5
夕暮。エドリア村で商売をして来たカザラがライベル夫妻の家に帰ってきた時、戸を開けた先のリビングは薄暗く、夕食に備えて片付けられたテーブルだけが彼を待っていたように鎮座していた。
「ただいま」
中に入り、声をかける。すると、台所から前掛け姿のノマが現れた。カザラの顔を見るなり、笑顔になる。
「おかえり。売れたみたいだね」
「おかげさまでな」
背中の葛籠を下ろすカザラは、充実感に満ちていた。
「宣伝してくれてたみたいだな。目標、軽く超えたよ」
「そりゃ当然だよ。本当に、カザラの包丁よく切れるしね」
カザラはずいぶん軽くなった葛籠を足下に置き、少しこわった肩を回した。今日は品が売れるだけでなく、研ぎの仕事も多く入った。
ノマとユリネの友人。そのたった一つの情報で、かなりの信頼を得たためだということは、客との会話でよく分かった。
……本当に、彼等はこの村の一員となれている。
「そういや、晩飯もお前が作るのか?」
「うん。明日ユリネがかなり気合を入れるみたいだからね。今日は僕が作ることにしたんだ」
「…………そうか。……で、ユリネはどうしたんだ?」
「お風呂沸かしてるよ」
そう言って、ノマははたと思い出した。
「いけね。鍋、火にかけたままだった」
そして、台所へと一目散に戻っていく。カザラはその後ろ姿を愉快気に眺め、葛籠を客間に運ぼうと持ち上げた。
「ねぇ、本当に明後日帰るの?」
と、そこに、台所からノマが声をかけてきた。
「ああ」
「もう少しいなよ」
思わず苦笑して、カザラは言い返した。
「ユリネもそう言ってたよ」
「……ユリネが負かされたんじゃ、僕は何も言えないか」
「そういうことかな」
笑いながら肯定する。カザラはそれ以上のことを言ってこないノマがどんな表情をしているのか想像しながら、客間に葛籠を運んだ。
「…………さて」
カザラは腰を伸ばし、つぶやいた。
「ちょうどいいな」
ほとんど一緒にいるノマとユリネが分かれている今が。
彼は一度深く息を吐き、それからリビングに戻り、台所へと入る。
「ユリネを手伝ってくるよ」
「うーん」
横からののんびりとした返答に後押しされるように、カザラは勝手口の戸を開けた。
そして、林に面した風呂のかまどへ向かう。その時、カザラは家の壁沿いに歩く最短の道をとらず、わざわざ薪や食料が置いてある倉庫を回っていった。
一つはその倉庫に面した台所の勝手口と、かまどとの位置関係と距離を外から確認するため。そしてもう一つは、ユリネの不意を突くため。
「…………」
カザラは倉庫の陰から、家の裏手にあるかまどを覗き見た。
かまどには、ぼうぼうと火が揺らめいていた。まるでそこに在ることを拒むかのように小さく、まるでそこに在ることを謳うかのように大きく。幻かのごとく。
その赤に照らされて、ユリネは小さくしゃがみこんでいた。
何か思うことがあるのか、心ここに無い瞳で炎を見つめている。背を丸め、膝を抱え、少し――脅える風に。
(……当たりか)
ルシュの言っていたことは。
なかなか彼女は観察眼がある。そんなことを思いながら、カザラはユリネを驚かさないように足を踏み出した。
「あ」
気配に気づき、ユリネが振り返った。
「おかえりなさい。どうだった?」
「おかげで繁盛したよ」
気楽に笑いかけながら歩み寄るカザラを、ユリネは立ち上がって迎えた。
「良かったね」
「ああ」
立ち止まり、カザラは相対するユリネの傍らにある炎を一瞥した。
彼女はこれを見て、何を考えていたのか。
「……今日、おもしろいことがあったよ」
カザラは一瞬迷った後、すぐに本題に入ることにした。ここから台所にいるノマへ声が届くことはない。普通に、世間話をするような口調で。
「なぁに?」
ユリネが興味の瞳を灯す。カザラはそれがすぐに曇ることを確信しつつ、続けた。
「アカニネさん……ルシュに怒られたんだ」
「え?」
「展望台でお前と話した後にな。
あんたユリネさんに何か変なこと言ったのか!? ってよ」
「そう……」
