V-4 へ

 苔した倒木の傍らに佇み、グゼは思惟しいふけっていた。
 カザラの言葉を思い出す。
 友のために自己を犠牲にし、命を懸けることに何の躊躇いもない姿。宿主は、この身を通して見聞きしていたのだろう。
 彼の前より去り、山林を駆けていた時に、グゼは身魂に混じる一欠片の想いを見つけていた。
 喜びと、しかし哀憂あいうれい、悲愁ひしゅうに煙る想い。それは、胸裏に震える切なさであった。
 それが我知らずの涙となって、表に現れたのだ。
「どうやら、思ったよりも強いらしいな」
 胸元に手を当て、苦笑を刻む。
 宿主の意識は、未だ深淵に眠らずこちらを窺っているようだ。それは驚くべきことであり、また感嘆すべきことであった。
「人もそれほどに弱くない、か」
 カザラから聞き出した原因を思い返し、グゼは自分が封じられた瞬間に思いを馳せた。
 欠如した記憶、その一瞬前の光景。カザラの、左目から血涙を流し叫ぶ必死の形相。ホロビたるノマを庇いながら、彼は何と叫んでいたろうか。
 記憶の中の彼、その口唇は、何かを訴えている。それを聞いたとは思うのだが、
「何と言っていたか」
 覚えていない。それとも、すでに聞こえていなかったのか。次の刹那には、この双眸は営み漂うくりやにあった。
 だが、その時の心様しんようは覚えている。
 カザラの行為に、人間を傷つけてしまった過ちにひどく精神こころは揺らぎ、またあるいは殺しかねなかった恐怖に身はすくんでいた。
 そのような隙があったとはいえ、こちらに何が起こったのか悟らせずに身心しんしんを取り返されるとは――
「かつて、無かったことであろうな……」
 苦笑を深め、グゼは吐息をついた。その瞳に、危機感はまるで無かった。
 確かに、自分は封じられていた。人でしかない宿主に負けたのも事実だ。宿主が現在も自分の意識を裂いて出ようとしていることはゆゆしい。それは、戦慄に値するものだ。
 しかし、
「全く……カザラといい、宿主といい、困った者ばかりだ」
 グゼは、安堵していた。
 自分が眠らされていた原因が宿主の精神の凌駕ならば、大した障害ではない
 無論、知らずにいればこの上なく危険であったろう。だが、平静を取り戻し、また問題のじつを認識した以上、それは恐るべきことではなかった。
 『人間はワタシタチには敵わない』
 何か、ワタシタチに対する秘術があるならば大事おおごとであったが、正面から渡り合うのなら人に勝つ術はない。
 大したことではない。常に気を内にも向けていればいい、ホロビへの憎悪で心を一毛いちもうの隙もなく埋め尽くせばいい。それだけで、もう涙の一滴ひとしずくすら落ちることはないのだから。
 グゼは微笑んだ。
 目覚めの夜の脅威は、杞憂に帰した。
 ふと、グゼは倒木に、その腐れた肌を覆う緑の絨毯に佇むように、か細い芽が息吹いていることに気がついた。
 地に横たわる亡骸なきがらは大きい。嵐にやられたか、病に折れたか、老い朽ちて倒れたか。地に触れる繊維は崩れ元の姿も判らないが、いつかは生き生きとこの場所に降り注ぐ光を独占していたのだろう。
 だが今は、その身を土へと帰しながら新しい命の礎となっている。
 空を見上げ、目を細める。木漏れ日を透いて、落葉樹の葉がさんさんと輝いている。この頂を覆い隠していた木が倒れて、ぽかりと開いた天窓から降り注ぐ光が、朽ち木に生ゆる若木の芽を慈しむように抱いている。
