V

 暗闇の中、下草が生え木々の根が不規則に張り出す傾斜を、人のそれではない速さで、足音もなく、ユリネの姿をしたその者はく駆け登っていた。足にスカートがまといついても、さしたる苦とはしない。その一蹴りは人ならぬ距離を跳ぶ。
「ふむ」
 傾斜を登り切り、下りとなった坂をしばし降りた所で現れた池のほとりで立ち止まり、その者はつぶやいた。
「悪くない」
 息は少しとて乱れていない。汗もなかった。あの家からずっと走り続けていたにも関わらず。
 その者は石を二つ拾い上げると、力を込めて握り、砕いた。
「……まぁ、こんなものか」
 目覚めたばかりにしては上出来だろう。
 砕け散った石を捨て、その者は二度三度と深呼吸をした。
 久しぶりの大気に、頭の奥の細胞一つ一つまで澄み切っていく。
 問題はない。『ホロビ』を滅ぼすための力は、少し眠っていた間にも失われていない。これならば、いつあのノマとかいう男が『ホロビ』と覚醒しようとも、相対することができる。
「さて……」
 その者は意識を自分の体に移した。いくら力があろうと、この体に問題があっては十分に発揮することはできない。
 腕に意識を両腕に集中し、関節、軟骨、筋肉に靭帯、骨の髄までも丹念に調べ上げていく。途中、気になった指先の切り傷を一息の間に治して、次に肩、そして足とその者は体躯を確認した。
 どこにも問題はない。いたって健康だ。これならば、全力で力を行使しようとも壊れることはないだろう。
 次は内臓だ。
 脳、心臓、肺、血管と順々に調べていく。どこかに異常はないか、弱っている臓器はあるか。あればそこに力を注ぎ、癒さねばならない。
「?」
 と、意識を腎臓から子宮へと移した時、そこに異常があることに気づいた。まさか悪性の腫瘍かとさらに意識を集中する。もしそうであれば、自分の力でそれが急速に活性化する可能性がある。いかに自分の力が人外のものだとしても、己の体を敵に回すわけにはいかない。
「………………」
 だが、それは腫瘍ではなかった。
 まだ生まれて三ヶ月もしていないだろう。二ヶ月……もしかすると、一ヶ月。
「そうか……」
 現在の状況を鑑み、あの時の記憶とも照らし合わせて、その者は悟った。
 これは、あのノマとの子だ。あの時、あの男が宿主と奴は愛し合っていると言っていたからには、間違いない。
 そこでその者は、今自分が宿っているこの体が、とてつもなく汚れたものだと気づいた。
 この体は……宿主は、『ホロビ』たる者と生活を共にしていたのだ。四六時中ずっと。触れ合い、過ごしてきたのだ。
 噛み締められた奥歯が悲鳴を上げた。
 奴にこの体が抱かれていたかと思うと、気が狂いそうになる。嫌悪に吐き気が湧き起こり、その事実への拒絶が渦を巻き、憎悪へと昇華していく。
 その憎悪はやがて憎しみと混ざり合った。混ざり合う境から火柱が上がり、心を焼き焦がす。
 その者は、決断した。
 このはらの中の子を殺そう。あのノマの血を受け継ぐ呪い子を。
 その者は目前に小さく波打つ水面に視線を移した。どうやら、湧水の作り出す池のようだ。手を差し入れると冷たさに皮膚が引き締まる。この冷水の中にしばらく腰を沈めていれば、このはらの子は流れるだろう。
「……いざとなれば、抉り出してやる」
 顔を歪めて、その者は服を脱ぎ捨てた。そして、闇を白く抜く裸身を清水に沈めるべく足を踏み出し――
( ! !!)