ユリネの視線が泳ぐ。カザラは、彼女をひたと見据えたまま、口調だけは変えずに言った。
「あの娘は本当に、お前等のことが好きなんだなぁ」
「そうみたい。嬉しいと思ってるわ。いつもニコニコしてて、……でも、そう。ルーちゃん、カザラにそんなこと言ったんだ」
「ああ。まぁ、誤解だって分かってくれたがな」
「うん。私、元気だよ」
ユリネが笑う。
カザラはすかさず、
「俺が、お前に何も変なことを言ってないって分かってくれたんだよ」
「え?」
ユリネの表情が失敗を如実に表した。カザラは、彼女をひたと見据えたまま、腕を組んだ。
「ユリネ。何か隠してるな?」
「そんなことないよ」
ユリネは何とかごまかそうと、良い言い訳を探した。だが、見つからない。
夕暮の薄闇の中で、火影を映す一眼に射抜かれて、顔をそむけることもできない。
しかし、彼女はそれでも逃げ道を模索した。
このままでは、繰り返す夢を話してしまう。
明後日には帰る彼に、心配を植えつけてしまう。
(言えない)
だが、彼を頼りたい心が彼女の口を叩く。
彼ならばこの不安を消し去ってくれる。けしてノマには話せないこの恐怖を。
「ユリネ」
(言えない)
「……何を怯えてるんだ」
カザラは表情を緩ませ、優しく言った。
「何か話したいことがあるなら、話せばいいんだよ」
その言葉に、ユリネは堪えることができなくなった。
そして、カザラの胸に顔を沈める。
「……本当は、相談したいことがあったの」
そして、彼女は語った。
「最近、嫌な夢ばかり見るの」
その内容を。目が覚めた時に来る不安を。ユリネは
「そうか……」
その全てを聞き終え、カザラは震える彼女の頭をポンポンと叩いた。
「そんなもん、ただの夢さ。たまたま繰り返してるだけで、すぐになくなるよ。俺だって親方に殴られる夢を続けて見ることもある。
そんなもんだ。すぐに見なくなるさ」
「本当?」
ユリネはカザラの胸から離れ、恐怖に歪んだ表情で……悲鳴を上げた。
「でも日を重ねるごとにどんどんひどくなっていくのよ? 今日なんてノマを私が殺した所まで進んだ。これじゃあまるで、私――」
絶叫に変化しそうなユリネの口を、カザラは
「ユリネ」
その一言で止めた。力強い、その言葉で。
「…………」
油汗すら浮かべて、ユリネはカザラを凝視した。怯える子どもの眼をして、彼の言葉を待つ。
カザラは告げた。
「あいつはお前が倒した。もう終わってるんだ。気にしなくていい」
彼は笑顔だった。ユリネの不安と恐怖を受けてなお、笑顔で言いのけた。
「そう……そうよね」
「そうだ」
カザラがうなずく。大きく、自信を示して。
「……」
ユリネは、洗われた心から深い吐息をついた。
カザラの言葉に、笑顔に、安堵が満ちる。
「カザラが来てくれて、本当に良かった……」
「ん?」
ユリネの顔が安らいだことを見て、カザラは自身の心を安心させた。
「彼には、話せないことだったから」
「そりゃな」
当然だと慰める目をユリネにやりながら、カザラはかまどへ向いた。薪を拾い、少し弱くなっていた火の中へ放り込む。カランと乾いた音と共に、飛び起きた火の粉が乱れて舞った。
「でも……ごめんね。もうすぐ帰る時に、こんな話して」
「いいさ。それに、こういう話は大歓迎だ」
目尻を細めるカザラに、それがあまりに彼らしい言葉だったことに、ユリネは笑った。
「そうそう。お前はそうやって笑って、幸せであればいいんだよ」
「うん」
「…………!!」
悪夢に、
ユリネは飛び起きた。冷や汗を全身に流し、声にならない悲鳴を上げて。
彼女は震えながら、見開いた双眸に両掌を映した。
「……あ…………」
夜闇に滲むその手の平には、血などついていなかった。
おそるおそる頬をなでてみても、浴びた返り血などはない。
「夢……」
細く、つぶやく。
「…………」
ユリネは、深く息を吐いた。
夢、悪夢に決まっているではないか。でなければ、私がノマを殺すわけがない。
「どうしたの?」
気を落ち着けようと息を整えていた所に突然声をかけられて、彼女は心臓を跳ね上がらせた。
「何か悪い夢でも見た?」