「私の役目は、この営みを守ることなのだよ」
 自らの内へと囁く。
 健やかに生き、は其の宿命に死して次代の礎となる。あるべき自然の巡り。
 人間もその中にいる。
 ホロビなどに滅ぼさせるわけにはいかない。
 その果てが繁栄にしろ衰亡にしろ、人間の未来は自らで定めるべきなのだ。
(……その意味では、カザラよ。お前の言い分は正しいのだろう)
 グゼはそこで、もう一つ彼の言葉を思った。
 手をそっと、下腹に当てる。
「これは宿主の子でもあるか」
 今ならば忌まわしきノマとの子を殺すこともできよう。その証拠に、殺意を持っても昨夜のような妨害は、もうない
「…………そうだな」
 カザラが言うのだから、ノマの死に宿主が自殺するということはあって不思議ではないだろう。
「子は、ホロビではない……」
 少し考えた末につぶやき、いつの間にか入っていた肩の力を落とす。
 そしてグゼは今一度倒木の上にある若木を見つめ、やおら、踵を返してこの場を後にした。

 東向きに据えられた扉が開き、まぶしくも柔らかい陽光が大量に入り込んで来る。
 絶え間なく、心の底から暗く聞こえくる呼び声に沈んでいたノマは、目端を刺すその光に顔を上げて懐かしい者を見た。
「どうした。そんな顔して」
 後ろ手に扉を閉じながら、カザラは憔悴したおもてのノマに言った。
「まるで世を恨み疲れたって感じじゃねぇか」
「……………………そんなに、ひどい?」
「ああ。目の下のくまは立派なもんだ」
 カザラは言いながら、机を挟みノマを向こうに、椅子にどっかと腰を落とした。そしてこちらを弱々しく見ているノマに、
「もっと気をしっかりと持てよ。そんなんじゃ、ホロビが本当に出てきちまうぞ」
「……」
「いくらなんでも、化物二匹は勘弁してくれ。特にホロビは俺にゃお手上げだからな」
 軽口を叩くようなカザラに、ノマはなんとなく、無表情だった顔をほころばせた。
「そうだね」
「そうだ。お前が頼りなんだからな」
 ノマはカザラの姿に、安心を思い出していた。それは自心にこびりつく闇を、底へ押しやろうと働きかける。この気持ちは、昔と同じだった。
(昔……)
 ノマの脳裏に、鉄格子の向こうに見ていたカザラの姿が浮かび上がる。
(……そっか。あの時のカザラに、戻しちゃったんだ)
 光を背に帰ってきた彼は、まさに昔のままであった。
 つい昨日までのカザラは、憎しみと怒りを鎮めていた彼は、どこかへ行ってしまった。目の前にいるのは、『全て』に向く憎悪と怒りの熱波を内に秘めながら、自分達にだけは優渥ゆうあくの眼差しをくれる懐かしいカザラだ。
「何を落ち込んでるんだ?」
 目を伏せて押し黙るノマにカザラが訊ねると、ノマはハッと視線を上げた。
「ごめん」
「何がだよ」
「…………カザラ、せっかく心穏やかにしてたのに…………昔に、戻しちゃったから……。カザラの五年間、無駄にしちゃって」
「おいおい」
 なおも言葉が続きそうなので、カザラはノマを制した。心外なことをと眉をはね上げて、言う。
「俺が心穏やか? 馬鹿言うなよ。くそじじいに殴られる毎日で、穏やかに暮らせるわけがないだろう」
「でも……」
 唇を固くしてうつむくノマに、カザラは
(……よくないな。まさか、本当にホロビが首を出し始めてるか?)
