V-3 へ

 ユリネを返せ。
 やはりここに来ていた二人、ユリネとカザラ。その姿を認めるや間に割り入ろうとしていたルシュは、その声に叩かれて息を呑み、足を止められた。
 言葉の意味がどうこうではない。ルシュは恐怖を覚えていた。足がすくんだ。カザラが吐き出した激しい感情を敏感に感じ取り、強烈に打ち据えられ、息を吸うことすらできずにいた。
 魂が震えている。本能が、怖いと叫んでいる。声を聞いただけなのに、かつて浴びたことのない憎悪に、彼女はただそこを見つめることしかできなかった。
 池水に惑う太陽光が美しく照らす、恋人達の逢瀬が幾度となく繰り返された場所。そこに、距離を置いて一組の男女が対峙している。
 逆光の影にその表情をよく見取ることはできない。だが、遠目にもカザラが強い怒気、強烈な憎悪を纏っていることが判る。しかし、対するユリネの横顔は穏やかで、底のない愛情を湛えているようであった。
(なに……これ)
 相反する二つの感情が二人の間で渦を巻き、空間そのものが澱んでいる――そんな異様さが、そこにはあった。
「……」
 唾を飲み込めば、ごくりと、嫌に大きく耳に触った。
 静か過ぎた。鳥のさえずりも虫の羽音もここにはない。森羅の生命までが逃げ出してしまったかのように、不気味な静寂が佇んでいる。
 もはや、ルシュは二人の間に飛び込むことができなくなっていた。それどころか近づくことさえしてならないと思う。
 彼女は二人に気づかれないように木の陰に身を潜め、せめて二人の会話を聞き取ろうと耳をそばだてた。

「……同じ話を、繰り返すつもりか?」
「そんなつもりはない」
 届いてきた二つの声に、ルシュは驚愕していた。なぜ先に気づかなかったのか。ユリネの口調には変わりはない。だが、カザラの声には明らかな敵意があった。
 あのカザラが、なぜユリネに敵意と憎しみを向けているのだろう。昨日まで彼女をとても大切にしていた彼が、なぜ。ユリネは正気ではないだけなのに。
「ならばなぜまだ言うか」
「お前の意志が変わらないことは百も承知だ。だが、こっちの意志も変わらない」
 カザラはそこで一息ついた。
「何もかもがうまくいっていた。ユリネも、ノマも、幸せそうだった。今さらのこのこ出て来やがって。お前は負けたんだから大人しく眠ってりゃいいんだ」
 彼はもう……あるいは初めから、この会話が水掛け論に終わると解っていた。
 しかし、相手に一手先んじられた以上、何か欠片でも手札を手に入れておきたい。
「お前は要らないんだよ
「…………それは」
 グゼが眉をひそめる。
「私に死ね、と言っているのか?」
「そう取ってもらって構わない」
 ルシュの首筋に寒気が走った。カザラは、本気だ。
「非道いな」
 その相貌に哀しみの色を差し、グゼはかぶりを振った。
「しかし、お前の言っていることは過去のことだ。私は目覚めた。ホロビも同様に目覚めるだろう。
 ……断じて聞けぬよ」
 グゼは悠々として、鼻に皺を刻み腹立たしさを克明にするカザラに訊ねた。
「それで? いつまで不毛な議論を続けるつもりだ?」
「お前が折れるまで……と言いたい所だが……
 どうあっても…………ノマを殺すか、グゼ」
「私はそのために生まれたのだ」
 さらりとした肯定に、ルシュの胸の中で何かが大きな音を立てた。
 今、彼女は何と言った?