こちらを気づかう声。夫の心配そうな顔が眼に浮かぶ。
ユリネは二つほど呼吸を挟み、それからノマへと振り向いた。
彼はやはりの表情を浮かべていた。
「ううん。大丈夫」
ユリネはそれと解らぬよう必死に笑顔を返した。生々しく手に残る、肉を抉る骨を砕く命を――奪う感触を、掌に爪を立てて打ち殺しながら。
「でも……」
ノマは体を起こし、妻の頬に手を当てた。
「汗びっしょりだよ」
「……大丈夫よ」
ユリネはノマの労りに、もう少しで泣き出しそうになった。崩れかけた顔を見られないよう、もう一度笑みを強めてすぐに体を横に倒す。
「……本当に?」
ノマは、自分に背を向けて毛布をかけ直している彼女に確認をとった。彼女の様子は、大丈夫と言われて納得できるようなものではない。
「本当よ。……ごめんね、起こしちゃって」
ユリネは彼の声音に、恐怖を感じていた。
優しいノマ、愛する夫。彼を失う絶大な恐怖が、彼の思いやりに触れるたび首をもたげる。
「おやすみなさい」
彼にこの嘘をつき通すには顔を見せることはできない。もし目が合えば、涙を堪えることはできない。
「…………おやすみ」
ノマは仕方なく言い返し、並んで横になった。
そして、胸中に嘆息する。
妻が嘘をついていることは明らかだ。最近、何か隠している。不安でもあるのだろうか。悩みでもあるのだろうか。
(……寂しいな)
そうならば、いっそ話してもらいたい。
妻が自分に心配かけまいと思っているならば、それはむしろ辛いことだった。
彼女が悩んでいるのなら、一緒に悩みたい。もし苦しんでいるなら、一緒に苦しみたい。
僕を気遣うことなどないのだ。彼女の全てを受け入れる覚悟は、出会った時からとうにできている。
それとも彼女にとって自分は、頼りになる
カザラのように――――
彼のように、
「…………」
ノマは苦笑した。
彼に敵うはずはない。あの、ぶっきらぼうに仁を与える彼に。背負わなくてもいいものまで背負う彼に。
本当なら、ユリネは彼を愛していてもおかしくないはずだ。もしそうだったなら、ノマは潔く身を引いていたことだろう。
だが、彼女は僕を愛してくれた。
……いや、彼女に頼りにされるされないは、たいした問題ではない。
「…………」
ノマは背を向けている妻に目をやった。
(…………僕は…………君を本当に幸せにしているんだろうか)
妻の細いうなじ、小さな肩を目に思う。ともすればすぐに壊れて、失ってしまいそうな……そんな気さえ湧き起こる。
あの日、僕はこの人と幸せになりたいと思った。
あの時、カザラは幸せになれと言った。
一人で幸せになることはできない。彼女も幸せでなければ、夢と約束を叶えることはできない。
「…………」
ふと、ユリネに聞いてみたいと思った自分に、ノマは自嘲に唇を歪めた。
(そんなこと聞けるはずもない)
そう問えば、ユリネはきっと悩んでしまうだろう。夫にそんなことを思わせてしまう自分の非はどこにあるかと。
聞けるはずもない。
(…………ああ、そうか)
ノマは静かに息を吐いた。
(僕だって、隠しごとしてるじゃないか)
ユリネのことは言えない。
だが、彼女の隠していることも、こういうことなのだろうか。
だとしたら、それは、ちょっと困ったことだ。
(なんとかしなきゃね)
ノマは深く息を吸った。これは早々に結論を出してはならない問題だろう。
(カザラか……ルーちゃんは何か知ってるかな)
とりあえず一歩は踏み出そうと決意して、彼は今は眠ることにした。
昨日依頼された研ぎの仕事の、最後の一本を届け終え、
「ありがとうございました」
料金を受け取ったカザラは、深く頭を垂れてこの村での商売を完了した。
自分に課された役を遂げた解放感に息をつきながら、南西の空を見る。太陽の傾きからして、今は三時といった所か。結局、朝から休みなく働き続けていた。だが体に疲れはあれ、心に疲れはない。
(時計がない生活も、いいもんだな)
この村には時計台がない。刻を告げるのは鐘舎の鐘だ。