 胸を打つ不安を外に漏らさぬよう、嘆息した。
「俺は戻ってなんかいない」
「え?」
「変わっていないからな。親方によく言われるんだ。人間不信を少しは治せって。
 あの村に育った俺には、無理なことなのになぁ」
「…………」
 カザラはふとノマを見つめ、
「いや、それは理由にならねぇか」
 苦笑する。
「どうして?」
「お前とユリネみたいのがいたんじゃ、な?」
「そんな……」
「そんなことないって言えるか?」
 ノマは言葉につまった瞬間に口を差しこまれ、閉口した。思い出そうとしても、信じられない人間は、
(何にも知らないくせに――)
 いないはずだった
 だが今は、カザラ以外の人達を憎らしく思い始めている。
「…………分からない」
 微かにこぼれたノマの囁きに、カザラは思わず身を硬くした。
「ノマ」
「なに?」
「何があっても、恨むなよ?」
 カザラは我知らず声に力を込めていた。
「お前は、恨んじゃいけない」
「…………分かってるよ。大丈夫、心配しないで」
 ノマは、すがるような彼の瞳に少し驚きながらも、笑顔でうなずいてみせた。
 だが、カザラはノマの瞳が、笑みを造る表情の下で、細やかに揺れ動いていることを見抜いていた。
(早いところ、片付けないとな)
 彼の心を照らし、力づける自信は正直無かった。結局、自分にできることは一つしかないのだ。それこそが、昔から変わっていないことだ。
 いや、もう一つ、できることがあった。
「グゼに会ったよ。あいつも、変わっちゃいなかった」
 それは、希望を伝えること。
「そう……」
「だが、まぁ、手はありそうだ」
「本当!?」
 力無く座していたノマが、身を乗り出して叫んだ。血の気の失せた顔にいくばくかの赤が加わり、双眸に光が閃く。
 カザラはくっくっと喉を震わせた。
「そうそう、そうやって希望を持って、ユリネを信じてろ」
「ユリネを?」
「グゼの中で、ユリネも戦ってる。お前のところに戻るために。
 だからお前は、あいつが帰ってきた時に、笑顔で迎えられるようにしとかねぇと」
「ユリネが……」
「ああ」
 ノマの口元に本物の微笑を見て、カザラは目を細めた。それから目の前に置かれた皿の上にあるソーセージをつまむ。
「さ、お前も食えよ。食わなきゃ人間、考える力すら無くなっちまう」
 水分が飛び、皺が寄った硬いソーセージを噛み切りながら、ふと鍋敷きと空のスープ皿を見て、
「スープがあるみたいだな。温めてくるよ」
「あ……僕がやるよ」
 立ち上がったカザラを止めて、ノマがゆっくりと立ち上がった。ずっと座り続けていたために、こわっていた両足が小さな音を立てる。
「少しは、動かないと」
 カザラに力づけられ、ノマは取り戻した少しの明るさをもって、おどけてみせた。
「体が糸繰り人形みたいに、ガチガチになっちゃうからね」
「そうか?」
「うん。カザラこそ、体を休めていて」
 まだ弱々しさは色濃いが、先刻よりはずいぶん良い。
「それじゃあ、お言葉に甘えるよ」
 椅子に座り直し、カザラは台所へ手を差し向けて、ノマを送る仕草をした。ノマは微笑み、少しぎこちない歩みで台所へと向かった。
(ごめん……か)
 友の倒れそうな背を見ながら、カザラは先ほど彼がくれた謝意を思い返していた。
(それは俺の言葉だ)
 消えることなく、心を染め上げ続ける悔恨。
 たった一つの過ち。ユリネの人生を狂わせ、ノマを巻き込んだ、全ての元凶。
 胸の内側を腐らせるような憎怒ぞうどと共に、その過ちは一つの村の歴史を終わらせ、同時に心の深淵で眠りについた。時々それが首をもたげてきて、苛まされ、夜を悶え越すこともあるが、眠っていた。
(…………謝って、済む問題じゃないがな)
 脳裏にあるのは、幼少の頃。
 幼なじみのユリネに、好きになってもらいたくて、その日貰ったとても綺麗な宝石を贈っている、白布からのぞく自分の小さな手。ユリネの、可愛らしい笑顔。小さな偶然が重なり、大人はその宝石を自分が持っていないことに気づかなかった。
 知らなかった。その純水のように透き通った宝石が、どんな意味を持っていたのか。自分が言われていた『グゼの器』という呼び名が、何のことなのか。
