V-1 へ

 朝早く、清廉に肺を刺激する空気に息を弾ませて、ルシュはライベル夫妻の家に足を進めていた。
 学校へ行く前に、一度会っておきたい。
 カザラは日の出と共にここを出ると言っていたから、もう出発しているはずだ。
 きっと、二人は寂しい思いをしている。
 ルシュはカザラの言葉を思い出していた。
 思わず頬が緩む。なにしろ、大好きな人達に大切に思われているというのだ。これほど嬉しいことはない。
 彼女は自分が訪ねることで、二人の寂し気な顔が笑顔に変わる瞬間を想像しては、また笑みを深めた。
 あと十歩。あの扉を開けば。あと五歩。二人がきっと笑顔を見せてくれる。ルシュは勢いそのままに扉をノックして……
「?」
 返事がないことに、首を傾げた。
 まさか、まだ眠っているのだろうか。
「……?」
 ルシュはもう一度ノックした。だが、やはり返答はない。
 怪訝に思い、彼女は窓にカーテンがかかってないことに気づいて、そこから中を覗き込んだ。
 家の中を見たルシュは、なぜかここが幾年の時を重ねた廃屋であるような気にかられた。
 しかし、透明な朝の光に照らされているのはいつもと変わらぬ部屋。家具の配置や調度品に変化はない。ただ、決定的に違うのは、机の上に手のつけられていない御馳走が、所狭しと並べられていることと――
「!?」
 そんなはずはない。ルシュは目に映った光景に愕然とし、慌てて玄関へと駆け戻った。
 鍵がかかっていないことに気づくや彼女は躊躇わず扉を開けると、中に飛び込んだ。
「ノマさん、どうしたの!?」
 冷えきり固まった食事が並ぶ机。それを前に、ノマ独りだけが椅子に腰かけている。
 その様子は、明らかに異常だった。
 彼は力無く、両腕はだらんと脇に垂れ、こちらに振り向くこともなくうつむいている。
 側には誰もいない。ユリネがいない。こんな姿を見せる夫を置いて、彼女がどこかに行くなど考えられない。
「ノマさん!」
 ルシュはノマの肩に手をかけて、その名を呼んだ。
「――――ああ」
 彼は、そこでようやっとルシュの存在に気づいたようだった。ゆっくりと彼女に顔を向ける。心を入れ忘れた人形ひとがたのように、生気が失せていた。
「ルーちゃん」
 か細い声を漏らしてノマは微笑んだ。その表情に、ルシュはぞっとした。
 彼は微笑んでいる。だが、なんと恐ろしい顔をするのだろう。微笑んでいるのに瞳は虚ろに定まらず、どこも見ていない。そこには何の感情も無い。
「どうしたの? そんなに驚いた顔をして」
「ノマさん……」
「ん?」
「何か……あったの?」
 ノマは垂れていた腕を腹の上で組んだ。そして、光を失った双眸を空に向ける。
「何もないよ」
「嘘! 何かあったんでしょう? だって……ユリネさんは?」
 ユリネ。その名を口にした時、ノマの頬が動いた。
「ユリネ?」
「そう。ユリネさんは?」
 ノマはふっと視線をどこか遠くへと向けた。
「ユリネ…………」
 そして、ぽつりとつぶやく。その声には、まるで失った者への呼びかけを思わせる嘆きがあった。
(まさか……)
 それに、ルシュは脳裏に一つの光景を浮かび上がらせた。それは、ユリネがカザラに連れ去られているものだった。
(まさかね)
 そんなことがあるものか。ルシュは自分の考えを忌々しく消し潰した。
 ……しかし、ならばこれほどノマを打ちのめすことはなんだというのだろう。
「ルーちゃん、ごめん」
 今にも泣き出しそうな声だった。
「今日は、帰ってくれないかな」
 ルシュはその言葉に強い衝撃を受けた。未だかつて、彼にそう言われたことはない。
 彼の状態からそう言われるのも至極当然のことだと理解はできても、ルシュにとってひどく辛いことに変わりなかった。
 それはつまり、今、自分にできることは、無いということなのだから。
「う……うん。わかった。わたし、帰るね」
 できる事はなく、こんな――放っておくわけにもいかないノマから去ることを望まれている。
 ルシュは湧き起こる悲愴感を押し殺し、無理に笑顔を取り繕って彼に別れを告げた。

 その者は、村はずれにひっそりとある其の家から出てきた少女を目にしてうなずいた。
 今朝ここに来た時、カザラはすでにいなかった。探しに行こうかと思っていたが、どうやらその必要はなくなったらしい。
 会話を聞く限り、あの娘はノマと親しいようだ。ならばカザラとも親しいはず。彼女に伝言を頼めばよいだろう。