その中心に位置する時計台に捕われた町に住むカザラにとって、一日を刻々と削られない
(親方の言う通り、いつかあの時計台壊してみるか)
いたずら心にそう思う。さすれば、いたずらに人がさもしく動き回る町も、少しはましになるかもしれない。
「……さて」
カザラは葛籠を背負い直し、つぶやいた。
「どうやって暇を潰すか」
ノマとユリネに、出かけ際に暮れの鐘が鳴るまで帰ってくるなと言われていた。どうも相当手を尽くす
早く帰るわけにもいくまい。そうすれば、きっと彼等はとても落胆するだろう。
「……」
落ち込んだ二人の顔を想像し、カザラはその顔から、朝方ノマに聞かれたことを思い出した。空を見上げ、胸中にその言葉を浮かべる。
――「ユリネ、何か悩んでるって言ってなかった?」
自分はルシュに言われるまで気がつかなかったものを、ノマは勘づいていた。
――「言ってたら、教えて欲しいんだ。力になりたいから」
カザラはその時はごまかした。彼女がお前に隠しごとをするものかと。
しかし、知っている。ユリネは、苦しんでいる。
言うべきなのだろう。本当は。だが、けして簡単に言える内容ではない。彼女の悩みが取り越し苦労だと分かっていても……判っていても、ノマにはそうそう言えたものではないのだ。
(……だが、言っておいた方がいいか)
ノマは幸せであり続けようと努めている。それは自分にとって何よりも尊重すべきことだ。
そこでカザラは空から地へと視線を落とし……と、こちらへ歩いてくる少女に気がついた。
「刃物売りさん。研ぎを頼んでもいい? それとも、もう店仕舞いかしら」
ルシュはカザラが自分に気づいたことを悟り、そう声をかけた。
「ええ。いいですよ」
カザラは冗談めかした彼女の言葉に、商売用の口で応えた。
「一つにつき10ディルの所、お負けして5ディルで承りましょう」
「本当?」
「ああ。余りは小遣いにでもしな。で、何本だ?」
「包丁一本と、鎌が三つ。評判いいよ、カザラの腕」
「信用商売なんでね。腕がなかったら
カザラは肩をすくめて、ルシュがカゴで持ってきた四本の刃を見定めた。
「これぐらいならすぐに済むな。あそこで……研いでも大丈夫か?」
彼が指差したのは、数人の女性が野菜の泥を洗い落としている共同水場だった。
「大丈夫だと思う」
「ならやっちまおう」
カザラは言うなり、ルシュからカゴを受け取ってそこへ向かった。
「明日、帰るんだよね」
「ああ」
ついてくるルシュに短く答える。
それに、彼女は思った通りだと胸中でうなずいていた。彼は自分に対する態度を、相当気を遣って作っていたのだろう。昨日までのそれとは随分違う。
「だったら今日、きっとまたごちそうだね」
「そのようだ。あんたも覚悟しておいた方がいいぞ」
「あ。わたしは今日いかないよ」
「?」
カザラは思わずルシュに振り向いた。
まさか彼女が来ないとは、想像すらおよばなかった。二人には、彼女を帰ってくる時に連れてくるよう言われていたのだが――
「昔なじみ水いらずで楽しんでよ」
「…………そりゃどうも」
ルシュの心配りに、カザラは少し口元を歪めた。
となると、自分一人にかかる食の負担が大きくなる。どうやら、胃薬でも用意していった方が良さそうだ。
「さて、なんか研ぎに注文はあるか? 切れ味加減をどうして欲しいとか」
水場について、カザラは葛籠を下した。蓋を開け、三種類の砥石を取り出す。
「おまかせするわ」
カザラは水場の末に陣を取り、腰を落とした。
「少し借ります」
前で野菜を洗う女性達に声をかけ、さっそく鎌の一つを手に取った。最も目の粗い砥石で、錆や刃こぼれを落とし整え研いでいく。
「ねぇ、これ……鎖の網?」
と、そのカザラに、彼の葛籠を覗き込んだルシュが問いかけた。
「……ああ」
彼は鎌を研ぐ腕を止め、彼女に顔を向けた。
「ちょっと違うな」
「なに?」
「
「あ、聞いたことある。鎧みたいなもんでしょ?」
「そんなもんかな」
カザラは目を手元に戻し、研ぎを再開した。
「これも売り物なの?」
「買う奴は戦に行く奴だ。今は売れるものじゃないな」