 知ったのは、全て後になってからだった。
 小さな偶然が重なったからだと、逃げることはできない。知らなかったことを言い訳にはできない。七というよわいが、救いの手になることもない。
 幼心に大変なことをしたと思った。やがて時を重ね、だが事実はその程度で済むことではないと知った。
 背中には、今も、真実を理解し泣きじゃくる少年がいる。
 年を追うにつれ、後悔は消えるどころか大きくなっていった。ユリネをいずれ敵となるノマに会わせたのも自分だ。まさか、愛し合うようになるとは思ってもいなかった。
(なのに俺は、許されている)
 重々しく息をつき、カザラは大きく厚くなった、傷だらけの手を見つめた。
 記憶にこびりつく小さく頼りない手よりは、ずっとずっと力のある手になっている。だが、結局は過去を振り払えない矮小わいしょうな手だ。鉄を打ち鍛えられても、宿命は打ち消すことができない。
「おまたせ」
 と、台所からスープの入った鍋を両手に支えたノマが慎重に歩を進めてきた。
「――ああ」
 思ったよりも長い時間が流れていたことに気づき、カザラは姿勢を直した。
「いい匂いだな」
「ユリネの渾身の作だからね、おいしいよ」
 にこりと笑うノマに、
「…………」
 カザラは、目尻をそばめて微笑みを返した。

 昼休み、眼下の庭では、生徒達が思い思いの時間を過ごしている。空は、朝はあんなに晴れていたのに、今は灰色の雲が全天を覆っていた。
 雨は降らないだろうが、嫌な天気だ。窓辺に椅子を寄せ、窓枠にもたれて外を眺めながら、ルシュはもう幾度目かのため息を漏らした。
 頭の中で、ノマとユリネとカザラの姿が巡っている。ずっとずっと、彼等の言葉一つ一つがぐるぐると渦巻いている。中でも際立って、カザラの言葉が脳裏に反響し続けていた。
(人類存亡……か)
 ルシュは、未だそのことを信じきれなかった。と、言うよりは、信じることができないと言った方が正しいか。確かにユリネの動作は人のそれではないが、とはいえ話があまりにも大きすぎる。こんな片田舎で、それも仲の良い夫婦が演じるのは滑稽というものだ。
「カザラも、うまいこと言うわよね」
 本当に性質たちの悪い飯事ままごととしか思えない。
(…………そりゃ、そうならわたしにできることはないだろうさ)
 少々むくれて、ルシュは目を閉じた。
 瞼の裏に『死ぬこと』と言い切ったカザラが映る。
(でも死んで何ができるって言うのよ)
 脳裏の彼に文句を言っても、彼は答えない。だが、彼は言う。
――「一度は戻った」
 ということは、昔も、自分の知らない三人はその困難を乗り越えてきたのだろう。だからこそ、あれほど強い絆があるのだろう。
 嫉妬心を燃やしたところで、それが空焚きの火にしかならないほどに羨ましい絆が。
 幸せそうに団欒する三人の姿が、ありありと頭に浮かぶ。
(……駆け落ちの話は嘘ね)
 もはや彼等の過去は全く想像できないが、それぐらいは判る。カザラに体よく騙されていたのだ。もっとも、騙されたままにいれば、こんな無力感に打ちのめされることのなかっただろうが……。
 ルシュは、嘆息した。
「何が心を温めてくれた、よ」
 最も大変な時に何もできない一介の小娘が、考えられない過去を持つ二人の心を癒せるものか。
 なんだか泣きたくなってきて、ルシュは薄く目を開けた。少しにじんだ風景に、一時いっとき心を移す。
「そんなこと言っときながら、わたしにできることはないって断言してさ」
 再び、ルシュの脳裏にカザラの声が響く。
――「ユリネを返せ」
(同じ話を繰り返すつもりか? そんなつもりはない)
 勝手に耳の奥に流れる会話は、もう暗唱できるほどに覚えてしまった。あまりに強烈すぎたその内容は、一句たりとて漏らしてはいない。
(……せめてもの償いだ。人の前には、姿を現さずにおこう)
 また一巡した所で、ルシュは吐息をついた。
「解らないことばっかり」
 その言葉の意味は解っても、どういうことか理解できないことばかりが、心にささくれを作る。
 嬉しそうに、殺されることを望むカザラ。なぜそんな顔でそんなことを言える?
