4
―――――――
…………
なぜこんなことになったのだろう。
……炎
炎だ。
……周囲全て、幾重にも重なる灼熱に呑み込まれている。
他には何もない。炎だけがある。
一番初めに火の手が上がったのは、誰の家だったのだろう。もはや周囲には何もない。赤く泡打つ大地と、その上で荒れ狂う炎だけが、そこにある。
なぜこんなことになったのだろう。
その中に独り、彼女はあてもなく歩いていた。
なぜこんなことになったのだろう。
心の中、その一言だけが繰り返し渦巻いている。
「お前のせいだ!」
怒号が世界を揺るがした。彼女は、声のした方へぼんやりと目をやった。
炎の一端が憎悪に歪む顔を造り上げ、彼女を睨みつけていた。
「お前のせいだ!」
炎の顔が犬歯をむき出して叫ぶ。声が重なった。反響し、折り重なり潰れながら、声が。
「お前のせいだ!」
炎の中に、無数の亡者がいた。黒焦げになり、虚ろな双眸をこちらに向ける子供。飛び出した腸を引きずる女。顔面の半分が抉られた男。体中が
それらが彼女へと、絡み合い溶け出し這い出してくる。
「お前のせいだ!」
口々に叫びながら、彼女の足を掴み、太腿に食いつく。彼女の体を
「…………」
彼女は為すがまま、死霊達を見つめていた。
そうだ。私のせいだ。
「そうだ。お前のせいだ」
唐突に炎がかき消えた。周囲は一切闇に包まれ、天も地も判らない。
「お前のせいだ」
その声は静かだった。静かに、背後から心を震わせた。
振り向くとそこには、左目を異様な大きさに腫れ上がらせた男が、腐敗した血を吐き出しながら佇んでいた。
闇の中に、気味悪いほど鮮明に、佇んでいた。
「カザラ……」
乾いた喉からは、かすれた声しか出なかった。
カザラは彼女の呼びかけには答えず、ただ一言吐き捨てた。
「お前が殺した」
彼は自ら左目をその指で抉り出し、それをこちらに放ってよこした。
「カザラ!」
彼女が叫ぶ。
彼は闇に消えた。
「……カザラ」
彼女は何もない世界に取り残され、どうしようもなく立ちすくんだ。
何もない世界……いや、違う。
彼女はカザラが放った目玉がどこに行ったのか、周囲を見回して探した。だが、どこにもない。
周囲には。
彼女はふと足下に触れるものを感じ、目を落とした。
「ひっ!」
足下に、そこに、
「ノマ!」
夫の無残な生首が転がっていた。
「ノマ!」
彼女はかがみ込み、夫の首を抱き上げようとした。
と、突然首がけたたましい笑い声を上げて虚空に浮かび上がった。
そして、叫ぶ。
「お前が殺した!」
「…………!」
声にならない悲鳴を上げて、ユリネは目を覚ました。
「……………………」
目を大きく見開き、動悸激しい胸を押さえる。
「…………………………」
視界には、天井が映っていた。
闇はある。
だが、月光が溶け込んだ闇は、薄蒼く周囲の物々を浮かび上がらせている。暗黒を塗り固めたようなあの闇ではない。
そして、そのどこにも、深い憎悪の眼を向ける夫の首などは、ない。
(……また、この夢)
ユリネはゆっくり上体を起こした。
隣で安らかな寝息を立てるノマを起こさないように気をつけて、彼女はベッドを降りた。
彼女はびっしょりと汗をかいていた。嫌な汗だ。悪夢に体の中が絞られたように感じる。
胸はまだ早く鼓動を打っていた。
(なんて、嫌な夢)
今日ほど酷い悪夢は初めてだった。
悔いにも罪の意識にも似た感情が、悪夢が削り出した恐怖の欠片が、心身に突き刺さり目覚めてもなお彼女を苛んでいた。
「……はぁ」
髪を掻き上げ、ユリネは理由もなく湧き起こってきた不安を治めようと、小さく息を吐いた。そして、夫へと目を向ける。
ノマは、穏やかな寝顔だった。何の不安も感じさせない、安らかな表情。少し口元が笑っているようにも見える。もしかしたら、夢の中でもカザラを歓迎しているのかもしれない。
「……」
ユリネは昨夜のことを思い出した。
久しぶりに三人で取った食事。カザラの話。ルシュも交えての会話。
楽しかった。本当に。
あれほど笑ったのはいつ以来だろう。
ユリネは静かに部屋を出て、客間に足を向けた。
唐突に不安になったのだ。本当にカザラがここにいるのか。確かに彼が客間に入っていき、おやすみと言葉交わしたのに……彼が消え去ってはいないか恐くなったのだ。
夢の中と同じように。
静かに客間の戸を開けて見てみると、用意したベッドの上にカザラが横たわっていた。
