W

 影が残る彼の瞳に、ランプの光がゆらゆらと波立っていた。焦点の合わぬ目ではない。彼はしかとこちらを見ている。だが、カザラは彼が自分だけを見ていないと、どういうわけか確信していた。
 カザラは悠然と食卓に歩き、椅子を引いてその向きを変え、ノマを正面に長く息を吐きながら座ると、背もたれに体重をかけた。
「別に」
 一言、カザラは言った。
「別に?」
「ああ」
「どういうこと?」
「別に」
 頭の後ろで手を組み、カザラは静かに眼を閉じた。
「……そっか」
 何事もない彼のそぶりに、ノマは思わずほころんだ。
「別に、か」
 反芻するノマのおもてに、カザラが見た影はもうない。
 ノマが気を取り直したことを肌で感じとり、カザラは目を開いた。そこには、期待した通りの彼のかおがある。
「良く眠れたか?」
 椅子に座るノマに体を向け、カザラが聞くと彼は少し首を傾げ、
「眠れていたと思う」
 曖昧な返事だったが、カザラはそれで十分そうだった。
「メシはどうしようか」
 テーブルの上にあるのは、火が灯る燭台だけ。朝まであった料理はもう片付けてある。
 ちらりと窓の外を見やって、カザラは言った。
「そろそろ作らないとな。食材、適当に使わせてもらうぞ?」
「え? あ……いいよ。僕が作る」
「まぁ、まかせとけって。俺もそれなりに作れんだから」
「カザラが?」
「おかみさんの手伝いをするのも…」
 と、カザラが言う合間に、玄関のドアがノックされた。
 コン、ココンと軽快なその音に、カザラは顔をしかめ、ノマは物慣れた顔で扉へ振り向いた。
 自分が出ると掌をこちらに向けるノマに、カザラは言った。
「ユリネは風邪ってことにしとけよ?」
「大丈夫。ルーちゃんだよ」
 その名にカザラは絶句した。
 ノマはそれに気づかず、しっかりとした足取りで玄関に向かい、かんぬきを外して少女をできる限りの笑顔で迎え入れた。
「いらっしゃい。今朝は……あんなこと言ってごめんね」
「気にしてないよ、ノマさん」
 すまなそうに顔を歪めるノマに笑顔を返して、ルシュはカザラを見た。帰された自分に対して、しっかりとノマを元気づけていた彼に口惜しさがつのる。その彼が、怒りとも呆れともつかない表情でこちらを強く睨みつけてくるのに、彼女は反抗の目を返した。
「どうしたの?」
 睨み合って動かない二人に、困惑した様子でノマが訊ねる。
「なんでもないよ。さ、ノマさんは休んでて。今日はわたしが夕食作ってあげるから」
 と、ルシュはノマの背を押し……そして彼の死角で、カザラにい〜っと歯をむいて見せた。
「……言ったはずだが?」
「そうね。じゃあ手伝ってよ。料理を作るってことがわたしにもできるところ、見せてあげるから」
 ノマに言うとは大きく違う、挑戦的な口調とその皮肉に、カザラは疲れたように嘆息した。