 聞きたくもない、思い出したくもないことを言った。ノマを殺すために生まれたと。
 ユリネの声で、ユリネの姿で。
 ルシュはそろりと木陰から顔を出し、二人を覗いた。二人が一体どんな顔をしているのか知りたかった。
 二人は、何も変わっていなかった。先ほど見たものと同じものがそこに現存していた。
 全く異常な会話の中、顔色一つ変えずに。それが、さも当然のように。
「グゼ」
 と、カザラが姿勢を崩した。体から力を抜いて、緊張を解いたのが見て取れた。
「お前の言うことは、確かに正しいんだろう」
 嘆息混じりに言うと、グゼの表情を驚きと期待が包み込んだ。ありえないことだが、カザラがついに折れたかと次の言葉を待つ。
 彼はグゼの様子を嘲りながら、脳裏にある手札を切った。
 最弱の手札。
(いや……)
 あるいは、最適な手段。
「人間にとって、ホロビは消し去ってしまわないと危険だ」
 カザラは笑っていた。意図して浮かべているのか……その笑みは何を示しているのか誰にも悟らせないものだった。
「だが、ノマは殺させない。俺は全力でお前の敵となる」
「…………そうか」
 淡い期待への否定に、グゼが残念そうに吐息をついたところに、カザラは即座に言った。
「だが、一つだけ、事を丸く治める方法がある」
「なんだと?」
 グゼの表情が大きく動いた。驚愕に、だろう。訝しげにカザラを凝視する。
「どういうことだ」
 その問いに、カザラは自分を指差した。
「ホロビを俺に移すのさ。そうすれば俺はお前に喜んで殺されてやる。
 これなら、全てがうまくいくだろう?」
 得意気に、嬉しそうにカザラは言う。
 だが、その提言にグゼは顔をしかめていた。困惑か、哀しみか、それとも心底呆れているような複雑な表情で彼を見つめ、問う。
「お前は一体何を考えている」
「できるのか? できないのか?」
 質問を無視するカザラの眼は、揺るぎない強固な意志をぶつけてくる。
 グゼは答えた。
「それが判らぬお前ではあるまい」
 カザラは、これが否定されることは解っていた。だが、これに懸けたい切望は確かにあった。
 彼の表情に変化は無かったが、顔の奥が硬直しているのを見れば、彼が歯噛んでいることは明確だった。相当に口惜しいのだろう。グゼは、当惑していた。
(そんなに死にたいのか?)
 カザラの様子からは、そうとしか考えられない。自分達の戦いに割って入ってくることといい、もはや助けたいというよりも、単に死を願望しているだけではないのか。
「それに、もしそれができたとしても、本当に有効な方法とは思えないな」
「なぜだ。死ぬのはクズ一人。何も支障はないだろう」
「そうか?」
 グゼは首を傾げて見せ、自分の胸に手を置いた。
「お前が死ねば、宿主はどうなる」
 カザラは少し沈黙した。目を伏せ、小さく瞳を泳がせる。それから彼はグゼに視線を戻した。
「ユリネは、少しは、悲しんでくれるかな。だがなに、ノマが傍にいる。二人で俺の死なんざ置いていってくれるさ」
「宿主は、お前こそをずっと愛していたようだが?」
 その言葉にカザラは何も反応しなかった。
 だがその言葉に、ルシュが反応した。胸が裂けんばかりに大きく高鳴り、その拍子に吐息が漏れる。
「え?」
 思いもよらず唇をすり抜けた声に、ルシュは慌てて口を押さえて木の陰に身を隠した。
(思ったより、早かったな……)
 視界の隅にひるがえった裾と黒髪が木の裏に消えるのを見止め、カザラは刹那そちらへ目をやった。どうやら、グゼも彼女に気がついたようだ。
 しかし、構わずにカザラは続けた。
「なぜそう思う」
「……私は宿主の中に育った」
 カザラは嘆息し、うなずいた。
「そうだな。ユリネは俺を愛してくれている」
「では何も問題はないだろう。私がノマを殺した後、宿主が自殺することもない。お前が宿主をめとり傍にあれば、それこそノマ一人の死などどうということもないではないか」
「だがユリネが愛しているのはノマだ。過去も、現在も」
 カザラは語気強くグゼの言葉を塗り潰した。
「私はそうは感じぬ」
「お前は空気に、水でもいい、愛情を向けているか?」
 唐突なカザラの問いに、グゼは意表を突かれた。カザラは続ける。
「ユリネにとっちゃ、ノマはそんなもんなんだよ。傍にあって当然。生きていく上で、無くてはならないもの。もう、愛とか、そんな言葉も無意味で追いつかないほど深いものであいつらはつながれている。
 お前は感じないんじゃない。感じていても気がつけないだけだ」
 そこでカザラはグゼに、告げるために一つだけ、息を置く。