旅の疲れが出たのだろう。よほど深く眠っているようだ。
ユリネは彼の存在に安堵の吐息をつき、戸を静かに閉めた。
「…………」
心は幾分落ち着いてきた。
ホーホーと、森から梟の鳴き声が聞こえてくる。虫の音が聞こえるにはまだ時期が早い。代わりに、風に触れた葉がさわさわと鳴いていた。
平和な夜だ。この時を脅かすものなど、何もないではないか。
「――――」
だが、恐い。心の隅に残る恐怖が、消え去ってくれない。
……………………………消え去るはずもない。この悪夢は……。
(…………カザラに、相談してみよう)
彼ならばきっと、良い助言を与えてくれるはずだ。
客間の戸を見つめ、その向こうの幼なじみを思うと、急に彼女の心は落ち着きを取り戻していった。
勝手なものだ。こんな相談をしたら、カザラは迷惑だろうに。
しかし、彼がいるということは、何よりも心強い。
「……だめね。また頼ってる」
独り自嘲気味に笑って、ユリネはカザラに囁きかけた。戸に指を触れ、祈るようにつぶやく。
「おやすみなさい、カザラ」
そして、彼女は足音を立てないように寝室へと戻っていった。
日も南にさしかかった頃、カザラは村の全景を眺めていた。
村の背にある丘陵の中腹、崖の上にある展望台。落下防止用の柵の前には、爽やかな風が気ままに踊っている。
今日はいい日和だ。
抜けるような青空。素晴らしいほど青く、雲一つすらない。大空に溶け込みながら初夏の陽光は地に降り注ぎ、広がる新緑を讃えている。
木々の若葉、畑に麦、菜の果実。濃淡彩り、風に揺れる緑の波がうねり和らぎ打ち寄せあう。
平野の中に広々と
畑を前に、ぎゅうと家々を一纏めにしたようにある居住区には、黄褐色の屋根が不揃いに並んでいる。煙突からはまちまちに、昼食の兆しと狼煙が上がっている。
カザラは、この光景が切り取られた一枚の絵のように感じていた。
「……少し似ているな」
カザラは小さくつぶやいた。
昨日は村の様子を観る余裕なく気がつかなかったが、確かに、少し『故郷』を思い起こさせる。
「カザラ」
唐突に名を呼ばれて、しかし驚いた風もなく、彼は背後に振り返った。
「どこかに行くなら言ってくれれば良かったのに」
現れたのはユリネだった。髪を後ろでまとめ、
「似合ってるな、その格好」
「え? そう?」
カザラの言葉にユリネは嬉しそうに頬を緩めた。しかし、すぐにはっとして、
「じゃなくて、言ってくれれば案内したのに」
ユリネは腰に両手を当て、カザラを見る。彼はからかい半分に笑っている。
「起きたらもうお前達は仕事に出てたんでな。……朝めし美味かったよ」
「どういたしまして」
ユリネは笑顔で言う。しかし、目は笑っていない。そんなに黙って歩き回ったのが気にくわないのか。仕事を邪魔しないように気を遣ったのだが……。
「分かったよ。悪かった」
両手を挙げて、カザラは降参した。するとユリネは、今度こそ本当に笑顔を見せた。
カザラはやれやれとため息をつき、再び村へと体を向けた。
「いい村だな」
「でしょう?」
カザラの隣に並んで、ユリネは誇らしげに胸を張った。
「しかし……なんでここにいるって分かったんだ?」
「ケネルさんが、ここを教えたって、教えてくれたわ」
「ケネル?」
「聞いたんでしょ? 村を一番見渡せるのはどこかって」
「ああ……あのじいさんか」
カザラは花壇の世話をしていた固太りの老人を思い出した。そしてふと笑みを浮かべる。
「どうしたの?」
「いや……お前達がこの村でうまくやってるとよく解ったもんでな」
「……どうして?」
「俺はこんなんだからな」
左目の眼帯を、次いで両腕を開いて自身を示し、続ける。
「どうも人を怖がらせちまう」
昨日も、ルシュが応じてくれるまで、自分の前を通り過ぎた者は多かった。だが誰もが自分に関わりたくないと、無言ながら全身で宣言していた。子ども達はあからさまに、畑仕事帰りの大人も、こちらを見ても目が合えば顔に警戒を滲ませていた。
ルシュに声をかけることにしたのは、日没が迫っていた焦りと、ユリネ達が
しかし無理もない。カザラ自身、理解している。自分の姿、雰囲気、何より人への不信が、自分は強すぎる。
「だが、ユリネとノマの友人だって前置いたら、皆親切にしてくれたよ」
それはそのまま、彼女等に対する信頼に直結している。