「じゃあなんで持ってるの?」
傍らに寄って来て、一定のリズムで研がれていく鎌を好奇の瞳で追うルシュの質問に、カザラは苦笑いを浮かべた。
「聞きたがりだな、あんたは」
「好奇心旺盛な年頃ですから」
さらりと言ってのけられて、カザラは嘆息混じりに笑いながら答えた。
「護身用だよ。取り越し苦労だったがね」
カザラを送るためのパーティーの準備は、つつがなく、静かに進められていた。
静かに……重々しく。
「元気ないね」
もうすぐ夕刻の鐘が鳴る。準備ももう完了する。
――その時、ノマはようやっと妻にそう言った。
「えっ?」
テーブルに小皿を並べていたユリネは、小さく肩を震わせて、ノマに振り返った。
「そ、そう?」
その声には、明らかに動揺があった。無理に笑顔を取り繕ってみせても、それが感情を隠せるには全く至らなかった。
「うん。時々、ぼんやりしてるし」
今日は珍しく、彼女は包丁で指を切った。それも、二回も。
「そんなことないわ……なんて、言えるわけないわよね」
バツが悪そうに言う妻の言葉に、ノマは期待を持った。もしかしたら、理由が聞けるかもしれない。極力平静を装って、彼は訊ねた。
「どうしたの?」
「…………明日、カザラが帰っちゃうなんて、寂しいから」
伏し目にユリネが言う。
それは真意ではあろう。ノマは少し気を落としながら、同意を返した。
「そうだね。でも、そんな顔してちゃカザラに心配かけちゃうよ」
「そう?」
ユリネは不安気に自分の顔を手で挟んで、
「それじゃ、こうしてなきゃね」
そして、笑ってみせる。
だが本当にそれが真意かどうかは、ノマには分からなかった。今日は、一段と彼女の様子がおかしい。しかし、それはカザラが来る前から見られたもののためか、それとも彼が明日帰ってしまうためなのか――それが判らない。
「そうそう。そうしてなきゃ」
判らなければ、今のノマには調子を合わせることしかできなかった。
「さて、あとはお酒ね。今日はノマも飲むでしょ?」
「あ、僕が取ってくるよ」
「大丈夫。カザラもそろそろ帰ってくるだろうから、ここで待ってて」
そう言って、前掛けを外しながらユリネは台所へと向かった。そしてノマの目が自分に届かない位置まで来ると、頬かむりを取り、解け落ちる髪を流れるままに静かに……深く深く息を吐いた。
(……ノマ、変に思ってるだろうな)
先ほど、夫に元気がないと言われた時、ユリネは心臓が飛び出るかと思った。あまりにタイミング良く声をかけられて、心を見透かされた気がしたのだ。
心を……夢のことを思う心を。
(今日は、なんでこんなに思い出すんだろう)
ユリネは嘆息した。
今日一日中、あの夢のことが頭から離れない。それどころか、どんどん鮮明に、脳裏に浮かび上がってきている。
……白昼夢と言うのだろうか。一瞬意識が飛びさえした。
(今まで……、こんなことなかったのに)
カザラが来た翌日から、急激に悪化している。
ユリネは前掛けと頬かむりを棚横の
一秒にも満たない内に見た白日の悪夢。その時彼女の視界は現実を映さず、そして手元を狂わせた。一度ならず二度までも。一度目は浅く、二度目は深く。
(絶対、ノマに心配かけてる)
再び、嘆息する。
私は絶対に、夫に心配をかけたくないのに……。
幸せになるのだ。そうあり続けるのだ。あの時誓った通りに。そのためには、心配、不安……そういったものは邪魔なのだ。あってはならない。だから、この胸の不安が彼に伝わる前に消し去ってしまわねばならない。ノマにこれ以上心配をかけたくないのだ。愛する彼に。愛をくれる彼に。
ユリネは時々思うことがあった。
ノマに出会えて、私はなんと幸せな人間なのだろうか――と。
夫と過ごしている時は何にも代え難く、夫と触れ合う度温かい気持ちが胸に広がる。彼がいるだけで、幸せになれた。
時々、ユリネには思うことがある。私は何のために生まれたか――
そう、
(私は、ノマを殺すために生まれた)
「……………………?」
一瞬、ユリネは自分の想いを理解できなかった。
(――今、何て?)