 『グゼ』が言う宿主。ユリネのことだとは判る。だが、何故『宿主』なのだ。
 他にも、幾つもカザラに訊きたいことがある。彼との会話で問いただすつもりであったが、結局はかなわずに終わってしまった。
 思えば、
(カザラにいいように話を進められたような気がするな)
 例え質問にこぎつけていたとしても、彼は答えてくれただろうか。彼が纏う拒絶は、尋常なものではなかった。
(でも)
――「あいつらを、恐れずにいてくれるのかな?」
 そう言う姿は、ひどく弱々しかった。彼にとっては、ノマとユリネは何よりも、己の命よりも重く大切なのだと手に取るように解る。
(つまり、二人のこと以外どうでもいいのよね)
 ルシュ・アカニネという人間の気持ちは、どうでもいいのだ。
(これは俺達の問題だ、とか言ってさ)
 考え続けているうちに、段々と、段々と無性に腹が立ってきた。
(ユリネさんもノマさんも、あんただけのものじゃないってのよ)
 確かに、問題は彼等のものだ。だが、もはやこれは、ライベル夫妻が大好きな自分にとっても大きな問題ではないか。
(そもそもわたしもわたしよ。何でノマさん達に何ができるかをカザラに聞いてるの? そりゃあ、ノマさんには帰ってくれって言われたけど……だからって、あいつが自信満々に『無い』なんて言うのも変な話じゃない。何を根拠に断言するってのよ)
 確かに、自分には本当に何もできないのかもしれない。だが、結果は全ての後に出るものだ。もしかしたら、後になって
(ああ、ルーちゃんがこうしてくれて良かった。とか言ってくれるかもしれないじゃない)
 自分の精一杯の気持ちを拒絶する、カザラの威圧的な態度を思い出して、ルシュは拳をぎゅっと握った。
(なのに、わたしはなんであんな奴の言いなりになって落ち込んでるわけ!?)
 ルシュの双眸は熱く活気を取り戻し、腹から脳天に突き抜けてきた怒りが、ひしひしと目頭を強張らせていた。
「ルーちゃん、ルーちゃん」
 背に声をかけられ、ルシュは勢いよく振り向いた。
 すると、歩み寄ってきていたエリオールの表情がふっとほころんだ。
「あら、元気取り戻したのね。でもその顔、ちょっと怖いわ」
「そうかな?」
 吊り上った眉をそのままに首を傾げると、エリオールはうなずいた。
「そう」
 コメカミのあたりを指でさすりつつ、ルシュは訊ねた。
「で? どうしたの?」
「ルーちゃんがいつまでたってもお弁当食べに来ないから呼んで来いって、リサが」
「……自分で来なさいよね、リサも」
 苦笑するルシュに、エリオールはその様子に微笑みながら言った。
「でもね、ルーちゃん朝から元気ないし不機嫌だったし、すごくリサ心配してたのよ? きっと生理痛がひどいんだろうって」
「ちがうわよっ」
 呑気な様のエリオールの言葉に、教室にいる男子生徒の耳を気にしながら、ルシュは力強く否定した。が、
「あ……頭が少し痛かったの」
 本当の理由を訊ねられることを恐れて、多少罪悪感を覚えながら言った。
「あ、そうなの?」
「うん」
「もう大丈夫なの? 早退しなくても大丈夫?」
 早退、その言葉に、ルシュは渡りに船と飛びついた。今、心には決意がある。何もできなかろうと、何かをしようと。
「そうね。わたし早――」
 そこまで言って、ルシュははたと思い出した。
 カザラが言っていた危険性。それだけは道理だ。学校を早退して見舞いに行くほどの風邪が、軽いなどと言っても誰も信用すまい。そうしたら、きっと他の人も見舞いに行ってしまうだろう。
「そう…………そー」
「どうしたの?」
「わたし、今日……掃除当番なのよ、裏庭の」