「お前が俺達に向けているものより、あいつらは強い絆を持っているんだ」
 一瞬、語るカザラの眼から憎しみが抜け落ち、その瞳に灯る澄んだ輝きがグゼの目に入った。そして、その光に引き起こされた閃きに、グゼは息を飲んだ。
「そうか」
 思えば至極もっともなこと。それ故に、見過していた。
「お前は、宿主を愛しているのだな?」
 カザラの隻眼が、歪む。
「だから命を捨ててまで守ろうとするのか」
 沈黙した。また二人の周囲に深い静寂が降りた。しかし、この静寂に炎の錯覚はない。あるのは屹然きつぜんとした二人の意志。それは、次の言葉に重みを与えるために生まれた沈黙だった。
「ああ……。愛している」
 ルシュの心臓は早鐘を鳴らしていた。
――「感謝されるのが、怖かったんでね」
 展望台での彼との会話が思い起こされ、胸が張り裂けそうになる。
「美談だな。結ばれることより、身を捨てて守ることを選んだか」
 ならば全ての事に納得がいく。彼のその理由にも。なぜ自分と相対し、互角に渡り合うのかも。
 彼は、自分と同じなのだ。
「勘違いしているぞ、グゼ」
「何?」
 カザラは一度陽が漏れる梢を見上げ、それからグゼに目を戻した。
「俺はノマも愛している」
 ルシュはたまらず身を乗り出して、カザラの顔を覗き見た。
「自分達の人生を目茶苦茶にした咎人とがにんを愛してくれる、あいつらを愛している」
 カザラは微笑んでいた。薄影にかげるその微笑みは、ルシュにはとても悲しいものに見えた。
「ユリネと結ばれたいなんて、塵ほどにも思っちゃいない。美談でもない。俺は望みを叶えるために、あいつらを守るんだ」
「望みだと?」
「ただ願うのは、幸せであれ。
 ごうだとか、背負わなくちゃならないものがあるのなら、それは俺が背負う。
 俺が二人に返せるのはこれぐらい……これが叶うのなら、俺の命なんぞ消えても構わない。それだけだ」
 静かに、穏やかに、カザラは言った。しかしそれは、彼の『心』を最も強く帯びた、執念そのものだった。
(最悪の障害だ)
 グゼは胸中に嘆きをこぼした。もうこれ以上、どう考えても彼を説得することはできない。元より解っていたことではあるが、それを痛感し……逆に清々しい気分さえ味わう。
 と、
「?」
 グゼは、カザラの表情が、きょとんと力抜けていることに気がついた。
 その彼が、唖然として訊いてくる。
「グゼ、お前は…………なぜ、泣いている?」
 ハッと、グゼは自分の頬に手を触れた。指先に温かい滴が触れ、肌を痺れさせる。
 気づかぬうちに、泣いていた。
「――――」
 グゼの顔から血の気が引いたことで、カザラは事態を悟った。
「ユリネ!」
 叫び、グゼへと駆け寄る。
 だが、一足早くグゼは大きく後方へと跳び退いた。
 舌打ちし、そして気を取り直してカザラは冷笑を浮かべた。
おあいこだな」
「そのようだ」
 袖で涙を拭い、グゼが苦々しく同意する。
「お前に使命は果たさせない」
「……せめてもの償いだ。人の前には、姿を現さずにおこう」
 真正面から見据えてくるカザラを最後に見つめ、グゼは踵を返すと、目にも止まらぬ速さで木々の間に姿を消した。

 その場所にあった熾烈しれつな気配が薄れ、池はいつもの静けさを取り戻していった。
 今までどこで鳴いていたのか、突然鳥の声が聞こえてくる。水面に跳ねる光が幾分澄み渡ったのは、気のせいだろうか。
 だが、静謐せいひつを取り戻したこの中に一点、白砂に染みる墨滴のようにただそのままにいるものがあった。
 彼は、ユリネが去った後もじっとその行く先を睨み続けている。
 彼が纏う、抜き身の刀を携えているかのような脅迫感は、その姿を見つめるルシュの首筋を未だに焦がしていた。
「…………」
 ルシュとカザラの間にあるものは、少し傾斜のついた黒土の獣道。距離はそう長くはない。しかし、彼女には彼が遠く離れた場所にいるように感じられる。
 顔を強張らせ、黙したまま彼女は木の裏から身を現した。
 今や心は、先の会話に溢れていた感情に気圧され、ここに駆けてきていた時の面影もない。彼女は緊張の面持ちで小さく一歩を踏み出し、
「!」
 鋭く輝く一眼に射竦いすくめられて肩を震わせた。
 いつの間にか、カザラがこちらを見ていた。その表情に驚きはない。自分の存在に、すでに気づいていたのだろう。
「…………いつから、気づいてたの?」
 水面みなもの光を背にしてなおギラつく三白眼の、罪を咎めるかのような眼差しに萎縮しながらも、彼女は訊いた。
「…………」
 カザラは心中で頭を振っていた。
 いつから、などは問題ではない。問題なのは、グゼと他人が関わってしまったことだ。