だというのに、自分の言葉にユリネが怪訝を見せたことが、カザラには解せなかった。
「……どうしたんだ?」
「カザラって、怖いかな」
彼女の顔に不満が加わる。
「とてもいい人なのに」
「……そりゃどうも」
カザラは苦笑を噛み殺した。幾度も思うことだが、ユリネは……いや彼女と彼は自分を買い被っている。
カザラは吐息を一つついた。
「まぁ何にしろ、これで心配事はなくなったよ」
その言葉に、ユリネは小さく心を震わせた。
心配事はなくなった――
「……」
「そういえば、ノマはどうした?」
「え? あ、ノマは洗濯してる。今日のお昼は自分が作るって」
「そうか」
カザラは右目を細めて村を、それから親友夫婦の家の方向へと視線を移した。それをユリネは見つめていた。
彼の横顔は、以前より
(…………)
そうだった。ユリネは思い出した。
彼は、私達のために苦しんでいた。そして、きっと今も。
彼はそういう人間だ。私達のために、背負わなくてもいい苦しみを自分から
それはとてつもなくありがたく、それはたまらなく辛い。
「…………」
ユリネは口元を引き締めた。
カザラを探していたのは、正直なところ、悪夢のことを相談するつもりだったからだ。
なぜ、彼に相談しようと思った時に気づかなかったのだろう。また頼っていると気づきながら、なぜ彼の想いにまで気が回らなかったのだろう。
「ユリネ」
「え?」
「明日帰るよ」
「え!?」
ユリネは驚いた。けして
「どうして!?」
「そんなに間を置けないんだよ。親方にもらった休暇も限りがあるしな」
「でも早すぎるわ。もう少し、もう少しだけいてもいいじゃない」
ユリネはカザラの袖を掴み、必死に説得した。
帰って欲しくない。彼とまだ、もう少しだけでも一緒にいたい。
ノマと、三人で。
「……分かったよ」
嘆息して、カザラは言った。
「明後日にする」
「……あまり変わらない」
「時間は関係ない。もう、十分安心できたしな」
「…………」
ユリネは口まで出かかった言葉を、彼の一言に詰まらされた。
(……だめね)
彼女は胸中で嘆息した。
帰って欲しくないのは、まだ彼と過ごしたいからというのは本当だ。しかし一方で、性懲りもなく彼に頼りたい自分が強くある。繰り返される悪夢に喚起される、この不安を消して欲しいと。
だが相談することは、もうできない。してはならない。
彼を、心配させたくない。
「分かったわ」
ユリネは彼の袖を離した。
「それじゃあ、明日の夜はごちそうにするね」
「おいおい、昨日のでもう十分だよ」
ぞっとする彼女の提案に遠回しの拒否を示すが、もはや彼女は聞いていなかった。
踵を返し、肩越しにこちらを見ながら言ってくる。
「帰りましょう」
「……いや、俺はもう少しここで景色を眺めてるよ」
「そう? それじゃあ、お昼ごはんまでには帰ってきてね? しばらくしたら正午の鐘がなると思うから」
「ああ」
ユリネはカザラの了解に笑顔を残し、道を降りていった。
「…………」
彼女の背が木々に隠れて見えなくなるまで見送り、カザラはまたぼんやりと村の景色に目をやった。
「あれ?」
畑の雑草取りをしていたルシュが腰を伸ばそうと体を起こした時、ふいに彼女の視界に見慣れた姿が飛びこんできた。
「ユリネさんだ」
丘陵から続く道を、一人で歩いてきている。
ルシュは彼女に声をかけようとして息を大きく吸い、ふと気づいた。
ユリネは、うつむいて歩いている。落ち込んだように、元気がない。
「……どうしたんだろ」
ルシュは声をかけることを躊躇い、ふと思い当たって展望台に目を向けた。
確か、先刻カザラがあの道を丘陵に向けて歩いていた。
「いた」
目をこらすと、村を見下ろせる展望台に人影が見える。
「あいつ……!」
こうなったら考えられることは一つだ。きっと、彼がユリネに嫌なことを言ったに違いない。
「お父さん、お母さん、後で仕事ちゃんとするから!」
そう思い達したと同時、ルシュは両親の返事も聞かずに走り出していた。
「ちょっとあんた!」
突然参上するなりそう怒鳴ってきた少女に、カザラは意を抜かれて目を
そろそろ帰ろうかと足を道に向けたちょうどその時に、息
その顔は怒りにまかせて、眉も目も吊り上っている。
「……何か?」
肩で息をするルシュに、カザラは戸惑いながら問うた。
「ユリネさんに何をしたの!?」