 気がつくと、その者は腹を守るように身を丸めて、うずくまっていた。
「?」
 気がつくと
 その者は、そこでようやっと事態を理解した。自分が自分の意志にない行動をとっていたこと。一瞬の間の小さな出来事とはいえ、数瞬の記憶が脳裏より欠如していること。その事を理解して、戦慄した。
「なんだと?」
 冷や汗が滲んだ。
 己が全身を掌握していることを確かめるようにゆっくりと立ち上がりながら、呆然とつぶやく。
宿主やどぬしか」
 それしか考えられない。
 自分の意志に拒絶を示すのは、この身に眠る宿主しかあるまい。
 その者はおののいた。
 これは簡単に流せる問題ではなかった。一瞬とはいえ宿主に体を動かされることは『ホロビ』との戦いで致命的な障害となる。いや、それ以上に、宿主が自分の意識を裂いて現れることそのものがゆゆしい。
 『ホロビ』は彼女の夫の体にある。それを殺すことをけして許さないだろう。子を殺すことを、今、止めてみせたように。
「…………」
 今一度、その者は胎の子に殺意を向けてみた。
 瞬間、めまいが襲ってきた。だが、そう来ることはわかっている。予期しているからには宿主の足掻きを堪えることは可能だった。
 宿主は人間でしかない。そして人間は、ワタシタチには敵わない。それはそう定められたこと故に。
 しかし、だからとて、この抵抗は無視することのできないものだった。
「……?」
 と、そこで、その者はふと重大なことを見落としていることに気がついた。
何故私は眠っていたのだ?」
 本来、自分が目覚めるのは一度きりだ。それなのに、自分は二度目の目覚めを経た。
「なぜだ?」
 その者は、記憶を探った。
 一度目の、誕生にも等しいその目覚めは、薄暗い山林の中だった。眼下には燃え広がる炎に呑まれていく村があった。
 そこで『ホロビ』と宿命さだめられた戦いを迎えるはずだった。だが訪れたのは、予期せぬ妨害だった。『ホロビ』が現れた後ですらあの男は足掻き……結果として、『ホロビ』は再び眠りについてしまった。
 最後に覚えているのは、人に戻ったノマと、あってはならない障害となった男の必死の形相。
 その次の記憶は、台所だった。
「…………覚えて、いない」
 肝心な部分が、短い記憶から抜け落ちている。何故、自分が眠りに落ちることになったのか――
「どういうことだ?」
 その者は、脳裏の裏までも探り必死に記憶の糸を手繰りよせた。だが、どうしても思い出せない。
「――――」
 これは重大な欠陥だった。まだ自分は、完全に覚醒しきれていないのだ。
「…………」
 その者は唇を引き締め、最も新しいとして瞼にあるあの男……カザラの姿を思い返した。
(あの者なら知っているな)
 その者は服を着直し、長く息を吐きながら双眸を閉じた。
 もう日は沈んでいる。しばらくすれば、空にある残照も夜のとばりに侵食され、木々が覆うこの地には完全なる闇が訪れるだろう。
 いかにあの男が自分のことを探しに出たとしても、すぐに引き返すはずだ。そして『ホロビ』と共にいよう。
(どうやって呼び出そうか……)
 朝になれば、カザラは動くはず。そこを捕らえるのが得策だろう。
 その者は呼吸の間隔をしだいに長くしていった。
 朝までは、まだずいぶんと時間がある。それまでは、少し休み、力の完全たる覚醒を迎えた方がいい。
 その者は鼓動を静かに、静かに落ち着かせていった。
 心に残る小さなを研ぎ澄まされてゆく精神の中へ埋没させ、その者は静かに心力を昂ぶらせていった。
 全ては、『ホロビ』を殺すために――

 ちりちりと油滲む灯心に燃ゆる火の囁きが途絶えてから、ときはどれほど削られただろう。
 伏せた目を上げる度、同じ光景が何度も彼の目を殴りつけた。目前に物哀しく並ぶ、冷めきった料理の数々。そしてその先にいる、憐れにも心ひしげられた親友。
 ノマ・ライベル。ユリネ・ライベルの夫。幼なじみで、親友。そして、古からの身勝手な宿命を背負わされた者。
「…………」
 カザラは窓の外に目をやった。漆黒薄み始めた空、もう、一夜が明ける。
 二人は椅子に腰かけてからおよそ半日、動きという動きを見せていなかった。いや、動けなかったといった方が正しいのであろう。重過ぎる嘆きに、重すぎる罪に、彼等はただ沈黙し続けることしかできなかった。
 心を捕らえるのは、過去という底無しの沼。
 足掻いても、足掻いても、けして逃げることのできない。
「…………本当は」
 カザラが、つぶやいた。
 ノマに反応はない。人が住まわなくなった家の気配すら充満するこの場に、その中心に、ただ力なく存在している。
 だが、ノマが反応することなくとも、カザラは口を動かした。
 このままではいけないのだ。このままでは。打ち破らねばならないのだ。
「親方に認められたのは、半年ぐらい前なんだ。
 ……初めて認められた『仕事』をお前らに見せたかったのは本当だが、本当はな、口実だったんだ。ここに来ることへの」
 ノマに反応はない。