「うん?」
 ルシュは、脳裏に閃いた名案に、神に感謝した。
「ソナもそうなのよね、エリー」
 含み笑いに催し顔の、ルシュの誘い言葉にエリオールはすぐに意を汲み瞳を輝かせた。
「ということは、授業が終わったら、ルーちゃんの頭は痛くなるのね?」
「そうみたい」
「私も別の所の当番だし……あいてるのはリサだけだわ」
 ニヤリと、二人は笑いあった。
「それじゃあ、わたしはここで休んでるわ」
「うん。私、リサに伝えとくね」
「よろしく」
 手を振って去っていくエリオールを送ってから、ルシュは頭を掻いた。
(利用してごめんね、リサ)
 半分悪いと思いながらも、彼女は、なんとなくうまく行きそうな企みに相好を崩していた。

 目が覚めると、部屋には夕暮れの気配が漂っていた。半ばまで閉じられたカーテンの裏、林に臨む窓からは、赤みも失せた淡紺色の光が差し込んでくる。
「…………」
 上体を起こしたノマは、隣の空間を見た。そこには、全く当然のようにいるはずの妻がない。ただ薄暗みがあるだけだ。
 彼は自分のシャツが寝汗に湿っていることを知った。体もだるい。よく眠れたと言うにはほど遠い疲れが、心身にずしりと溜まっている。
「…………」
 悪い夢を見続けていたようだ。せめて、夢ぐらいは良くあって欲しかったものだが。
 ノマは服を脱ぎ捨て、箪笥たんすから新しいものを取り出した。
(でも、眠って良かったかな。カザラの言う通り……)
 食事を終えた後、彼は無理にでも眠れと、自分をこの寝室に放り込んだ。始めは絶望や悲観が言葉を紡ぎ、自責に苛まされ続けていたが……いつの間にか眠りついていた脳裏は、眠る前には無かった余裕を生み出している。
 その小さな隙間は、鉛のように重い胸の奥底から、背首せくびを通って鼓膜を叩こうとするを吸い込み、幾分かこの心を楽にしてくれていた。
 着替え終えたノマは、カザラが眠っている客間に足を向けた。
 客間に着くとノックをしようとして、はたと思いとどまり、極力静かにドアを開けて中を覗き見た。
(…………)
 カザラは安らかな寝息を立てていた。
 彼も、疲れているはずだった。わざわざ起こすこともない。
 ノマは音を立てないようにドアを閉め、忍び足でリビングへと向かった。
「……こんなに広かったっけ」
 眠る前は身に迫るほど狭く感じていた部屋が、今は異様に広く見える。薄光の中にがらんと、寂しく家具が並んでいる様は、ノマの心に染みるような悲しさを与えた。
「……………………明かり、点けよう」
 頭を振って悪い感情を払い、廊下から入ったすぐ脇にある小机のランプに、引き出しの中からマッチを取り出して火を灯す。
 次にテーブルの上の蝋燭ろうそくに、玄関脇の壁に取り付けてあるランタンに、その向かいの部屋隅のランプに、そしてその対角にあるランプにと、順々に火を点けていく。
 普通よりもずいぶんと多い明かりは、ユリネが用意したものだ。本人は明るい方がいいと笑っていたが、きっと暗い牢の中で暮らしていた自分に気を遣ってくれたのだろう。
 一気に明るくなったリビングの様子に、ノマは妙に安堵を覚えていた。空間を照らし出す薄橙の輝きが、妻の温もりを思い出させてくれる。
(けど――)
 ノマはぼんやりと心に浮かんだ喪失の悲しみに、慌てて首を振った。また膨らみ始めた悪感に胸元を押さえ、っと息を止める。
「大丈夫……ユリネは、帰ってくる」
 何度もそうつぶやき、ノマは心を落ち着かせていった。
「大丈夫、大丈夫」
 ふと……ノマは自分に言い聞かせながら、この感覚を思い出していた
