで眠ることができる」
 と、ふいにグゼに狼狽が浮かんだ。
 思いの他にあったことに、驚きと少しの喜びを込めて、目の先にある男に問う。
「カザラ…………なぜお前は泣いているのだ?」
 言われると同時、カザラは眼帯の下から流れ落ちるしずくに気がついた。まさかと思い手で触れると、熱いなみだが、確かに指先を濡らす。
「…………」
 カザラは、当惑の瞳で指先をただ見つめている。
 ルシュは、やがて答えを見つけ微笑むカザラと、彼を待つグゼを共に視界に納め、
「この目は、あの日からこれまで、涙が滲むことさえない化物の眼だった」
 ノマは、一つ一つの言の葉を刻んでいく親友と、妻の顔が重なるグゼを見つめていた。
 声をかけることも、息の音を立てることもできない。今ここで悠久の終焉を迎えようとする者に、それをもたらした死神がかける言葉その一片たりとて妨げることは……できようもない。
「それが人の泪を流した。もう、化物の眼じゃない。俺の眼になった」
 音はあるというのに、まるで時が止まった静寂の中。ノマとルシュは、カザラとグゼの間にあるひじりの刻に魅入られ、ただ立ちすくみ見届けることしかできなかった。
化物は、お前についていくようだ」
 カザラはユリネの肉体を越えて、真にグゼの姿を見つめて告げた。
「無粋な道連れで悪いが、はなむけ代わりに受け取ってくれ」
 実に彼らしい片笑みを見せる青年に、グゼは微笑んだ。
「お前達の幸福を願う」
「ああ」
「……さらばだ」

 別れの言葉を言うや双眸が閉じられ、その気配が消えた。
 誰が応えるよりもはやく、グゼは去ってしまった。
 強烈な存在を打ち出していたグゼの最期は、あっけなく、そしてあまりに潔いものだった。
 それは望まれた事だというのに、この場に訪れたのは歓喜でも結実でもなく、侘しく物哀しい想いだった。
 ノマも、ルシュもうつむいている。
 そんな二人を眺め、目前の女性がまぶたを上げるのを見、カザラは胸にちる塊をさらにその奥へと沈ませて、静かに口を開いた。
「ノマ」
 呼びかけられ、ノマは気を戻した。うつむいていた顔を跳ね上げ、瞳を一点へと馳せる。
 そうだ。グゼが去ったということは、彼女が還ってくるということではないか。
「ユリネ!」
 彼は、穏やかに微笑んでいるユリネに駆け寄った。
 間違いない。その微笑み、この雰囲気、その身がまとう温かさ。同じ身体、外に何一つ変化なくともはっきりと伝わってくる。
 妻が、戻ってきた。
「――?」
 と、ノマはユリネの顔が悲しげなことに気づいて、足を遅めた。
 すると、ユリネは夫の様子から彼がこちらの心様を察してくれたことを悟り、一度目を細めた。それからゆっくりとルシュを見、カザラへと向き直る。
 彼女は微笑みのままにしばしカザラを見つめた後、その表情を泣き顔へと崩した。
「……ごめんなさい」
 カザラは苦笑いを浮かべた。こちらに振り返り、妻と同じことを言おうとしているのであろうノマに先んじて、それをため息で制する。
「あのな。こういう時は、抱き締め合うもんだ」
 口軽く言うカザラに、ノマとユリネは気を抜かれたように目をしばたたいた。
 ほんの少しだけだが、これまでとはどこか違う彼の態度に戸惑う。
「…………お帰り、ユリネ」
 だが、彼のその言葉に本当の終わりを実感し、二人は、弾かれたように抱き締めあった。
 その光景は、ルシュにとって何よりも憧れ、そして美しいものだった。
 あるいは死をもって再会することになったかもしれぬ最愛の者を両腕に抱える、ノマとユリネ。夢に見る想いで包み合う姿。
 しかし、その光景を前にして、ルシュの瞳はカザラにあった。
 黙って、満足そうに親友夫婦を見つめる無骨な男。ルシュはその姿に、目を奪われていた。
「…………お疲れさま」
 彼女はほんの小さな声で、彼に言った。
 そしてそれは、今この場で死んだカザラへの手向けの言葉だった。

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