「…………?」
ルシュの怒声に、カザラは惑いをさらに深めた。一体何のことで彼女が怒っているか見当もつかない。少なくとも、ユリネが絡んでいることだけは判るのだが……。
ルシュは呆気にとられているカザラの様子に、腹を煮る怒気の温度を上げた。
彼に詰め寄り、睨みつける。
「ユリネさん元気なかった! あんた、何か変なこと言ったんでしょう!?」
彼女の真剣な怒りを真正面から浴びて、しかしカザラは疑問を覚えた。
「……ユリネが、元気なかった?」
「そうよ! さっきユリネさんうつむいて歩いてた。あんた、ここで会ってたんでしょ!?」
ルシュは、カザラがユリネを傷つけたと確信していた。理由はない。だが状況から、そう考えるのが自然だった。
いかに昨夜、この男と彼女達が仲良いことをさんざん見たとしても、そうとしか考えられなかった。
「何したのよ! ことによっちゃ許さないわよ!」
ルシュは物凄い剣幕でカザラにくってかかった。
その表情は十六の少女のものとしてはかなりの迫力を備え……思わず、カザラは笑い出していた。
「な……何よ」
唐突に笑い声を上げられて、ルシュは顔を紅潮させた。
「何がおかしいのよ!!」
ルシュは叫ぶが同時、自分でも信じられないことに、彼の顔面へ平手を飛ばしていた。
「おっと」
それをカザラはたいして慌てる風もなく掴み止めた。
怒りどころか平手打ちも軽く受けられ、ルシュはあんまりなことに絶句した。それでも言葉を吐こうとする口が、しかし二の句を継げられず滑稽にぱくぱくと空を噛む。
「落ち着いて下さい」
ルシュの手を離して、カザラは言った。
「お……落ち着けるわけがないでしょ! 怒ってるのに!!」
「いや、それは嬉しいんですが……」
「……え?」
今度はルシュが、呆気にとられた。何を言っているのだろう、この男は。怒られるのが嬉しい?
「ど……どういうことよ」
「どうやらアカニネさんは、ユリネのことで怒っているようだ」
「そうよ」
「……それも真剣に、一生懸命。それは、それだけあいつを想ってくれているからでしょう?」
カザラは語尾を上げ、歯噛みしているルシュに同意を求めた。
それにルシュは多少戸惑い……やおらうなずいた。
「それが、嬉しいんです。あいつは……あいつらはいい友人を持った。本当に」
カザラは笑顔だった。まるで自分のことのように、本当に喜んでいる。
「…………」
その様子に
「それで……」
妙なわだかまりが胸に残り、あれだけ怒鳴った手前どうしたものか困惑していたルシュに、カザラは訊ねた。
「ユリネ、元気がなかったってのは本当ですか?」
「……ええ」
ルシュは少し口を尖らせ
「あなたの……」
訊き返そうとして、気づいた。
カザラは何か思案するかのように目を落としていた。そしてその表情は、恐いくらい険しかった。
ルシュは問いを続けることができなくなった。
彼は、もしかしたらユリネを知らずに傷つけたのかもしれない。その可能性を思い返しているのだろうか。だとしたら、こんなに真剣に思い悩むのは、彼がそれだけユリネを傷つけたくないと思っているからであろう。
(…………違う)
しかし、ルシュは彼の表情から、彼が過去の自分の言動を検討していないことを察した。
彼の表情は、険しい。不安と恐怖が入り混じっているように、最悪の場面を前にした医者のように、険しかった。
「…………」
何を思っているのかは分からない。だが、どうやらカザラがユリネを傷つけたということはなさそうだ。
……だが、ではなぜ、ユリネはあんなに沈んでいたのだろう。
ルシュは胸中で嘆息した。
なんだか、目前に立つ隻眼の男が現れてから、全てがずれているような気がする。厄介な感情が湧き起こり、
(……ああ、そうだ)
そこで、ルシュは昨夜の疑念を思い出した。
「あの、イエリさん」
「――え?」
カザラは自分が呼ばれたことに一瞬気づかず、遅れてルシュへと顔を向けた。
「なんです?」
「えっと…なんか、怒ったの……わたしの勘違いだったみたいで、ごめんなさい」
「ああ、別にいいです、そんなこと」
「……それで、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「……どうぞ」
カザラは手持ち
「昨日、お礼を言ってたけど」
「ええ」
「何のお礼なんです? わたし、何かしましたか?」