「はあ」
 玄関を出てからもうとおを数えたため息をつき、ルシュは重い足を一歩一歩と進めていた。
(本当に、何があったんだろう)
 その言葉と、
(でも、わたしには何もできない……きっと)
 その言葉が、ルシュの脳裏に浮かんでは消える。その度に彼女はため息をつき、その度に何かできることを探り、またため息をついた。
 これほどの無力感を味わったことはなかった。親しい人の力になれないとは、憧れの人の何の役にも立てないとは……。
 彼女は後ろ髪を引かれる思いで歩いていた。
「君」
 と、突然声がかけられた。
 ルシュはその声にハッと、声の発せられた背後へ振り返った。この声は、聞き間違えるはずもない。
「ユリネさん!」
 声は、ユリネのものだった。振り返った先には、確かに彼女が佇んでいた。
 ルシュは思わず声を高め、彼女に駆け寄った。
 その様子にユリネは安堵していた。あの家から離れた所で声をかけたのは正解だった。もし近場でこの声を出されれば、必ずあの男に気づかれてしまっただろう。
「ユリネさん、一体どうしたの!? ノマさん、あんなになって!」
 ユリネは、興奮してまくしたててくる少女に微笑み、すっと人差し指を少女の唇に当てた。
「――?」
 予期せぬことに、ルシュは目を丸くして言葉を飲み込んだ。
「…………」
 彼女が黙ったことに、ユリネは目を細めて指を引いた。驚きの眼で硬直している少女が落ち着くのを見計らい、口を開く。
「カザラに伝えて欲しい」
「え?」
 ルシュはユリネの言葉に、疑問の声を上げた。
 口調が違う。目の前にいる者は確かに、ユリネその人だ。だが、その口振りは彼女のそれではない。
 しかしユリネは、ルシュの疑念を依頼へのものと取ったらしく、先を続けた。
「話があると。そう言えば分かる」
「ちょ……ちょっと待って、ユリネさん」
 ルシュはこちらの疑を解さず話を進めるユリネを制した。それから、怪訝を隠さず訊ねる。
「カザラに話って? なんでそんなに落ち着いてるの? ノマさんが大変なのに」
「それが?」
「それがって……本気でそう思ってるの!?」
 少女の表情に怒りが灯ったのを見て取って、ユリネは苦笑した。カザラの言葉が思い出される。
――「お前のことなんざ、知ってんのは俺らぐらいなもんさ」
 それがまざまざと実感できる。
「ユリネさん!」
「私には、その方が都合いいからな」
「――――え?」
 ルシュはその言葉が信じられなかった。ユリネが、ノマが大変な目にあっていることを都合がいいと言うなど、信じたくもなかった。
「…………あなた」
 ルシュは目前のユリネから強烈な違和感を感じ取って、思わず後ずさった。なんだろうか。口調だけではなく、雰囲気から何まで全く違うものになっている。
 まるで、たった一晩で彼女が全くの別人になってしまったかのようだ。
「あなた、本当にユリネさんなの?」
 胸元に手をあて、目を斜に構えてルシュは問うた。
 それにユリネは答えず……ただ複雑そうに微笑んだ。自嘲に笑っているように、それとも困惑しているように。
「とにかく、伝えておいてくれ」
 そして彼女はそれだけ言うと、踵を返した。
「待って!」
 ルシュは去ろうとするユリネを慌てて引き止めた。
 ノマの状態といい、ユリネの様子といい、一夜の内に一転した事態に恐慌をきたし始めている心を必死に落ち着かせながら、彼女は努めてゆっくり言葉を紡いだ。
「カザラは帰ったんじゃないの?」
 目の前のユリネは明らかに正気ではない。だが、ルシュは彼女がカザラに用件を告げろと言っている以上、それを果たすつもりだった。そうすることが、この理由の解らない事態を解決に導ける気がするし、悔しいが、この現状で……ノマとユリネが正気を失っている現在、頼りになるのは彼だけであろう。
(そうか……きっと、ノマさんがあんなになったのは……)
 ユリネがこうなってしまったからだ。ルシュはそれを悟りながら、振り返るユリネを見つめていた。
「帰った? ああ、家にだろう?」
 ユリネはどうでもないように言った。ルシュの問いに、彼女からは聞けようもない応答を。
「ええ。遠い場所にある家にね」
「共に暮らしているわけではないのか?」
 意外そうにユリネはこぼした。しかしすぐに、それはさしたる問題ではないとでも言うように軽く吐息をつく。
「なに、帰ってはいないよ。カザラが私達を放っておくことはない」
「でも、ノマさんの所にいなかった」
「私を探しているのだろう。しばらくすれば奴の下に帰ってくるはずだ」
 ユリネの態度は先ほどとは違うものとなっていた。吸い込まれそうなほど深い光を湛える瞳に、穏やかな慈しみが差す。ノマのことが話題であった時には全く無かった温かさが、カザラのこととなると声の節々に滲んでいる。
 一体、一体何が三人の間にあるのだ。
 ユリネは勘繰るような目つきをする少女の姿に、苦笑したくなった。
「ではな。カザラに、確かに伝えてくれ」
「どこで?」
 歩を出そうとした時に問われ、ユリネはおっと眉をはねた。
 そういえば、家を出たカザラを捕まえる予定だったために、待ち合わせの場所を考えていなかった。
 ユリネは黙考し、ふと思いついた場所の位置を少女に告げようと脳裏に地図を描いた。
「君は……この方向に行った所にある池を知っているか?」
 と、丘陵の中腹にある展望台を指差す。
「ええ、知ってる。……そこで待っているって、カザラに伝えればいいのね」
「――……いや」
「え?」
「悪いな。伝える必要はなくなった」
「どういうこと?」
 ユリネは眉根を寄せるルシュの問いには答えず、
「時間をとらせてすまなかった」
 それだけを言うと、展望台へと向けて歩き出した。
「――うそ……」
 そして、ルシュはそのいつもと変わらないはずの背姿を目にしながらうめいた。
 彼女の足の速さは、普通ではなかった。
 走ってはいない。走ってはいないのだが、それなのにその速度は人のそれではなく、ましてや彼女があれほどの速さで歩けるなど、信じられようもなかった。
 事態があまりに自分の手に負えないことだと、ルシュは自然に理解した。
 呆然と立ちつくす脳裏に、先刻のノマとの事が、今までそこにいたユリネとの事が巡る。
 ルシュはなんだか無性に悔しくなって、両の拳に力を込めた。目に、涙が滲む。
 二人のために、何の力にもなれない。それどころか、気がつけばユリネは一度たりとて自分の名を呼ばなかった。
(忘れられてるんだ)
 悔しくて、悲しくて、ルシュの目の端に玉が浮かんだ。
 ユリネは、彼女の感情など意に介さず展望台に向かっている。
 ルシュは涙を拭い、目をこらして展望台を見つめた。さすがに距離がありすぎてそこに人がいるかは判らない。だが、カザラがいるのだろう。彼女の様子はそう言っていた。
「…………」
 ルシュは、彼女の後を追って展望台へと走り出した。