自問する。
自分はこう思ったはずだ。
(私はノマを愛するために――)
パチンと、脳裏で火の粉が
「――――――」
その感覚に、全身から血の気が引いた。
(私はノマを殺すために生まれたのだ)
思いもしないのに、脳裏に感情が生まれる。
「っ!!」
ユリネはこの感覚を、感情を覚えていた。
いや、忘れようにも忘れられるはずもない。
(私は――)
(違う!!)
ユリネは胸を抱き、絶叫した。心の中へ、心の中にまた生まれ出でたモノへと。
(私はノマを殺)
(私はノマを愛するために!)
(殺すために生まれた!)
「――――――!!」
ユリネは膝をつき、頭を抱えた。
脳髄を焼けた金槌で叩かれているようだ。胸が痛い。体中に油汗が滲む。
「ち、が……」
ユリネは口を動かそうとし、愕然とした。
声が出ない。舌が痺れ、喉は凍りついたように動いてくれない。
私の体なのに!
違う者が体を支配していく感触。再び現れた魂。
ユリネは悲鳴を上げた。
「――――――!っ!!」
だが、声にならない吐息がただ口を突く。
「わ…た、わたし…は」
そして、声ではない声が、静かに喉を震わせた。
(!)
ユリネは口を押さえた。
私はそんなことを言おうとはしていない! 言いたくない!
「こ…ころ…コロス…」
静かに、確認するようにゆっくりと唇が動いていた。
自分の意志とは無関係に腕が動き、手を口から離す。感触を確かめるように指を一つ一つ折りながら握り、一本一本開いていく。
ユリネは急激な、睡魔にも似た闇が自分に
(いや! あなたは出てこないで!)
ユリネは立ち上がった。
「わ…わたし…」
(違う!)
「私…は」
(ノマ!!)
ユリネは喉が裂けんばかりに叫んだ。この異常を夫に知らせるために。夫に、逃げてもらうために。
しかしその叫びは、吐息にすらなってくれない。
「私は…ノマ……ホロビを」
( たしは……ノ を… )
「殺すために生まれた」
ユリネは
「久しいな」
そう妻に言われて、椅子に座ってぼんやりとしていたノマは、怪訝に眉根を寄せて振り向いた。台所とリビングの境に、ユリネが佇んでいる。
「どうしたの? 何も久しいことなんか……」
そこまで言って、ノマはいつもと変わらぬ妻の外見からは予想だにできない殺意がこちらに向けられていることを察した。
ギクリと、椅子を蹴って立ち上がる。
「悟ったか。『ホロビ』よ」
「……まさか――」
「まさかではない。私だよ。久しぶりではないか、
「ユリネは……」
「眠っている。知っているはずであろう」
「そんな!」
ノマは悲鳴を上げた。
その様子に、ユリネはふむとうなずき、
「どうやら貴様は目覚め始めてすらいないらしいな」
そして一歩、また一歩とゆっくりノマへと歩み寄る。
「そんな……!」
ノマは後ずさりながら、声をひきつらせた。
「なんでだ!?」
「それも知っているはずだ」
妻の姿をしたそれは、冷たく言い放った。
一瞬にしてノマの眼前に移動し、彼の顔を手で挟んで静かに続ける。
「
「ふざ……けるな!」
「おや、あの者のようなことを言う」
ユリネは嘲笑し、ノマを突き飛ばした。軽く……それだけで、彼は宙を飛び壁に叩きつけられた。
「そうは言っても私が目覚めたのだ」
その時、玄関の戸を勢い良く開けて、一人の男が飛び込んできた。
「なんだ!? 今の音は!?」
左眼を眼帯で覆うその男の姿を見て、ユリネは感嘆の吐息を漏らすと、すぐに苦悶に咳き込むノマに目を戻して朗々と告げた。
「いずれお前も目覚めよう。その時、また会いに来るぞ」
「なに?」
その言葉にカザラがうめく。
同時にユリネは彼を押しのけ、夕暮に染まる世界へと飛び出していった。
――――そして、
何が起こったのか悟りながらも、ノマに事実を話してもらったカザラは、虚ろに双眸を泳がせる友の肩に手を置いて言った。
「少しばかり、帰宅は延期するよ」
黄昏には鐘の音が溶け込んでいた。カランカランと、暮鐘が鳴り響いていた。村中に日の終わりを告ぐ鐘舎の鐘。
カランカランと。
カザラには、それが無性にもの悲しく聞こえた。