 今のユリネは、『異常』そのものである。人が異端を拒絶することは世の常だ。うまく事を治めたとしても、村の人々にこの事を知られてしまえば、ノマとユリネはこの地から追いやられてしまうだろう。
 とはいえ、関わった者がルシュという口止めし易い少女だったのは幸いだった。
 彼女はノマとユリネを相当に気に入っている。下手な嘘は彼女の一人走りを生みかねないが、逆に下手を打ちさえしなければ上手く押さえこめるだろう。
 要は、どうするかだが……
「…………」
 堅い面持ちで沈黙するカザラに、ルシュはおずおずと近寄りながら躊躇いがちに声をかけた。
「ねぇ……カザラ」
 呼びかけに、カザラが視線を戻してくる。彼女は、また小さく体を震わせた。彼と目が合い、その瞳孔の奥から滲む光に精神こころが怯えたのだ。
(なんて目をするの……)
 カザラの身に、今は憎しみはない。だがそれに代えて力強い何かが彼の奥底に漂っている。白刃を突きつけられているかのような圧迫感をそのままに、殺伐と何かが。自分の間合いに入ろうとする者を殺してしまいそうな、あるいは全てを呪っているかのような、そんな感情が彼の中にとぐろを巻いているようだった。
「……で」
 ようやっと口を開いたカザラの声に、ルシュははっと意識を彼に戻した。
「何か、用か?」
 腕を組み、全く表情をやわらげずに促してくるのにうなずき、ルシュは早足で彼に歩み寄りながら言った。
「聞きたいことがあるの」
「なんだ?」
「ユリネさんは一体どうしちゃったの?」
 言下の問いに、カザラは一拍置いて答えた。
「人間を悪魔から守る救世主に体を乗っ取られている」
 カザラはついぞ今まで考えたあげく、結局、真実を語ることにした。
 下手な嘘は事態を悪くしてしまう。だが、起こっていることが最も嘘らしいために、それを補えるものはどうしても思い浮かばなかった。
「は?」
 諦観ていかん混じるカザラの言葉に、ルシュは呆然と口を開けた。
 カザラが言ったことは突拍子もなく、彼女は彼が何を言ったのか一瞬理解さえできなかった。
 無理もないことだ。自分も当事者でなければおよそ信じてはいないだろうと、カザラは、おもしろいほどに力の抜けた顔をしている少女を見つめながら続けた。
「ノマには、人を滅ぼそうとするモノが眠っている」
「ちょ……ちょっと待って」
性質たちの悪い飯事ままごとみたいだが、一応人類存亡を懸けた戦いってことに…」
「本気で言ってるの!?」
 たまらず声を荒げて、ルシュはカザラを止めた。
 形相が激怒に歪み、怒りのあまり手がわななく。脳裏には、目眩めまいのような怒気が満ち満ちていた。
「ああ」
 カザラは涼しい顔で、何かを叫びかけた少女を遮って即座に言った。
「あんたも見たろう? 今のユリネの動きを」
 その言葉に、ルシュの怒気全てが呑みこまれた。
「人間に、できることか?」
「…………」
「他に、何か聞きたいことは?」
 ルシュは何も言えずに顔を伏せた。が、すぐに顔を上げ
「でも、そんな……馬鹿みたいなこと……」
 彼女の表情は、何とも言えぬさまだった。
 確かにユリネが見せた動き、速さは人間離れしていた。しかしだからと言って、人類存亡を懸けた戦いとか、途方もないことを信じることはできない。ノマのこととて、あの優しい人が人間を滅ぼすなど想像することもできるものか。
「そう、馬鹿だな。本当に」
 カザラは笑っていた。まなじりを奇妙な形に歪め、視線をどこかへ逸らして。
「理解しろ、なんて言わないよ」
 深い吐息をつき、戸惑い濃い少女に断じる。
「だが、事実だ」
 ルシュは細い眉の根を寄せて、カザラをっと見つめた。しかし、彼から虚言の気配は一片たりとて感じることはできない。
「…………」
 だがしかし、嘘をついていなくとも、それが事実だと彼が信じ込んでいるという可能性もある。彼女は一つ浮かんだ疑惑を、すがる気持ちで投げかけた。
「あなたは…………正気…………?」
「ユリネのように、違う者になっていないかってことか?」
 彼女の懇願するかのような目つきに、微苦笑する。
「どうやって俺がカザラだと証明すればいい? ルシュ」
「……憶えてる」
「?」
「わたしの名前。ユリネさんは、呼んでくれなかった」
 泣いているように眉目を垂れて、ルシュはうめいた。
 カザラは少し黙したあと、
「グゼだ。今は」
「そう……呼んでたね」
 彼女の声はしゃがれていた。力無く肩が落ちている。
「ところで、今日は学校じゃないのか?」
「え?」
 突然現実的な会話を持ちかけられ、ルシュは仰天してカザラを見た。