(なんであんなこと言っちゃったんだろう)
 ひどい罪悪感が、背中を軋ませていた。
 去り際のルシュの顔、非道いことを言ったのに笑顔をくれたルシュの表情、哀しげだった。寂しそうだった。
 あんないい娘に、あんなかおをさせてしまうなんて。
 いつも温かい気持ちをくれたルシュに。
 元気で、健やかで、笑顔がとても魅力的なルシュに。
 あんな笑顔を作らせてしまうなんて。
「嫌な奴だ」
 己への嫌悪に、奥歯が軋む。背中の軋みが首筋を伝い、気色悪い手となって歯肉を突き破ろうとしている。
(だけどルーちゃんは知らない
 今、何が起こっているかなど、想像もできないだろう。
 そうだ。何も知らないくせに、この気持ちを理解できるものか。
(仕方なかったんだ)
 だが、目に焼きついたルシュの顔が責める。苛む。
「…………はは。やっぱり……こんな僕が幸せをつかめるはずないよ」
 ノマは見開いた眼に、形だけ良くなった両手を映した。
「これは当然の、運命なんだ」

 次第にその歩みが、走行へと変わっていく。
 ユリネはカザラのいる展望台へと、はやる想いに導かれるように足を進めていた。
 ふと、ユリネは胸の想いが違うものであることに気づいた。
(心騒ぐ……。なんだろうな、この気持ちは。まるで、再会を喜んでいるようだ)
 自分はあまねく全ての人間を愛しく思っている。だが、この、カザラへの感情は他と一線を画するものがあった。明らかに特別なものだった。
「そうか」
 ユリネは笑った。
 自分は宿主の中に育った。もし長く、強く宿主が想っていたことがあるのなら、それが自分に影響を与えていてもおかしくはない。
 宿主は、カザラを愛していたのだろう。
 だが、宿主たる女はあのノマと暮らしている……不思議なものだ。
 ユリネは展望台を一瞥した。そこには、すっかりくつろいだ風情で独眼の男が立つ。
「気づいたか」
 当然だろう。あそこからなら、実にこの周囲を見渡せそうだ。こちらを確認するなど、あの者にとってそう苦ではあるまい。
 ユリネは速度を上げ、展望台へと駆けていった。

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