「ええ」
あっさりと、カザラは肯定した。それはあまりに自然で、当然だとでも言いたげに。
「何をです? 心を温めてくれているって…言っていましたけど、わたし何もしていません」
ルシュの率直な問いかけに、カザラは右目を細めた。
なるほどこの娘は、本当に素直だ。先ほどの怒りの表現もそうだったが。
「……」
カザラは手紙の文面通りだと笑い出しそうになったが、それを堪えて今一度展望台から村を眺めた。
「……あいつらって、ここでどう言われてますか?」
背を向けたカザラに問われて、ルシュは即座に答えた。
「いい評判だったら、何とでも」
「それは、アカニネさんのおかげですよ」
「わたしの? そんなわけないじゃないですか」
ルシュがバカバカし気に言う。カザラは彼女に振り返り、
「そうなんですよ。あいつらの馴れ初めは話したでしょう?」
ルシュはうなずいた。
昨日、その話題の答えを初めて聞いたのだ。本人達は恥ずかしいからか話してくれなかったものを、カザラが教えてくれた。
ユリネは良家のお嬢様で、ノマは平民だったために結婚どころかつき合いも許されず、そのため駆け落ちしてきたのだという。カザラはユリネの家の使用人で、それを手助けしたらしい。
その事実に……リサやエリーにも自慢できる、燃えるような恋愛をノマ達がしていたことにルシュは感激し、さらに憧れを増したのだが。
「おかげで少し、あいつら人間不信になりかかってたんですよ。周りがうるさすぎたから。おまけに遠い地から流れ着いた所で全く新しい生活を始めなきゃならない。あれこれあり過ぎて少し凍えていたあいつらの心を、君が温めてくれた。話しかけ、遊びに行って……ね」
ルシュは彼の答えに、ようやく納得した。そういう意味だったのかと。
だが、
「……でも、それならなんであなたは一人で、エッセルドルクなんて遠い所に住んでるんですか? 友達だったら近くで一緒に住んで、あなたがユリネさん達を助ければ良かったのに。それなのに、手紙の一つもよこさなかったんでしょう?」
非難をこめて、ルシュは言った。ユリネ達がどれほど大事に、カザラを思っているか知っているからこそ。
「……感謝されるのが恐かったんでね」
「どういうことです? 感謝されるのが恐いなんて」
「ほら、あいつらは真面目すぎるから、俺が側にいるとずっと俺に感謝し続けちまう。だから離れたんですよ。あいつらの世界を狭めないように」
言いながら、カザラは胸の内で失笑していた。我ながら、よくこうも澱みなく嘘がつけるものだ。半分は、本当のこととはいえ……。
「そのおかげでできなくなったことを、アカニネさんが代わりにやってくれた。だから、ずっと思ってたんですよ。いつかお礼を言おうって」
「……」
ルシュは沈黙した。
カザラの言い分に、もはや口を挟めない。それでも友達なら側にいて……と言おうにも、彼の行動もまた友のできることだと納得してしまった。
両方しろと言おうにも、世はまこと都合良くできてはいない。
確かに、彼が近くに在れば、ノマ達の性格だ。彼を大事にしすぎるかもしれない。昨夜のことを思えば、それを確信もできる。
「はぁ」
ルシュは吐息をついた。
認めざるをえない。カザラは、あの二人にとって何よりも代え難い親友だ。
(嫉妬しても、意味ないな)
彼女は少し微笑んだ。
「さて、それじゃあ。俺は失礼させてもらいます」
と、カザラはルシュが納得した様子を見て取って、帰り道に足を進めた。
「あ、ちょっと」
「?」
ルシュをかわした所で呼び止められ、振り向く。
「あの……わたしのことはルシュでいいです。それと、普通に喋って下さい。けっこう無理してるんでしょう?」
彼女はにこりと、初めて彼に素直に生まれた笑顔を向けた。
「わたしも、そうするから」
「……」
カザラは思わず、彼女の姿に口の片端を引き上げた。
「俺のこともカザラでいい」
そう言って、彼は姿勢を正した。
「俺は明後日帰るけど、あいつらをよろしく頼むよ」
そして一度頭を垂れ、踵を返して坂道を下っていった。
ルシュと別れ、親友夫婦宅への帰り道。カザラは、目も鋭く独りごちていた。
「何かあったのか? ――あるのか……」
思い返せばユリネの様子が少しおかしかったようにも思う。
なぜその時、気がつかなかった。
「…………」
カザラは脳裏にある一抹の不安に舌を打った。