「そ、そうだけど」
 うろたえている彼女に、カザラは続ける。
「だったら早く家に戻って学校に行きな。休むのは大事おおごとだろ?」
「でも」
「ルシュは…………どうなんだろう」
「え?」
「あいつらを、恐れずにいてくれるのかな?」
 言うカザラの表情は、ひどく不安定なものだった。瞳も弱々しく、まるで嘆願されているようだ。
「どういうこと?」
「必ずあいつらは元に戻る。その後、あんたはこれまで通りにあいつらとつき合ってくれるか?」
「あたり前じゃない」
 気の抜けた表情で、ルシュはさらりと言ってのけた。
「――――」
 カザラは気を呑まれ、瞠目した。事もなげに即答したのは、信じていないからか、それとも信じてのことか。それは判らないが、彼女は何を言うのかと呆れ返っている。正直、これは予想していなかった。
 と、彼のその様子に、ルシュは彼が何を心配していたのか感づいて双眸をいからせた。
「わたし、二人のこと大好きなのよ? わたしの憧れなんだから」
 まだ膨らみきっていない胸を張ってみせるルシュに、カザラは小さく笑った。
(大好きだろうと、憧れていようと、人の心なんざ信用できないもんだがな)
 少女の瞳にけがれはない。怒っていても嫌忌けんきの色はなく、表情には無垢むくな輝きがあった。
(…………まぁ)
 信用しても、いいだろう。
「なら、なおさら学校に行ってくれ」
「どうして? ノマさんとユリネさんをほっといて学校になんか行ってられないよ」
「……ユリネは風邪をひいた、大事をとって休んでいる。そういうことにしておこうか」
 不思議と穏やかになった顔で、カザラは言った。
「この事は他言無用だ。皆が皆、ルシュと同じとは思えない。
 この事を知られちゃあ、これからのあいつらの生活に支障が出るだろう。だからルシュはいつもの通りにしていてくれ。あんたがそうしてくれないと、俺にはどうしようもないことになる」
 カザラの言うことは道理であった。ルシュは村の皆を信じているが、しかし、この件はいささか異常すぎる。五年前に夫妻がやってきた時、一時いっとき流れた幾つかの噂に良いものがなかったことを思い出した彼女には、うなずくことしかできなかった。
「でも――」
「それじゃあ、よろしく頼む」
 と、カザラが一方的に話を打ち切った。唐突なことに反応が遅れたルシュの横をすり抜けていく。
「待ってよ!」
 慌てて振り返り、聞く耳持たず去ろうとするカザラの服を掴む。
「まだ話は終わってない!」
 カザラは舌を打った。でも、と言いかけた時の顔を見れば、ルシュが何を言うつもりか簡単に予想がつく。彼は足を止め、背後を顧みずに問うた。
「まだ何がある」
「わたしに、できることを教えて」
 カザラは肩越しに振り向いた。その右目は見開かれ、ギョロリとルシュをめつける顔は険しい。数節前のやわらいだ表情は微塵もなかった。
「無い」
 一声の下に、彼は断じた。
 その断言はルシュの希望を鋭く切り裂いた。と、同時に、ルシュは彼が纏う殺伐の正体に強く触れて、それが何であるのか理解した。
 拒絶だ。
 それは、今まで出会ったことのない、人を殺めるかと思えるほど強い拒絶だったのだ。
「これは俺達の問題だ」
「人類存亡が懸かってるなら、わたしだって関係してる」
 それでも負けじとにらみ返してくる少女に、カザラは目を細めた。
「それなら、あんたに何ができる?」
 ルシュは唇を噛んだ。それは判らない。苦虫を噛み締める思いで、彼女は言い返した。
「それなら、あなたには何ができるっていうのよ」
「死ぬこと」
 即座に答えられ、そしてその意味にルシュは言葉を失った。
 笑みを浮かべたカザラが、その笑みを歪ませたかと思うとそびらを返して振り向いた。拍子にルシュが掴み続けていた彼の服が手から離れる。
「聴いていたんだろう?」
 カザラが浮かべる笑顔が何を意味しているのか、それはルシュには解らなかった。
「一度は戻った。なんとかするさ」
「…………」
 ルシュは知らずの内に、掌に爪を立てていた。目の前に立つ青年は、折れることのない覚悟を持っている。その姿を映す双眸の奥から湧き出てくる奇妙な感情に、彼女の拳は強く握り締められていた。
 口を真一文字に結んで押し黙るルシュを見、カザラは空を見た。
 日差しが強くなっている。梢からのぞく青空は、嫌みなほど澄み渡っている。
「時間は大丈夫なのか?」
 ルシュは、精一杯の反抗を込めて応えた。
「ええ。御心配、どうもありがとう」

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