 カザラは嘆息混じりに上を仰いだ。
「本当はなぁ、会いに来たのは、胸騒ぎを感じたからなんだ」
 そしてそれは現実になった。
「だが、それはただの俺の妄想だと思ってたんだがな……」
 そう言えば、彼女は自分が来た日に初めてノマを殺す夢を見たと言っていた。もしかしたら、
「俺が来たから、目覚めちまったのかもな」
 ノマが反応した。小さく背を震わせ、顔をカザラに向け、すまなそうに言う。
「そんなこと……ないよ」
 その声はかすれていた。弱々しく、震えていた。昨日まであった朗らかな笑顔の面影の、その欠片すら、相貌から失われている。
 カザラは、静かに歯を噛み締めた。心の中に憎悪が蘇る
「そんなこと…………」
 ノマはそれだけを言うことに全力を尽くしたかのように、また力なく目を伏せた。
 カザラはそんな友人に笑顔を向けた。
「ライベル……どっかの言葉の『自由』から付けたんだったな」
 『一年後』の教会で再会した時、二人は輝かしい未来を展望する瞳で、そう名乗ることを教えてくれた。
「お前らは、本当にそうなんなくちゃいけないんだ」
 カザラは静かに立ち上がった。そして外につながる扉へと歩いていき、ごく自然にノブを手に取る。
「…………」
 扉を開けた所で、カザラは東の果てに滲む光を見た。
(最悪の夜明けだな)
 五年前の、解き放たれた美しい暁天を思い出し、皮肉気に思う。
 ――と、カザラは気配を感じて内へと振り返った。
 ノマは顔を上げてカザラを見つめていた。暗がりへ出て行こうとする友の姿に、五年前と同じ光景を重ねて見ていた。
「…………」
 カザラはただ……あるいは、何かを言おうとしているのかもしれないが……こちらを見つめている虚ろな双眸を見返し、少しだけ微笑んだ。
「行ってくる」

 一人、夜闇の残る外へと出ていったカザラの背中は、昔のままに力強いものだった。
 …………そう、昔のままに。
 ついこの間、ルシュが言っていた通りだ。
 同じことが繰り返されている。
 カザラの背中が昔のままだったように、『グゼ』も変わっていなかった。
 なぜこんなことになった。あの日から掟に縛られることなく幸せに暮らしてきただけなのに、なぜまたあいつが現れねばならない。
 宿命からは解放されることはないというのか。『グゼ』の、言う通りに。
 ライベル……辞書で知った、遠く離れた地で『自由』を意味する言葉からもらった名前。結婚する時に二人で決めた二人のための姓。それは幻にすぎなかったのか。
 いや、カザラは言っていた。そうならなくてはならないと。
 彼は、本当に昔のままだ。
 運命などに殺されてたまるかと、助けてくれた彼のままだった。
 今もまた、自分達を助けるべく一人で立ち向かっている。
「結局、僕は君がいないと駄目なんだね」
 カザラなくして、今はありえない。
 十年十月とつきに渡った牢中での生活は、彼が二日と置かず会いに来てくれたおかげで耐えることができた。人を恨まないでいられたのも、彼が笑顔をくれたからだ。そして何より、彼はユリネと引き合わせてくれた。ユリネとの『幸せな未来』のために命を懸けてくれた。
 なぜそこまでしてくれるのか聞いた時に、彼は笑って言った。
――――「友情だよ。……それと、運命とやらへの反逆かな」
 その一言だけのために、彼はどれだけの犠牲を払ったのだろう。あの日、家族も友人も左目も、彼は失った。なのに、彼は当然のことだと、自分達を助けてくれた。
 こんな、妻一人満足に幸せにしていない自分などのために彼はどれだけ傷つく気なのだろう。
「ユリネが頼りにできないのも当たり前だよね」
 今なら解る。彼女は『グゼ』が現れる兆しを感じていたのだ。それを悟らせないように嘘をついていたのだ。
 嘘をつくのも……当然だろう。
 こんな、自分の運命をカザラに助けてもらってばかりの男に、相談できるはずもない。
 カザラにはほど遠い自分が嫌になる。それなのに、自分がユリネを妻としている。彼の方が何十倍も彼女にふさわしいのに。
 カザラも、
 そう思っていたはず、そう思っているはずだ。
 彼が彼女のことを愛していると言ったわけではない。だが、きっとそうであったと思う。彼は、彼女のことをきっと愛していた。
 脳裏に巡る記憶の中、彼が彼女を見る目は、いつも慈愛に満ちた眼差しをしているではないか。
 それに自分は気づいていたはずだ。
 それなのに、なぜ彼から、ユリネを奪ってしまったのか!
「…………」
 ノマは涙をこぼした。
 それなのに、彼は今また、自分を助けようとしてくれている……。
「ああ」
 いっそ『ホロビ』として『グゼ』に殺されるべきなのだ。
「僕は――」
 だが死にたくはない。また、ユリネと幸せな生活を送りたい。
 ノマは前髪を引き千切らんばかりに握り締め、
「最低だ」
 絞り出された声で、うなった。

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