「メシを作ったらすぐに帰れよ」
 台所に移るや食って掛かってきたカザラを横目に、ルシュは背負っていた鞄を下して、その中からクコの果実酒が入った中瓶を取り出し、
「嫌よ。今日、泊めてもらうから」
 突きつけられたその瓶をひったくるように受け取り、カザラは目を細めた。
「おい」
いつもの事よ。それにね、わたしがお見舞いにくれば、皆は、ああルシュが行くんならいいかって思うわ」
 カザラは舌を打ち、手の中の瓶を傍らの棚に置いた。
「もう少し聞き分けがいいと思ってたんだがな」
「そういう女が好きなの?」
「そういうことを言ってるんじゃない」
「正直ね、わたしはまだ半信半疑だわ」
「だったらこれ以上深入りするな。邪魔だ」
「ね、そこの棚の下に小麦粉が入ってるから取ってくれない」
 ルシュは手馴れたもので、ちゃきちゃきと用意を進めている。カザラは、聞く耳を持たない彼女の態度に歯噛みながら、指し示された棚の前に屈みこんだ。
「あ、この包丁、カザラが持ってきたの?」
 粉袋を一番下の戸の中から引き出し、カザラはうなずいた。
「へー。いい切れ味」
 包丁の刃を指の爪にたて、その切れ味を確認したルシュが感嘆する。
「…………」
「…………だいたいね、何で邪魔なのよ」
「言っただろう。これは俺達の問題だ」
 その言葉に、ルシュはさっと手にした包丁をカザラに向けた。カザラの瞳が絞られ、今朝と同じ殺伐とした気配に敵意が混じる。彼女は刃の切っ先を彼の心臓に向けたまま、その双眸を決意に輝かせた。
「わたしの問題でもあるわ。人類存亡なんて関係なくね」
「それは違う」
「違わない。エドリア村のライベル夫妻は、わたしとも繋がっている
 その言葉に、カザラは強烈な迫力を感じた。ルシュがどうのというわけではない。彼女の言葉が内包する、五年という時の重圧に、改めて別離されたを痛感したのだ。
「あんただけのものじゃないのよ」
「……お前は何も知らない」
「知れば何かできるってんなら教えてよ」
「断る」
「話しちゃうと独り占めできなくなるから?」
 カザラの頬が微かに動いたのを、ルシュは見逃さなかった。
「図星ね?」
「独り占めしようなんて思っちゃいねぇよ」
「どうかしら。あの会話のカザラの言葉は、二人に執着してたもの」
 ルシュは包丁を下した。
「あなたは人類存亡という点では、わたしの問題でもあるって認めてた。なのに、自分達の問題だからとわたしを邪魔物扱いする。なぜ?」
「…………」
「関わっている者を、枠の中から排除するのは、あなたが関わって欲しくないからでしょう?」
「よくもまぁ、理屈を通したもんだな」
 たまらず苦笑し、カザラは内心驚いていた。
 この少女は素晴らしい洞察力を持っている。彼女が言うことは、正しい
「だが所詮、それはお前の勝手な推測だろう」
「そうね、これは別にどうでもいいことだわ」
 肩をすくめて、ルシュは微笑んだ。そして、今日一日中考え続けた末に用意した、最大の言葉を彼に投げつける。
「大事なのは、今、ノマさん達に何ができるかってこと。少なくともわたしは、初めから死ぬことばかり考えてる人より、ずっといい事をできるって信じてるわ」
「あれは、俺の覚悟を示したもんだ」
 正直、カザラは苦渋を口の中に滲ませていた。
 ルシュという少女を軽んじていた。まさかこれほど言い負かされるとは……。
(左目を見せるんだったか)
 今さら後悔しても遅い。ここで左目を見せて制することができても、それをすることでノマにも悪影響を及ぼしてしまうだろう。化物のまなこを、彼に進んで見せるのは愚かなことだ。
「ルシュに覚悟はあるか?」
「例えば?」
 カザラは反撃の一手を打った。
「体を使ってノマを慰めるとかな」
 ルシュの年頃の少女には、このセリフが最も効果があるだろうという彼の意図に返ってきたのは、意外にも笑顔であった。
「そうして欲しいのは、カザラでしょ」
 それは単なる切り返しだったのかもしれない。だが、カザラにとってそれは、手痛い一言であった。
 後ろ手に手を組む少女を見つめる。
(可愛くて、明朗快活。賢くて優しくて純朴で、しんの強い女の子)
 二月ふたつきに一通は必ず届いた手紙から、ルシュの像はそう作られていた。
(冗談ぬかせ)
 評価を改め、カザラは嘆息した。
「……お前は、グゼより厄介だ」
「ありがとう」
 微笑み、ルシュは包丁を置くと、棚の横に掛けられたユリネの前掛けを手に取った。
「とにかく、わたしは役に立つよ。カザラ・イエリさん。よろしくね」
 手早く前掛けをつけ、片目をつぶって見せるルシュに、
(しまったな。聞かれたかもしれねぇ)
 そう思い当たりながら、カザラは答えた。
「一つだけ教えてやるよ」
「え、なに?」
「イエリってのは、でまかせだ」
 カザラの心配は、的中していた。台所とリビングの間に、遮る物はない。一連の会話を耳にしていたノマは、目頭を押さえていた。
(ルーちゃん、ありがとう)
 ユリネを、こんな自分を、そんなにも大事に想っていてくれる。これ以上ありがたいことが他にあろうか。カザラといい、ルシュといい、なんと素晴らしい人達に恵まれているのだろう。
 ノマは、二人に出会えたことを、運命に感謝していた。

V-5 へ   W-2aへ

目次へ