 自分の中から、とめどなく膨れ流れる負の感情。それを必死に抑え込む記憶。そういえば、『あの時』もこうやって自分に言い聞かせ、内に潜む存在を制していた。
 全身が寒気そうけ立つ。
 氷よりも冷たい鉄が心臓に流れ込んだ。
 ユリネがグゼとなってしまった衝撃が大きすぎて、気づいていなかった。
「ホロビが目覚め始めている?」
 いや、気がついていたはずだ。カザラが帰ってきた時、自分は彼がホロビへの不安から口にした言葉にしっかりと受け答えている。だがそのことを、その時はそう重大なこととは感じていなかった。
 なぜか。
「――――」
 ノマはつばを飲み込んだ。
 なぜ、意識していなかったのか。
 それは、この心がホロビに協調していたからだ。悲しみに打たれ絶望にのめりこんでいた心が、ホロビの兆しを当然のように感じていたのだ。
 そう。あの日、目覚めさせてしまった時と、同じように。
 ノマに、これまでとは違う恐怖がし掛かってきた。
 この体の自由が効かなくなり、やがてホロビに意識を奪われる。そうなれば、僕はカザラを、ルシュを、村人を皆殺しにするだろう。そして、もしグゼに勝ってしまったら、それはつまり…………ユリネを手にかけるということだ。
 そして、人に滅亡をもたらすだろう。
 そうなれば――
 そうなれば、絶望的に吹き荒れるであろう悲劇の心象に、ノマの膝は震え出した。
「何をしていたんだ、僕は」
 奥底からのに沈み、ホロビを呼び覚まそうとしていた。
 何ということをしていたのだ。
「何をしていたって?」
 ノマの視界の端に、寝起き顔のカザラが入ってきた。
「また、落ち込んでんのか?」
 呑気な様で頭を掻くカザラに、ノマは怯え揺れる瞳を向けた。その様子に、カザラの表情が引き締まる。
「どうした」
「カザラ……」
「どうしたんだ」
「僕は……ホロビが中にいるのに、ずっと落ち込んで…………」
 感情を言葉にし難いのか、歯切れ悪く言ってくるノマの言葉に、カザラの思考は瞬時に冴え渡った。
「あんなことがありゃ、気が滅いるのも当然だ。誰でも落ち込むさ」
「でも僕の中にはホロビがいるんだよ!?」
「ホロビがいるから落ち込んじゃいけないなんてことはない。お前は自由なんだから、好きに泣いて嘆いていいさ」
「でも……君が言う通り、恨んじゃ……」
「それは人間を、だ。ホロビがお前に声をかけてきた時、同情しなけりゃあ何の問題もない」
「僕は自分でホロビを受け入れようとしてたんだよ!?」
 その絶叫に、カザラは目を細めた。
「望んでか?」
「……………………」
「気づいて良かったじゃないか」
「ユリネのように……いつ、僕はホロビになっても……おかしくない」
「ユリネとグゼは似ているところがあるからな。だがお前とホロビは違う。お前は、しっかり抑えこめる。保証するよ」
 ノマは、自分の言葉に、恐れも不安も逡巡しゅんじゅんもなく、温かい眼差しで応え続けるカザラを半ば呆れて眺めた。
 なぜこの友は、こうもしていられるのだろう。昔からそうだ。ホロビの宿主たる自分に、『あの日』でさえも変わることなく接してくれ、覚醒させてしまった後にも、同様に。
 怖くはないのだろうか。僕はホロビだ。もし今、覚醒してしまえば、真っ先に殺されるのは彼であるのに。
 カザラの眼差しは、揺らぐことはない。
「前から、思っていたんだけど……」
 躊躇いがちのノマを、カザラの目が促す。
「……カザラ。
 君は、僕が怖くないの?」

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